大野

大野利明さん(昭和8年)
1TE00579P 尾川 協一郎  1TE00615M 中野 智裕

 僕達が今回の調査で伺ったのは、太良町大野の大野利明さんです。太良町へのアクセス は、福岡ICから高速道路を通って、武雄・北方ICまで行き、左手に有明海を見つつ( 実際はあまり見えなかったが)国道207号線をひたすら南下しました。

7月1日は好天に恵まれ、実に調査日和でした。出発して2時間余り経った頃、いよい よ目的地付近に到着し、大野さん宅を訪ねる前に太良探索をしました。正直なところ福岡 に比べてとても田舎だなあ、という感想をもちました。というのは、太良駅を訪れた際に 駅前の賑わいが乏しく、日曜日とはいえ営業中の商店がほとんど見当たらなかったかもし れません。

とにかく、程よい時間にもなったので僕達はあるうどん屋さんに入って腹ごしらえをす ることにしました。 うどん屋さんに入ると、草野球チームの仲間らしきおじさんたちが 昼間から宴会をしていました。そういえば店の向かいに大きなグラウンドがあったのを思 い出し、今日は日曜日でもあり、きっと試合の打ち上げだろうと思い、カウンターに腰を 下ろしました。ふと後ろを振り返ってみると、座敷で大きい地図を見ながらなにやら相談 している二人組みを発見。テーブルの上には服部マニュアルらしきプリントも。これは「も しや?」と思い、とりあえずカツ丼をたいらげたあとに声を掛けてみたところ、やはり九 大生でした。どうやら目的地がこのすぐ近くでバスでここまで来たようでした。おそらく この近くに九大生が散って調査を開始しようとしているところなのでしょう。互いの健闘 を祈りつつ店を後にしたのでした。
 大野へは国道207号線から多良岳の方に向かって山を上っていったところにあります。 国道207号線を下りる所で糸岐川という川が流れています。後述しますが、この川は調 査場所の大野の田んぼの主要な水源であり、こうして有明海に流れているわけです。です から、逆にこの川を上って行けば大野に到着することになる訳です。とにかく、僕達は山 へと向かいました。5分もしないうちに、まさに山村という感じの風景になりました。
多良岳は佐賀県と長崎県の県境のところに位置しています。大野はもちろん佐賀県の太 良町にあるわけですが、地図をみても長崎県はまさに目と鼻の先という場所にあります。 そういえば、英彦山も福岡県と大分県の県境であり、福岡県と佐賀県のも、三瀬峠や背振 山でへだてられています。平地に町が発展するため、山で県が隔てられるのは極自然なこ となのでしょう。
僕達は当初から現地調査に行く際には、その土地の空気、匂い、そして風を肌で感じる ためにそれぞれのバイクに乗って行こうと計画していました。ところが下調べの段階でこ の山の地図をじっと眺めたところ、この山の傾斜はアメリカンで行くには曲者なのではと 考え仕方なく車で行くことにした、という経緯があります。山へのツーリングは、夏は特 に涼しさもあり格別な楽しみがあります。自分も峠を走るのは非常に好きなのですが、山 を走るときは思いがけない難関があったりします。例えば道が舗装されてなかったりとか、 冬は道が凍結してたりするわけです。英彦山に春先に行ったところ、路肩に雪の解け残り があったりもしました。無論この時期には路面の心配はないのですが、今回は「安全・快 適」を優先させて車で行くことにしたわけです。山のおいしい空気を吸いながら目的地を 目指せなかったのは残念でした。
 はじめて行く山を通行中に妙に不安感が募るのはバイクも車も同じでしょう。山は目印 になるのもが少なく、正しい道を走っているという自信が無くなりがちだからです。しか し、地図上にもある分岐点に差し掛かったときは安堵し、まもなく大野の集落に到着しま した。
大野の集落は決して大きな範囲ではなく、大野の集落を一本の町道が東西に通っていて、 その町道に沿って家々が建ち並んでいます。大野さん宅は集落のほぼ中心部に位置してい ます。
 ここで、気になっているのではないかということについてコメントしておきますと、「大 野さん」と「地名の大野」は、おそらく誰もが容易に推測できるように関係があります。 後で聞いた話によると、大野さんの先祖は元々この地域の地主さんでいらしたらしく、当 然大野に住んでいる大野さんはみんな大野さんの親戚だと話していました。大野さん宅が 大野の中心部に一軒だけどっしりと構えているということからみても、昔地主でいらした という歴史に納得せずにはいられませんでした。
 事前の連絡では大野さんはこの時期非常に忙しく、日曜日とはいえ家にいらっしゃらな い事が多いようで、実はこの日も家にいると断定できないと、言われていました。しかし、 僕達としても調査を先送りにするのは危険なので、次の土曜日を予備日として2度手間覚 悟の上で訪問したところでした。訪ねると、やはり大野さんは午後から用事があり、30 分余りすると出かけられるご様子。それでも僕達がこの調査の目的と意義について説明す ると、ごくつろぎのところに急な訪問という無礼にもかかわらず、ご夫婦で快く協力して 下さいました。
はじめに、あざなについての聞き取り調査を始めました。あざなとは何か?については 説明すると、すんなりと理解してくださり、僕達は持参した5000分の1の縮尺の森林 計画図を広げました。しかし、それぞれのあざなが地図上のどの部分に該当するのか非常 にわかりにくいようで困りました。確かに森林計画図はビジュアル的に理解しにくく、範 囲の狭い大野のあざなを調べるには適しているとは言えません。そこで図書館でコピーし た住宅地図をみせるとこちらの方がわかり易いようで(僕達にとっても)、次々にあざなが 出てきました。調査においては、お互いのわかり易さを優先することが大事だと実感しま した。どのあざなについても漢字での表現はなく、住民同士が音だけで認識される地名で した。そしてそれぞれの範囲もとても曖昧なものが多く、これらの言葉はまさに住民の道 具であるという印象を受けました。大野には小さな滝があって、その滝の中にはドウマン 観音さまが奉っています。ドウマンという名は滝がある場所のあざな「ドウマン」に由来 されるところであり、なかなか面白いものがありました。
この地域も決して例外ではなく、減反政策の対象の地域になっています。いくつかの田 んぼはなくなって植林されたり、あるいは他の土地利用をしていたりします。そのため何 十年前にはあざなで呼ばれていた田んぼも今存在しないために、自然と使われなくなって 人々から忘れ去られたあざなもあると話されてました。大野さんは、減反政策によって田 んぼとして使わなくなった土地を茄子畑として利用なさっていました。

大野の産業は農業中心で、大野さんも「大野には農業しかない。」と自身でおっしゃって いました。その農業も、今では後継者不足であり、大野さんの息子さんも北九州で働いて いるらしく、休みになったらお孫さんを連れて帰ってくることもあるそうです。後継者不 足について話されているときは大野さんも心なしか元気がなさそうでした。それほど深刻 な問題なのでしょう。

ここで、大野さんが農協に生産組合長と茄子の出荷に行かれるということで、一旦話を 中断してここまで付き合ってくださったお礼を言って見送りました。続いて大野さんの奥 さんに話を続けてもらうことにしました。

農業も数十年で状況が大きく変わったそうです。以前は自給自足で暮らしていたようで すが、今はそうはいかないようです。減反政策により田んぼでなくなった土地の中にも、 それ以降何も手を付けられることなく、ただぼうぼうと草が生えて荒地になってしまって いる土地もあるということも話されていました。 農業の形態が今と大きく変わった大きな要因のひとつは農業の機械化が言えるでしょう。 昔は牛馬を使って作業をしていたのですが、機械を導入するにつれて能率は著しく上がり ました。田んぼの作業も、かつてなら牛馬をひいて2,3日かかっていたところが、機械 をつかえば一気にできるようです。しかし能率が上がった代わりに、それに伴う維持費も かかるようになったとおっしゃっていました。

大野では町道に沿うようにして糸岐川が流れています。よって糸岐川付近の田んぼは川 から水を引いて、集落を挟んで北側の地域では湧き水を利用しているそうです。生活用の 水道水とは違って、川から田んぼに水を引く際にはポンプなどを使って水をくみ上げてい るわけではなく、単純な高低差を利用することで水を流し込んでいるので、川の水量があ る程度増えなければうまく水が流れないという事態になります。そういう理由もあり、今 年は雨が降るのが遅れたために、例年に比べて二十日ほど田植えの時期が遅れたそうです。
7年前の水不足の時には、川の上流まで行ってタンクに水を汲んで車に乗せて、それを 田んぼに持ってきてタンクから田んぼに水を直接流すという作業を延々と繰り返し、大変 な苦労だったようです。また同じ時期に湧き水を利用していた田んぼでは、これほどまで の事態にはならなかったようだと話していました。それにしても水不足が深刻な事態を引 き起こすということには変わりはなく、今のように車のなかった昔では、稲の変わりにそ ばを撒いて土地を利用した年もあったようです。そばは稲よりも水を使わなくて済むんで すね。大野さん自身は昭和8年の生まれで67歳でいらっしゃいますが、今大体80歳か ら90歳ぐらいの人たちの世代では、そうやってそばを撒くという措置をしたりしていた ようです。

続いて学校について尋ねてみました。大野の隣接して北側には中尾という集落があり、 そこには中尾分校という学校があります。大野の子供たちは小学校4年生までは中尾分校 で机を並べて学んでいるそうです。小学5年生からは、もっと太良町の中心部に近い本校 で学ぶことになります。大野からこの本校までは、徒歩では1時間から2時間程かかり毎 日頑張って通っていたそうですが、今は皆車による送り迎えで通っているそうです。大野 からの徒歩通学は山ということもあり、とてもアップダウンが激しいので大変であったこ とでしょう。大野で道の舗装が施されたのは今から30年前のことだそうです。今大野の 町道は幅も広く、見た目も新しさを感じるようなアスファルトですが、舗装される前は砂 利道で幅も狭く、荷物なども全て馬車にのせて運んでいたそうです。

 大野では以前、4月21日にコウボウさん祭りがあっていました。大野にはコウボウさ んという神様を奉っている御堂がありました。昔は大木を切って造られた立派な御堂だっ たのですが、やがて老朽化が進み雨漏りなどするようになったので、コンクリートで造り 直されたそうです。コウボウさん祭りは、文字通りコウボウさんを奉るお祭りで、祭り自 体は百年以上続いているそうです。以前はお相撲さんが来て相撲をとったり、出店を出し たり、観光客もいろいろな所から集まっていたのですが、今はかつてのような賑わいはな いようです。今では4月21日になると、大野の村で毎年当番を回して当番の家でお餅を ついて、コウボウさんにお供えをし、ご馳走やお酒を振舞って盛り上がるといった程度で、 ちょうど今年は大野さんが当番だったと話されていました。お祭りには何か道具をつかう らしく、できればその道具を見せてほしいとお願いしたのですが、今年の祭りはすでに終 わっていて次の当番の人に道具も回したようなので、残念ながらそれを見ることはできま せんでした。
 他には中尾分校で小学生の運動会などの行事がある時に、中尾の人たちと交流すること があるということです。また太良の本校のでも、行事がある時には交流があると話されて いました。本校では長の行事になるので、かなり大きいイベントのようです。

 続いて昔の若者の遊びはと聞くと、少し考え込まれた様子で思案なさっていました。こ れが遊びだというようなものが昔はあまり無かったのではないか、と予想していると、太 良町には昔映画館があってそこに行っていたと話してくれました。遊びについては今も昔 についても余りご存知でない様子で、苦手な分野なのかという印象を受けました。その点 がこの山間部の集落と都会の違いなのでしょう。太良町の映画館も今はないそうです。

 話も大体聞き終わり一段落したところで、何十年前に牛馬に付けていた鞍や農具が蔵に あるというので、是非一目見て写真に収めたいとお願いしたところ、笑いながらも快く了 解してくれました。蔵は大野さんの家の2階で、独特の匂いがしました。そこには昔なが らの道具がたくさんあり、もう何十年も使っていないという雰囲気がありました。一通り 見終わって蔵から降りて付近にある野菜を眺めていると、奥さんが「茄子持っていかん ね?」とおっしゃったので、恐縮しつつも喜んで頂きました!話を聞かせてもらった上に、 とても大きな茄子をたくさん頂いて、感無量でした!

 こうして僕達の現地調査は終わりました。帰りは隣の集落の中尾を通って太良町に出ま した。その時、大野では見られなかった牛を発見したので写真に収めてきました。

調査したあざなは以下の通りです。

 コウクボ
 カナメ
 ユビダ
 ハチクボ
 カンバンソラ
 タカミ
 ドウキン
 ヤマグチ
 ヒュウタン
 タイダ
 シンタロ
 ヨシクラ
 ナガミ
 クロンタゴ
 ドウマン
 ウクトコ