三里

1LA00257P 山縣弘嗣  1LA00021R 井上圭一

調査日:2001年6月30日

 福岡市からバスに揺られること数時間…最初にバスから降り,地図を広げつつ山の方向に進む。場所の確信が持てぬまま歩き,後方から追いついてきた車に道を尋ねる.そこに乗っていた,夫婦と思われる中年の口から出てきたのは,授業中に紹介された佐賀弁。思わず顔を見合わせニヤリとした。三里と嘉瀬の坂の場所を聞いたところ,付いて来いと言われ走り出す車。その車を追いかけ走ること数百メートル,車は,車が一台通るのがやっとの細い道の前に止まる。話によると,目指す場所はその細い道をずっと登り,「太か道」を選んでいけば着くらしい。その夫婦が,最初に車はどこに置いているのか,と尋ねたことが気になったが,そのまま礼を言いその小道を登り始めた。道を教えてくれた夫婦が歩いて上ることを止めた意味を実感しながら,そのまま上り続けること約1時間,振り返れば木々の隙間からはるか下方に有明海が見える。道路の両側には人の背丈より少し高い木が,緑色の柑橘類の実をつけている。地図で調べたところ,地図記号では確かに果樹園のマークがついていた。太い方の道を選び,登りつづけるとやがて舗装された2車線の道に出た。地図と照合し,現在位置を把握,嘉瀬の里と三里に組にここで分かれたほうがいいと判断し,不安を覚えながら2人ずつ逆の道へ進む。

 やがて道沿いに「三里(SANRI)」と書かれた標識を見つけた。教授は「みさと」と読んでいたためそう思いこんでいたが,間違いであることが判明。今回の調査の最初の収穫である。時計を見ると,まだ予定の時間までは1時間ほどある。とりあえず,お願いしていた堤さんの家を確認してから食事をしようと,堤さんの家と思われる家の前まで歩いていった.すると偶然にもその家の前で話を聞かせていただくようお願いしていた堤さんと遭遇。そのための準備をしていらしたらしく,町史を手に抱えていらっしゃった.最初は公民館で話を聞かしていただく予定だったが,私達の聞き取りの目的がしこ名であることを説明すると,実際にその家々に尋ねなければ分からないということで,歩いて回ることとなった。ちなみにしこ名という呼び名はここでは一般的ではないようである。2,3件の家を回り,他の家の人は田んぼで仕事中ということで、実際に聞きに行くために案内してもらった.

 その途中で小字表にもある前田を通った.ここは一帯の蜜柑園である.ここは以前は稲を植えていたとのことである.いつ頃から蜜柑を栽培するようになったかと尋ねたところ,10数年前からとのこと.少なくとも,10年ほど前の旱魃(1994年の旱魃か?)のときにはこの一帯も塩害にあって大変だったそうである.斜面という地形と面積当たりの収穫量のために,稲から蜜柑に切り替えたそうであるが,それ以降にオレンジの輸入自由化などが行われた関係もあり,農家が苦しいことには変わりがないとのことである.

 また,道路の隣を流れる水路のすぐ脇にお地蔵様が奉ってあるのを発見した.堤さんによれば,「こうぼうさま」と呼んでいるらしい.漢字は弘法様となるらしく,弘法大師と関係があるとのことである.この「こうぼうさま」は三里には5つあるらしく,全て水辺にあるらしい。後に出てくるが,カンザンと呼ばれる水源にもこの「こうぼうさま」があるとのことだ.

 さらに進むと左手で哺場整備が行われていた.更には,広域農道が建造中とのことらしい.後数年遅れていれば,この調査の結果も別のものになったかも知れず,また後数年早かったならそれはそれで別の結果だったかも知れぬ.現在休耕している田を横目に進むと,ちょうど休憩している三里の方が4人ほどいらっしゃった.早速しこ名のことを聞くと,次から次に出てきてあっという間に地区中が埋まってしまった.ついでということで,脇を流れる川の名前を聞いたところ,知らないという答えが返ってきた.とりあえず「三面コンクリ」にしておけとのことであった.次に屋号を尋ねたが,このあたりでは屋号をつける風習はあまり一般的でないらしく,期待していたような答えは返らなかった.唯一あった屋号が「タカシカキ」。これは昔の地主の屋敷であった.語源としては高い石垣があったから,だそうである.この石垣は現在もきれいに残っている.なお、この地区の地主は「さかもと」という家であったらしい.以上が冷たいお茶をいただきながら池田さんに教えていただいた内容である.記念に農作業(マルチ張り)をしていかないかという話もあったが,時間との関係上,丁重にお断りしてその場を立ち去った.

 次にお訪ねしたのが永石研三さん(71歳)のお宅.ここでもまた幾つかのしこ名を聞くことができ,その他にも,いろいろな話を聞くことができた.まず,事前に渡されていた小字表に記載されていた地名に「カンカン石」というものがあったが,これは永石さん以前に尋ねた方に知る人はいなかった.駄目でもともとと思い尋ねたところ「そりゃカンイシじゃないとや」との答えが返ってきた.別の場所で聞いた「ソーヤ」という場所を「カンイシ」とも呼ぶらしい.前に記した「こうぼうさん」が奉ってあるという水源地である「カンザン(官山)」についても詳しい話を聞くことができた.それによると,戦前戦中,その「カンザン」と呼ばれていた場所は,水源地であるために国有地であったらしい.それが戦後になって払い下げということになった.そのときに個人に払い下げることはできないので自治体に払い下げということにしたらしい.元が国有地であったため,「官山」という名がついたとのことである。このような話を知っているのは現在では永石さんぐらいだそうである.また,三里を流れる川(以前「三面コンクリ」と呼んだ川)についても名前を聞くことができた.ナカムラ(中村)川というのがその名である。この川がある程度下流になるとミシモ川(水下川か?)と名を変えるらしい.他には,この地区には西方院という建物があるらしい.これはふつう「あんどさん」と呼ばれ,仏教系の寺院である.ここははるか昔は寺子屋であったらしい.これが発展していき,周辺の地域(嘉瀬の坂,板の坂,風配,御手水)と合同で,現在の三里分校になったそうである.これは堤さんの話であるが,この分校は10年ほど前には5名程の児童が,現在は8名の児童が通っているそうである.永石さん自身は若い頃三里分校等の教師であったらしく,話がわかりやすかった.が,年配の方ほど方言が聞き取りにくく,気を抜くとついていけなかったことも事実であることを記しておこう。

 以上が今回の調査の結果である.この地区のしこ名をほぼ残さず集めることができたと思うが,これは全て常に聞き込む先を教えてくれ連れて行ってくれた堤さんと,忙しい中快く話を聞かせていただいた三里地区の皆さんのおかげである.


三里地区のしこ名

 ナカムラ(中村)の中に
・ソーラ  これはカンイシ(カン石)とも呼ばれる.
・ カンザン(官山) 元が国有地であった。
・ キシノシタ(岸ノ下)
・ ヤネワラ
・ カキゾエ(垣副) 垣添とも書くらしい.
・ モイ モリ(森)とも呼び,神さまが棲むとされている.
・ トッパタイ トビワタ(飛渡)とも呼ぶらしい.
・ アラヒラ(洗平) 現在広域農道工事中
・ ハタケダ(畑田)
・ ハヤマ(葉山) 小字表に別にあるがここもナカムラらしい
・ イワノシタ 同名のしこ名が別にある

 ウシロクボ(後ロ久保)の中に
・ ウシロクボ(後ロ久保)
・ ハカシタ(墓下) 名の通り上には墓がある
・ イノシモ

 マエダ(前田)の中に
・マエダ(マエダ)

以下のしこ名はどの小字に属するのか不明である.
・ アンノマエ 西方院の前である。
・ トウワラ
・ ツツノカド(筒の角)
・ イワノシタ 同名のしこ名がナカムラの中にある.
・ グンネンガワ
・ ツジ(辻) 山の辻の意味らしい
・ マツヤマ(松山) 昔,松が植わっていたらしい
・ ムカエ 川の向こう側の意味らしい
・ イエノマエ(家の前) そのまま家の前であるから.