太良町御手水の場合 1LT01073Y 鈴木 克 1LT01115E 廣田 雅一 話を聞いた方:津賀田 昭五郎さん;昭和2年7月20日生(73歳) 私達は事前に連絡しておいた岩永勝利さんのご紹介で津賀田昭五郎さんのお宅を訪ねた。津賀田さん宅への道のりはやや複雑で、何度か迷った挙句、30分ほど遅れてついた。津賀田さんはもう庭まで出て私たちを待っていてくださった。「車じゃなかとね。」と私たちがここまで徒歩で歩いてきたことに驚いているようだった。部屋に案内されると「じゃあ、なんについて話したらよかろうかね。」とこちらが言い出す前から、津賀田さんはやる気満々で、自分の知っていることを早くこの若い者たちに教えてやろうという気持ちが伝わってきた。「では、まずしこ名についてお聞きしたいんですけど。」と私たちが聞くと、「まあ、わしもそのことについては大まかにしか知らんけどね。」とおっしゃりながらも、しこ名が30近く書き出された紙をすでに用意されていた。 津賀田さんはしこ名について話す前にまず、御手水という名の由来について話してくださった。それは大昔、第12第天皇の景行天皇が、当時朝廷の命令を聞かなかったクマソを征伐するために肥後の国に赴いて、クマソを征伐しその戦勝祝いのためにここ御手水でその御手を水で洗い清め、的射りという儀式を行ったことに起源があるということだった。また御手洗という地名は多くあるが、ここのような御手水という地名は少ないということもおっしゃった。さらに太良という地名は、このとき景行天皇が'ゆたたりの里'と言ったところに由来するそうだ。それから、本題のしこ名に質問を移した。まず、御手水の入り口というべきところをミズグチ(水口)といい、また牛馬がとおる農道のようなものにサガリ(さがり)、クボ(久保)と名付けられており、さらに昔この地域を治めていたと思われる豪族の前方後円墳が御手水の少し高台になっているところにあり、その場所のことをシマンカシラ(島の頭)と呼んでいた。私は田だけでなく農道や古墳にもしこ名がつけられているのだと知り、ますますしこ名というものに関心を持った。田につけられたしこ名の内、マエダ(前田)は読んで字のごとく、目の前にある田ということで、ニシ(西)は御手水部落の西方にある田という事だ。他には、フズメン(不図面)というのがあり、これは地図に載っていない場所であるということだ。またカワンカミ(川神)には昔井堰があり水神がいたということだった。津賀田さんは川神のことを、川の上流であるということで川上と思っていたらしく、町史を編纂するまで知らなかったとおっしゃっていた。ここで私たちは津賀田さんが町史を編纂する町の委員をなさっていたことを知り、もっと詳しいことが聞けるのではないかと思いつつ質問を続けた。次に教えてくださったしこ名はロウニンダ(浪人田)という名で、このしこ名の話は最も興味深いものだった。浪人田とは、浪人が田を作った場所というそのままの意味だが、津賀田さんの話によると浪人とはおそらく壇ノ浦で敗れた平家の落人たちのことだろうという事だった。また津賀田さんは「ここ御手水にはもともと侍が住みついとったけんね。多分それが平家の落人なんやろうね。」とおっしゃり、また「御手水は盆地になっとって、'ふるおうかん'からも離れとる、また水も豊富なところやけ平家の落人の隠れ家にはちょうどよかったやろうね。」と話してくださった。'ふるおうかん'とは古い主要な道という意味らしい。こんな山奥にも源平合戦の資料となるべきものが残っていると思うと、改めて歴史のスケールの大きさを感じさせられた。またコウトコ(川床)、フタマタ(二股)、ヤマサキ(山崎)というしこ名も教えて下さった。中にはシラゲンコウチ(白毛高地)というものもあり、これは、津賀田さんがいうには、「仙人のような翁がいたんやろうなあ。」という事であった。ほかにも弘法大師を祭った社のあるミノンツジ(みの辻)や分寺の跡、僧侶の墓があったと言われるアンノウエ(庵の上)、現在は主にみかんが主流だが畑にあるヒラ(平)というものもあった。先に書いた景行天皇が的射りを行ったといわれるマトバ(的場)という名もあり、その際行われた的射りは現在でも祭りという形で残っており、佐賀県でも有名なこの祭りは毎年1月8日初祈寿の日に行われているという。この祭りは3つの的を射るもので、一つめの的はちがやで作られ村人の息災延命・五穀豊穣を祈念するもの、二つ目は稲のわらで作った円座を的とし中心に鬼と書いたもの、そして3つめは竹の枝を丸めて的を作るもので、樹齢5600年という銀杏の大木にそれらの的をつけ、33333本の矢を射て、最後に区長が黒星(こくてん)を射て打ち止めとしその最後の矢を一年間神社に奉納するというものだそうだ。ここで興味深かったことは、なぜ33333本の矢を射るのかということで、津賀田さんに聞いてみると、「そりゃあ、お産っちゅう意味よ。」といって笑っていらっしゃった。昔の人々は数字にまじないの意味があると信じていたのだろうか。 津賀田さんは「しこ名はまだありますよ。」と私たちに郷土史について話すのが楽しそうに見えた。「クビノタニ(首ノ谷)っちゅうのはじゅうさんぴょう(十三俵)さんが処刑されたところよ。」とおっしゃったので、詳しく内容を聞いてみると、村の蔵から米を一俵ずつ盗んでいた泥棒が十三俵目でつかまり処刑された場所だということだった。他にもまだあり、竹下という人物に墓があるタケノシタ(竹ノ下)、的射りの時の矢が落ちたというオチヤ(落矢)、細長い田のナガタ(長田、)丸い田のカマブタ(釜蓋)、山の神がいるというヤマンカミ(山の神)、木を逆さにして地面に刺した出城があった、今では三叉路になっているクセギ(伏木)、そしてウーヒラ(大平)、ナクハタケ(泣畠)というものがある。ナクハタケには十三俵さんの?石碑があり毎月月初めにお参りするという。津賀田さんは、このしこ名は大まかなもので、細かなものはもっとたくさんありよくわからないとおっしゃっていた。この御手水では一世代前までは宅地にも特別な名があったようで、「前田とかは同姓が多いけ、隣同士でお互いに東とか西とか言いよったがな。」と津賀田さんはおっしゃり、ほかにはかつての的射りのとき矢を射たイバ(射場)と、その的があったマトバ(的場)の周辺宅地をイバ、マトバと呼んでいたそうだ。また御手水で一番高いところにある家はソウラ(空)と呼ばれ、姓では呼ばれていなかったそうだ。 しこ名についての話が一段楽して、事前に考えていた質問をしようとメモを出していると、津賀田さんは生き生きした表情で「何を話せばいいかね」と言って下さって、こちらもスムーズに質問を続けることができた。 次は村の水利慣行について話を聞いたが、「ああ、水源のことね。」と言ってまたまたその質問についての答えを書いた書類を出されて、私たちが質問されることについてあらかじめ準備してくださっていたのかと感心するばかりだった。お手水の水源は権現の滝で、この滝は水量が豊富で、しかも御手水地区のみにしか使用されず御手水が栄えたひとつの要因だったという。実は太良町からも町の水源として利用させてもらえるよう頼まれたこともあったという。この地区の人々はこの水源を利用して「チョッカン」と呼ばれる水力精米法を開発し、滝からつながる川の流域に4,5つ設置していたという。この「チョッカン」は「鹿おどし」に似た構造になっており、水が流れ落ちる反動で精米するという方法である。権現の滝の流域でない、比較的水の少ない地区では、「なでぎね」と呼ばれる方法で精米していたという。これは人が杵を使ってたたくというもので、貧しい家でよく行われ、青年がこれで夜なべをしていた。一方裕福な家では「チョッカン」を人の足の力で行う「チョッコン」を庭に設置し、精米を行っていたようだ。村の人たちは普段は麦、芋を主食としていたが、米を食べるときは「ヒラカシ麦」という、麦を一度炊いてふやかしたものと米を少量まぜた「ブッツイ飯」という飯を食べていたという。しかし「ヒラカシ麦」は水分が多く腐りやすく、貧しい家で食べられていた。裕福な家では「ヒラカシ麦」ではなく、水分が少なく腐りにくい「シャギ麦」を用いていたという。これらのことは終戦のころまで行われていたそうだ。 また入会山についてたずねたところ、現在ではこの3ヶ所しか残ってないとまたも資料を見せていただいた。昔御手水には特に多くの入会山(区有林)があったが今では手入れする人が居らず減っていったと津賀田さんは嘆いていらっしゃった。林は竹林と桧林で各区長が管理していたそうだ。 これらの質問が終わりそろそろ帰ろうかと思っていたところ、「部落の祭りとか、方言とかしゃべらんでいいかね。」とおっしゃってくださったので、メモさせていただいた。祭りと方言の一覧は後に示すことにする。「祭りも昔はたくさんあったけれども、今ではずいぶん減らしてしまった。」と昔を懐かしむ津賀田さんが印象的だった。最後に奥さんにお茶とお菓子をいただき、さらにバスの集合場所まで車で送っていただいた。その途中では道沿いにある、教えていただいたしこ名の場所を指差していただいた。津賀田さん夫妻のおかげでこのような初めての調査で不慣れな私たちもリラックスして質問することができた。 津賀田さん夫妻には厚く感謝の気持ちを述べたいと思います。本当にありがとうございました。 村の祭り 正月7日 オネブ焼き(ドンドヤのようなもの) 8日 初祈祷(的射り) 18日 観音様祭り(女性の祭り) 2月15日 花入り(女性の祭り) 3月彼岸の中日 水神の祭り 4月21日 弘法大師の祭り 6月末〜7月初 田祈祷(田植え後の氏神への報告:最近田植えをする田がまちまちになっているため日にちが決まっていない 今年は私たちが訪れた翌日7月1日にあるそうだ) 9月第2日曜日 権現様のおくんち(収穫の祭り) 10月18日 しめなわの取替え・餅つき 19日 お供日の奉り 11月2日 山神の祭り 30日 神無月の終わりということで一晩中神様を迎える祭り 12月1日 大祭り 二番未の日 八天神社(火の神)のお祭り 昔はまだ数多くの祭りが存在したが現在は減らされているそうだ。 方言 父=オッチャン 母=オッカン 祖父=ゲイチャン 祖母=ウンボシャン 兄さん=バアシャン 姉さん=アンシャン 男使用人=バアードン 女使用人=アンネドン 大金持ち=ブゲンシャドン 田舎=コバ 水力精米機=チョッカン 足踏み精米機=コットン おはぎ=ボタモチ 馬鈴薯=ジャガタロイモ 里芋=イモンコ 南瓜=ブナ 大根=ジャアコン ヨモギ=フツ 蛙=ビキタン・ドンク ヘビ=クチナワ まむし=ヒラクチ トンボ=ヘボ ハエ=ヒャアー パンツ=サルマタ フンドシ=ヘコ 腰巻=キャアーフ 手拭い=テンゲ つぎはぎの着物=ツヅレ・ドンザ 袖なしの着物=ポイシン トイレ=ヘッチン 有難う=オオキニイ おいとまします=ソイジャッゴザンシュ 休憩=ヨコウ よく咲いた=ユウシャアタ 霧=モヤ カマド=ジロ 囲炉裏=ユウルリ・イロリ 椿・山茶花=カチャシ 三つ葉ツツジ=アマテラス ドウザンツツジ=ヨウラク ソガオーコー(両端を鋭くそいだ荷負棒・稲藁薪木などに使う) オーコー(肥おけ等の荷負い棒)=メゴ 肥おけ=タゴケ 女竹=ニガマ竹 小さな女竹=マゴク 男竹=ガラ竹 我が家(縁付先の家)=エンチ しこ名 津賀田さんは大まかな位置しかわからず、地図にわかる範囲で示していただいた。田・畑など ミズグチ(水口) フタマタ(二股) シラゲンコウチ(白毛高地) ミノツジ(みの辻) アンノウエ(庵の上) ニシ(西) マエダ(前田) ヒラ(平) マトバ(的場) タケノシタ(竹の下) タケノシタグチ(竹の下口) フズメン(不図面) オチヤ(落矢) カワンカミ(川神) ナガタ(長田) ヤマサキ(山崎) カマフタ(釜蓋) ロウニンダ(浪人田) ヤマンカミ(山神) コウトコ(川床) ウーヒラ(大平) ナクハタケ(泣畠) クビノタニ(首ノ谷) クセギ(伏木) 古い農道 サガリ(さがり) クボ(久保) 前方後円墳 シマンカシラ(島の頭) |