佐賀県太良町の調査


  歩き・み・ふれる歴史学(木曜4限)
●一日の行動記録(7月7日)

 9:45 中尾、赤木、外田、田島寮から出発。

10:10 大橋にて安東と合流。

11:00 基山インターにて西村グループと合流。

12:10 長崎自動車道を経て武雄北方インターで高速を降りる。

12:55 道に迷いながらも何とか前田さん宅に到着。

14:30 前田さん宅を出発。西村グループと別れる。

15:00 毎年ガタリンピックが開かれる干潟公園の有明海展望レストランにてアラマキ貝を食べる

18:30 帰りは高速を使わず佐賀からR385を通り帰宅


私たちのグループは元々槙内地区を調査する予定だったが、過疎化のため区が無くなっているので、調査の窓口となる方との連絡が困難だった。そのため、中尾地区の区長さんに手紙を送りその旨を伝えた。元々中尾地区を担当していた西村君たちのグループもちょうど同じ日に区長の前田さん宅を伺うことになっているとのことだったので、西村グループと連絡を取り合い一緒に前田さん宅に伺うことになった。

●武雄北方〜前田さん宅
 朝10時頃福岡を出発し、1時間あまり高速を走り、ようやく武雄北方インターに到着した。殺風景な高速の景色から抜け出し、目の前には広大な田園風景が広がっていた。福岡市内では絶対に見ることのできない景色。みんながきてよかったと感動していた。有明海沿いの道をしばらく走り、いよいよ中尾地区のある山の入り口へと近づいていた。山のふもとの方には学校も民家も思ったより多くあり、中尾地区も期待していたほど”いなか”ではないとも思った。しかし、山道に入っていくと、どんどん道が狭くなり、こんな辺境に人が住んでいるのかというきさえしてきた。しばらくは知ると、やがて景色がひらけ民家が見えた。「中尾分校」という案内表示を見つけた。私たちが乗っていた乗用車では車幅が広すぎて、ぎりぎりの道を迷いながらやっと前田さん宅を見つけることができた。田圃の形は昔のまま。いえといえとがめちゃくちゃ離れている。すごいところだった。

●前田さん宅にて
 12時55分。約束の時間の5分前に前田さん宅についた。とてもいい方で、笑顔で私たちを迎えてくれた。現区長の前田さんは昭和10年生まれの方で、昔のことをもっとよく知っていらっしゃる大正6年生まれの木下さんという方を私たちのためにつれてきてくださっていた。木下さんは数年前に中尾地区の区長をなさっていた方で、終戦の時にはシンガポールで兵隊をされていたそうだ。  はじめに私たちがとまどったのが言葉である。なまっているというより、使っている言葉が違うように他のメンバーは感じていたらしいが、私(中尾)は出身が佐賀で、幼い頃祖母に預けられていたのと、母親の実家が佐賀よりの長崎であったため、前田さんたちの使う言葉が懐かしくかんじ、佐賀弁で会話した。

●インタビュー
 さっそくしこ名について尋ねてみた。私たちもこの授業で初めて”しこ名”という言葉を知り、いきなりしこ名といってしまって失敗したかと思ったが通じたらしく、「しこ名はナコウっていいます。」と返ってきた。中尾という字を書くのだが、昔から地元の人はこのあたりをナコウと呼んできたらしい。「他になんかしこ名ば知らんですか?」と聞いてみたが、「そんがこの辺のしこ名やけん他にはなかですもんね。」といわれた。話が息詰まってしまったので、先に昔の村の姿についての質問をすることにした。  主に大正生まれの木下さんが質問に応じてくださった。こちらがちょっと話題をふると、次に質問しようと思っていたことまでいろんなことをはなしていただいた。

  牛・馬
 昔のこの地方の人たちは、たいていの家で一件に一頭牛を飼い、農業をしつつ副業として炭を焼いて林業の人に収めていた。やはり、牛は農家にとってとても重要な存在であった。田を耕すのはもちろん牛であり、とれた米を運ぶのももちろん牛であった。米を運ぶときはふつう60?の俵を4個牛にくくりつけて運ばせていた。大きな牛になると5〜6個も運ばせていた。しかし、農協の倉庫まで1日2往復するのがやっとだった。
 その後牛車を使うようになり、その後は馬車をもった業者に任せるようになった。ながいながい坂道を下るわけだが、どうやって牛車もしくは馬車にブレーキをかけていたのかというと、牛車・馬車には大きな棒を差し込む穴があり、そこに棒を指し縄でくくりつけ、地面に擦らせて調節していた。
  食事
 戦前では、地主さんがいて必ず収めなければならない米の量が決まっていて、白いご飯を食べられるのはお盆とお正月の年2回だった(もちろんくず米)。主食となっていたのは、アワ・麦・そば・サツマイモだった。サツマイモが一番のごちそうで、”いもがま(穴を掘りわらを敷き詰めたもの)”をいくつもつくって保存していた。味噌や醤油も昔は各家庭でつくっていて、たいていおかず(佐賀弁で”シャー”)は大根の漬け物だった。街へ降りてたまにグザという魚を買ってくることもあった。


 昔の水利がどのようだったか尋ねてみたが、昔からこの地区は至る所からわき水がでていて、それをそのまま農業や生活用水として使っていた。水がでているところはいくつかあり、そこに貯水タンクのようなものをつくり、いくつかの家で共同で使っていた。竹をくりぬきそれを接いで水道をつくったところもあった。
 水不足の時はどうしていたか質問すると、「そん時は田圃がひからびとった」と笑っておられた。雨乞いの風習があって、多良岳の頂上に神主と村人がのぼりお祈りをしていた。(今思えば馬鹿なことをしとったと木下さん。)

医者
 医者は町から牛車に乗って登ってきていた。どうしても急なときは、即席で担架のようなものをつくり村人が交代で抱え町まで下った。出産の時は少し下にすんでいた産婆さんを男が2人で呼びに行くというのがならわしだった。

  祭り
 多良岳祭りや発はってんさん祭りなど、年に三回ほど今でもやっているそうだ。基本的には、田や日の神様の祭りで、料理やお酒が用意される。木下さんが区長だった頃で45戸、今は35戸と中尾地区にすむ人の数も減ってきているため、祭りの規模も小さくなっている。

その他
 マニュアルをはじめに読んだとき、”わっかもん宿”というものの存在に驚いたのだが、そのようなものが中尾地区にも存在したのか尋ねると、二つも存在した(場所は地図中に表記)。青年期の男はたいていそこで寝泊まりした。
 昔はなにを履いていたかというと、やはりわら草履であった。しかし、1,2日履けばボロボロになっていた。前田さんが子供の時は夜寝る前にわらをたたくのが習慣で、寝ている間に母親が草履をつくってくれていたそうだ。もちろんつくってくれないこともあった。そのときは冬の日でも裸足で町の学校まで山を歩いていた。昔の人はみんな足の裏の皮はものすごく厚かった。雨の降る日はジンパナという竹の皮でつくった傘のようなものをかぶっていた。
 夜這いの風習があったのかも質問してみた。聞いていいのか迷いもあったが、意外と話題が盛り上がってしまった。大戦前の木下さんが若者だった頃まではふつうにあったらしいが、大戦後電気が普及してくると無くなっていったそうだ。見つかったらしかられるのではないかと思っていたが、昔夜這いはごくふつうに行われていたことで、どこの親もたいてい認めていた(自分たちもやっていたことだから)。中には戸口の上に下駄を挟んであるところがあって、見つかってしかられるところもあった。暗いところを手探りで張っていたから夜這いというのだといっておられた。また、このような行為を「シロモンカタ」と言っていた。昼のうちに「今日来るばってんよかやぁ?」などと聞いておき、前もってどこに娘さんが寝ているのか把握しておいて、みんなが寝静まった頃に出動していた。シロモンカタを通して結婚相手を見つけることもあるが、親同士が決めた許嫁と結婚することもちょくちょくあった。

しこ名
 はじめにしこ名について尋ねると中尾(ナコウ)しかでてこなかったが、今度は質問を変え、昔からついている田の名前について聞いてみた。すると、やはりしこ名はいくつも存在した。セイワラ、ツジノウエ、ヒャクド、ヒゴワラ・・・と、住宅地図を見ながらわかるところはすべて教えていただいた。田についている名前は、区役所に行けばきれいに記録されているそうだ。セイワラのセイとはセリのことで、この辺にセリがたくさん生えていたからセイワラとついたらしい。他の名前もたいていそんな感じであった。

●感想
 今回、前田さん、木下さんにお話を聞かせていただいたことは、私たちにとって大変有意義な体験だった。今の私たちの日常生活において、老人と話すことなど滅多にあることではない。いつも会話するのは友人か、もしくは何歳か上の先輩、一番上で大学の教授ぐらい(これも滅多にはなさないが)だろう。核家族化が進んだ現在では、家庭においてもその機会は少ない。
 インタビューの中でお二人は何度も昔は本当に食べ物に困っていたとこぼされていた。アワや麦を炊いたらどんな味がするのかも知らない私たちが、お二人の苦労話からその苦労を想像してみたところで実際の苦労は全く及びもしないだろう。終戦時にシンガポールにおられたという木下さん。終始本当に気持ちのいい笑顔で話していただいた。あれが本当の苦労人の顔なのだろうと思った。
 お二人のお話を聞いていると自分たちがとてもちっぽけな存在に思えて仕方がなかった。どれだけの苦労をされてきたかはわからない。しかし私たちは毎日、お二人の十分の一の苦労もせずに生きているのだろう。このまま年を取っていき、仮に80歳まで生きていたとして、木下さんのような笑顔で若者に対して話ができるか。今の私たちには自信がない。
 人というのは、懸命に何かをやることで大きくなるのだろう。昔の人たちは生きるために懸命だった。現代に生きる私たち。毎日を精一杯やっていこう。大きな人間になるために。

{お世話になった方々}
 前田一男さん 昭和10年9月25日生
 木下菊男さん 大正6年11月11日生

中尾 勝 1TE00614T
安東 聡 1TE00564R
赤木真賢 1EC00177Y
外田鉄兵 1TE99339S