太良町・大峰・川内
大峰 1sc00230 馬崎 郁郎
1sc00233 福田 勝哉
川内 1sc00195 上田 好寛
1sc00200 大塚 充洋
7月1日、大峰の『大岡力男』さん、川内の『増山好明』さんに紹介してもらった『大岡藤吉』さんは、大峰、川内、針牟田の3地区に詳しく、84歳にしては明るく元気のいいおじいちゃんでした。自分たちが訪ねたときも冗談を言ったりして、緊張をほぐしてくれました。そのおかげで、スムーズで楽しく笑いのたえない聞き取り調査をすることができました。
しこ名・あざ名について
まず、最初に大岡さんに教えていただいたのは「キョウノミネ(経の峰)」、「クワモト(桑本)」、「ナカミネ(中峰)」、「ヤマンカミ(山ん神)」というしこ名、あざ名でした。「キョウノミネ」というのは、大峰・川内の各地域に点々とあったお墓を集めて、お経を読んだということで呼ばれるようになったところで、「クワモト」というのは、昔この地域に人が住むようになって最初に「クワ」をいれたということからよばれるゆうになったところだそうです。また、「ナカミネ」というのは、大峰と針牟田の間にあった昔の地区で、大正3年まで独立していた地区でその後、大峰・針牟田に合併されたそうです。「ヤマンカミ」というのは、川内の公民館と糸岐川の間にある地域のことで、昔「山の神」を祭っていたところだそうです。続いて、「ヒャクドザカ(百度坂)」、「ヒャクドボチ(百度墓地)」というのをおしえてくださいました。その名の通り「ヒャクドザカ」というのは、急な坂道でそれが100度あるようだということでよばれるようになったそうです。確かに上を見上げないと頂上が見えないほど急な坂道でした。その「ヒャクドザカ」を登りついたところにあるのが「ヒャクドボチ」だそうです。その名は、「ヒャクドザカ」からとってきたものだそうです。
また、川内の農業は稲作が中心だということなので、田んなかのしこ名・あざ名について聞いてみました。そうすると決まったしこ名・あざ名はなく、田の所有者の名前で呼ぶみたいでした。例えば、大岡さんの田なら「大岡ん田」というかんじでよんでいたみたいです。
村の水利について
糸岐川に近い川内では、村の水利関係のことは、糸岐川でまかなっていたということです。糸岐川沿いに「イデキ」と言うものを造っていたみたいです。「イデキ」とは簡単に言いかえると「川の流れをせき止めるもの」だそうです。大岡さんの記憶によると、川内だけで少なくとも2箇所あったと言うことです。1つは「山神橋」の近く、もう一つは「川内橋」の近くにあると言うことです。また、少し下流の針牟田の方にも幾つかあったということです。その「イデキ」から田に水を引いたりしていたということです。また、山の奥のほうにある大峰では、「オオミネイケ」(大峰池)から水を引いたそうです。「オオミネイケ」は昔、6町の広さがあり、水に困ることはなかったということです。またこの「オオミネイケ」では、年に2回、清掃作業があるというだけで、この池に関する行事や祭りは行われていないということです。
旱魃について
次に、7年前の大旱魃について聞いてみました。この年の旱魃は印象が強かったのか、すぐに答えが返ってきました。川内のほうでは、糸岐川のおかげである程度の水を補うことができたみたいです。しかし、十分な水を確保することができず、大不作であったそうです。また、大峰ではその不作ぶりは類をみないほど凄かったそうです。前に、「オオミネイケ」について述べたが、現在では池も6町から2段まで減っていて、全く水を確保することができなかったそうです。池が小さくなった原因の主となっているのは、減反政策であるそうです。減反政策によって、水田の多くがみかん畑になって、「オオミネイケ」が必要でなくなったからだそうです。そのため、水田が少なくなったにもかかわらず、「オオミネイケ」がそれ以上に小さくなったということで、不作になったそうです。もし、これが60年前であったならば、「オオミネイケ」もまだ十分大きく、旱魃に対応するだけの水があったということです。
水害についても、「オオミネイケ」が深くかかわっています。一番すごかったのは、昭和16年にあった「オオミネイケ」の氾濫であったそうです。「オオミネイケ」が氾濫したために、その下流にある大峰、川内では大変な洪水となったそうです。牛をはじめとする様々な家畜が流されていったそうです。幸いにも、死者を出すことはなかったが、その勢いは忘れられないほど凄まじかったそうです。また、糸岐川でも、昭和37年に大規模な洪水が起こったそうです。そのとき、川内の少し下流にあった「素麺工場」「精米工場」が流されたそうです。このように、大峰や川内では、大規模な水害が発生したということです。
村の耕作について
現在では、大峰、川内では、まったくちがう農業が行われています。現在では、大峰ではみかん畑中心の畑作、川内では水田中心の稲作が行われています。しかし、前にも述べたとおり、減反政策以前は大峰でも稲作中心だったということです。また、当時の肥料は村単位で落ち葉などを腐らせて自然の肥料を作ったり、牛の糞を使っていたそうです。昔は、どの家にも牛が2〜3頭いたそうで、肥料に困ることがほとんどなかったそうです。
村の発達について
大峰、川内地域には、電気は大正13年と比較的早い段階にきたそうです。プロパンガスについては、はっきりとはわからないそうですが、大体戦後だったそうです。電気が村にくる前は夜はランプの明かりだけがたよりだったそうです。しかし、そのランプのごく少ない光だけをたよりに仕事をしていた人もすくなくなかったそうです。電話は昭和45年にきたそうです。
村の生活に必要な土地、山の利用について
自分たちの「村の共有の山林はありましたか?」と言う質問に「そんなものはなかったよ」という答えが戻ってきました。山を所有する地主がいたそうですが、これについてはあまり詳しく解らないというとでした。
米の保存について
この大峰、川内の地域では、地主と小作人の関係が出来上がっていたそうです。それは、小作人が地主から土地を借り、そのかわりに米を地主に納めるというものだったそうです。米が不作であったときは、代わりとして麦や大豆で納めることもあったそうです。また、米などの売買は主として地主が行っていたそうです。小作人から納められた米などは、牛を使って近くの村などに売られていたそうです。
村の動物について
昔は、肥料作りや物の流通のため各家には牛が2,3頭いたそうです。それらの牛はほとんどが雌だったそうです。その理由を聞くと、「雌は子供を産むから」といわれました。その子牛を売ってお金を稼ぐこともしたそうです。
そういわれて自分の実家でも同じように子牛を売ることが行われていたことを思い出し、どこでも昔は同じだったんだなぁと思いました。
村の道について
基本的には、現在ある道が昔から使われていたそうです。物の売買などで牛を使っていた道(幅3メートルもなく、あぜ道のような道)を、昭和にはいり拡張したり、良くしたりして現在の道が出来上がってきたそうです。確かに、大峰、川内の道はクネクネ曲がっていたりして昔の道の名残を残している感じがしました。
祭りと行事について
昔から現在に至るまで行われてきた祭りは、川内の「山ん神の祭り」だそうです。これは毎年12月に行われているもので、基本的に全員参加だそうです。これは、川内の地域の住民が公民館などに集まり酒を飲むという地域に根づいた祭りだそうです。また、大峰地域では現在の「大峰天満宮」(昔は「天神さん」と呼ばれていた)という所で同じような祭りが行われていました。今ではこの祭りは行われなくなっています。
昔の若者について
若い頃、夜何をしていたのですか?という質問に対して、大岡さんはランプの明かりを頼りに仕事をしていましたとおっしゃいました。
村のこれからについて
昔に比べて若者の農業離れが大峰、川内地域でも起こってきています。都会の生活にあこがれて、村から出て行く人も少なくないそうです。また、村に残っている若者の多くは公務員などであり、手伝いていどで農業をする人が多いらしく、現に大峰では専業農家として働いている若者はたった2人だそうです。自分たちが訪問した大岡さんの息子さんも働いている傍ら農業を手伝っているそうです。このことに関しては大岡さんもとても不安そうに話していました。農業の衰退をくいとめるためにも若者に大峰、川内地域に来てもらいたいとおっしゃっていました。そのためにも、大峰、川内地域を今よりももっと空気が良く、災害の少ない住み良い町にしていきたいと大岡さんは願っていました。
諫早湾の干拓について尋ねてみたところ、「人が山に来て、山菜などを採っていくことに関しては何も言わないのに対して、逆に人が海に来て、海の幸を採っていくと文句を言われることに納得がいかない。」とおっしゃり、干拓に関しては自分たちに何のメリットも無いので、関心がないということでした。
調査にあたっての感想
聞き取り調査が終わると、大岡さんは疲れきった自分たちに素麺をごちそうしてくれました。疲れておなかがすいていたせいか、その素麺は何処か懐かしい実家の味がしてとてもおいしかったです。自分たちが食べているときも、大岡さんは自分の若い頃の話を幾つかしてくださいました。戦争に行ったときのことなどを丁寧に教えてくださいました。それと同時に自分たちがいい時代に生まれてきたことをうらやましがっていました。「あと50歳若かったらなぁ・・・」と何回もおっしゃっていました。最後に、大岡さんは自分たちを庭先まで見送ってくださいました。もう一度訪れたいと思いながら大岡さんの家を後にしました。