調査の流れ 私たちは太良町北町に調査に行った。 事前に連絡をとった結果、太良町役場の隣にある資料館で1時に会うことになった。11時過ぎにバスを降りたが、始めどこで降りたのか分からずしばらく北町とは逆の方向に歩いてしまっていた。海岸沿いの道を歩いていて、晴れていたので何隻か舟が出ているのが見えた。カメラを買うためにコンビニに行くと、そこで「今日は何かあるの?学生さんが結構来てるみたいだけど。」と言われた。昼食のために寄ったうどん屋さんでは、そこに来ているお客さんにも「何をしに来たんね?」と声をかけられた。私たちが町の外の人だと誰もが思うほどに町の人は顔見知りであるのだなと感じた。 私たちがお話を伺ったのは、若芝栄之輔さん(昭和5年生まれ)。私たちとちょうど同じ時に資料館にいらっしゃって、「九州大学の学生さんかね?」と聞かれ、あいさつをした。とても感じのよい方だった。さっそくお話を伺おうと思って地図を取り出すと、その地図をコピーし、話しながらしこ名や屋号等を書き込んでいってくださるつもりのようだった。また、私たちが事前に送った手紙に書いていた伺いたいことを箇条書きにした紙も用意されていて、「じゃあ、次は屋号のことを話そうかね。」などとおっしゃって、本当にいろいろなことを教えていただいた。 まずは太良町という地名になるまでの流れを説明していただいた。明治22年に糸岐村と多良村が合併して多良村と名付けられた。その後多良村は多良町と呼ばれるようになり、多良町と大浦村が一緒になって現在の太良町となったそうである。私たちは調査に行く前に北町について調べていて、その時に「たら」を多良と書いたり太良と書いたりしてある資料があり混乱していたので、北町について話を伺う前に知ることができてよかったなと思った。 そうして、北町の話を伺うことになった。 北町は嫁川と糸岐川の間にある。西の方の境界がよくわからなかったので尋ねてみたが、若芝さんもあまりよくわからないようだった。というのも、境界近くに住んでいる人が「わしゃ北町のもんだ」と言えば、その家までが北町ということになるためであった。現に若芝さんが定年後に建てたという別宅も、私たちが針牟田との境界だと思っていた道路の針牟田側の道沿いにあった。もちろんその家は北町だ。私たちは境界はどこなのだろうとずっと考えていたので拍子抜けしてしまった。 そうしているうちに資料館の方がいらっしゃって、私たちにお茶を出してくださった。私たちが「次に北町のしこ名を教えてください」と言うと、若芝さんは話し出した。「ここらの人は糸岐川のことを『ううかわ』って言うんだ」私たちは漢字が見当もつかず、とりあえずひらがなで書こうとしていたら『大川』と地図に書いてくださった。私たちはへぇと感心しながら聞いていた。調査に来るまで、しこ名というのは大体どこにでもあると先生からは聞くけれど本当に北町にもあるのだろうか、とか、若芝さんがご存じじゃなかったらどうしようなどと思っていたのでホッとした。またそれと同時にワクワクしてきた。 昔糸岐川を越えたところからそのまま海沿いを行く多良海道と、西の方へ少し行ってから糸岐川を渡って山の方につながる道とがあり、北町はその2本がちょうど重なっている場所であった。江戸時代には伊能忠敬も測量のために多良海道を通ったのだそうだ。そのため茶屋も多く、地図に示した『岩崎』というところに昭和の初めくらいまで2件の茶屋があったという。「屋号の話になるけど、梅屋というのがあるね。そこは昔宿だったんだよ。」とおっしゃっていた。 他にもその道沿いには井戸があり、すぐ近くに観音様があることから『観音さん井戸』と呼ばれ、みんなで共有していたそうだ。 若芝さんはどんどん地図に書き込んで行く。 そして「『鬼塚』ってとこには昔古墳があったね。」とおっしゃった。そこには昔円墳があったそうだが、現在のみかん畑の園内にあり、開拓の時、ほとんどが破壊されて残ってないと帰ってきてから読んだ「太良町誌上巻」にも書いてあった。『鬼塚』と書いて『オンツカ』と呼ぶそうだ。また、鬼塚には6つの地蔵が彫ってある六地蔵がある。若芝さんはそれを『ろくんどさん』と呼んでいた。「町の人は『ろくんどさん』といやぁわかるよ。」とおっしゃった。 次に北町で唯一田んぼの地図記号があったところを指さして、「ここは『牟田田』っていうところで、この田んぼは湿田なんだよ。」 と教えてくださった。右の絵のようにして湿田で あることを利用して高さを調節しているのだとい う。この『牟田田』のちょうど真ん中あたりが隣 の針牟田との境である。 北町の南側に子字名で「法隆寺」(フウ リュウジ)と呼ばれているところがあ る。近くに昔地主さん住んでいたとい う家があるのだが、今では法隆寺とい えばその家を指すようになっているそ うだ。また、その家の裏に小高い丘が あり、そこに八幡神社がある。そこに は南北朝時代に八幡城と称する山城が あったと伝わっているそうだ。「私たち はその辺り一帯を『八幡さん』と呼んどるがね。」とおっしゃっていた。 上にその写真を示す。(注:写真・絵は後日掲載します。以下同様)『八幡さん』のある小高い丘はその昔地主さんの家の裏庭だったと聞いてとても驚いた。また改めて当時の町の人が米を納めたりしていたという地主の存在の大きさを知った。後で若芝さんがおっしゃった話だが、町の人は昔地主に米を納めていたが、後に金を納めるようになったそうだ。そして戦後の農地改革によって地主に何かを納める制度はなくなったという。 八幡さんや法隆寺のすぐ東に、前に書いた多良海道から山の方へ分かれる道の分岐点がある。そのは山からの道と海岸沿いからくる道とがちょうど出会う場所ということから「落合」(オチアイ)という小字名が付いている。「誰かが『落矢』と言ってしまったもんやから、昔八幡さんともう少し南の陣内にあった城とで戦があった時に、陣内から飛ばした矢が八幡さんにとどかずに落ちたとこだっていう話をこじつけたんやろ。だいたい陣内から矢がとどくわけないがなあ。」とおっしゃって、ハッハッハッと笑っていた。私たちもようやく緊張がほぐれたのか、おかしくて笑ってしまった。その後、若芝さんは今までとはちょっと変わって面白い調子で続けた。地図に印をつけながら、「北町は北と南で、北組と南組にわかれとるよ。わしらは北組んもんが〜とか、南組んもんが〜とか言って使うがね。」とおっしゃった。この二組に分けてまとめて呼んでいる中に町の人が全部入っているということで、何だか町の人のつながりのようなものを感じ、味がある呼び方だなと思って聞いていた。 ここで若芝さんの話は一段落した。結構しこ名を教えていただいたが、町では何が盛んなのかが気になっていた。調査に行く前から、漁港があるから漁業なのかなと思ったり、地図には田んぼの印もあるから農業なのかなと思ったり、桑畑や果樹園の印もあるから---、などいろいろ考えていた。北町は決して大きな町ではないのに地図を見る限りでは主な仕事の見当がつかないくらい様々な地図記号があったのだ。そこで私たちは「北町ではどのような仕事が主にされているのですか?」と尋ねた。すると若芝さんは「北町は職人が多いねえ。」とおっしゃった。提灯、樽、ふすま作りの職人さんや鍛冶屋、酒屋、床屋、精米所、塩・砂糖・タバコなどを売る雑貨屋さんなどがあるそうだ。農家は現在は80軒中10軒くらいしかないそうだ。漁業をしているのは5,6軒ほどで、舟をこいで沖へ出て一本釣りをするそうだ。また最近ニュースでもよく耳にするのだが、有明海といえば海苔だと思っていたので、海苔のことを聞いてみた。諫早湾干拓の影響はそこまで受けてないそうだが、北町には海苔を採っている家は1軒しかないそうだ。私たちが海岸に出て海苔の舟を見てみたいと言うと、若芝さんは快く車で案内してくださった。右にあるのが 海苔舟の写真である。少し小さい舟で 海苔を引き上げるのだと教えてくださ った。また他にジメキといって、海中 に竹をさしその竹につくフジツボをと ったりもしたそうだ。ここで、「海岸 沿いを歩いている時に、糸岐川に石が 丸く詰まれているのを見たんですが、 あれは何ですか?」ときいてみたとこ ろ、うなぎをとるためのものらしい。 若芝さんも子供のときこの川でよく遊んだそうだ。「わしらは皆あの川で泳ぎも覚えたもんだ。」と懐かしそうにおっしゃっていた。 次に私たちは「水利について教えてください。洪水とかはあったんですか?」と尋ねた。若芝さんは少し考えてから「糸岐川は堤防もあったし洪水とかはなかったねえ。じゃあ海のほうの話をしようか。」と話し始めた。 糸岐川は上流から流れてくる間に一緒に土砂を運んでくるため、今の糸岐漁港の辺りには昔その土砂がたまっていた。大正時代や昭和時代の初めの頃は、土砂はそのまま海に流れ出して近くの海の底ににたまり『はなれ洲』と呼ばれる州ができていたのだという。この「はなれ洲」にたまったガタを昔は肥料として使っていたらしい。またそこではアサリの養殖をしていて昔はいいアサリが採れていたそうだ。若芝さんは「がた混じりの砂地のアサリと砂地のアサリとではおいしさが違うんだよ。」と教えてくださった。はなれ洲は海に沈んでいるが、もう一つ沈んでいない洲がある。それは、ほかのところにあった土砂を持ってくることによってできた洲である。そこは「がた揚場」と呼ばれていて八大竜王がまつってある。この八大竜王のことを町の人は『ハッダジゴサン』と呼ぶのだそうだ。 また「雨乞いとかはしなかったんですか?」と私たちが尋ねると若芝さんは、「雨乞いは---しなかったね。ここは川も海も近いしねえ。でもたぶん、そういうことは『ハッタジゴサン』に参ったんじゃないかね。」とおっしゃった。 ここで結構時間がたってしまったのだろうと思い時計を見るとまだそんなに経ってなく、私たちはまだいろいろ聞かないといけないと思い、自分達が持ってきたプリントを読み返した。そして、「小字に『川北』というのがあったんですけど、具体的に川北が表す場所はあるのですか?」と私たちが言うと、若芝さんは笑って「川北って言ったら糸岐川の北のことやから北町やら鉢牟田やら全部そうやなあ。」とおっしゃった。 でもこの質問が、若芝さんの小さい頃の話を引き出すことになったのだ。「糸岐川の北は・・・まぁ川北は北町や針牟田やけど、南は本町だね。さっき話した南組んもんとか言うのと同じで、わしらは本町んもんが〜とかよう言うよ。昔は本町んもんが鹿島の方さ行くのに橋を渡ってきて北町ん中を通っていく時に、わしらは石を投げよった。」とおっしゃった。私たちはびっくりした。若芝さんは人のいいおじいさんだと思っていたのに・・・と一瞬思ったりした。でも話を聞いていると、どうやらそれはそう大したことないことのようだった。「夕方には本町んもんがまた北町を通って帰っていくから、それを陰に隠れて待ってまた石投げよった。」と、とてもおかしそうに笑いながらおっしゃるのだ。私たちもそれには大笑いしてしまった。 若芝さんが立ち上がって、「じゃあこれから北町をぐるっとみてまわろうか。」とおっしゃった。私たちはそんなことまでしていただけるとは全く思ってなかったのでびっくりしたし、感謝の気持ちでいっぱいになった。車に乗り込み、まず国道と平行に通っている道に入った。その道の両側には民家が並んでいた。そこは昔の多良海道だ。運転をしながら若芝さんは、「ここは昔豚屋で、こっちは製材所だったね。」とおっしゃったりしながら、ゆっくりした速度で1つ1つ丁寧に教えてくださった。車に乗って移動している間、道端に立っている人は一人残らず顔見知りのようで、みんなとあいさつされていた。私たちは、暖かい感じがするな、町の人みんなが家族みたいだと思いながら乗っていた。 途中、糸岐川のすぐ北の法隆寺の元地主さん の家(そこは今は廃墟である)に立ち寄った。 その庭から糸岐川の方を向くと、私たちが車 で通ってきた道が右の絵のように堤防のよう になっているのがわかった。堤防の上を道路 がはしっているという状態である。この時、 カメラを持っているということをすっかり忘れていて写すことができなかったのが後で悔やまれた。 私たちはそのまま法隆寺や八幡さんのある小高い丘のまわりをぐるりとまわり少し針牟田に入って、針牟田と北町の境である牟田田に着いた。牟田田には、現在田んぼは一部にしかない。八幡さんのふもとで一度車を降りた。そして、コンクリートで丸く囲いのしてあるところに案内された。そこには水がたまっていて、若芝さんは「ここは『じんべい川』だよ。」とおっしゃった。川といっても流れているわけでない。最初に車でとおった多良海道のすぐ横にも『たん川』というものがあると教えていただいていたのだが、その2つの川はどうやら小さい溜池のようなものであるようだった。また糸岐川の上流から牟田田の真ん中を抜けるように北町にひかれている川を『うら川』いうのだと教えていただいた。水は北町だけでなくどの村でも十分にあったため、水に関する争い事はなかったそうだ。 私たちは車に乗り込み、八幡さんのあるところまで登っていった。八幡さんのある小高い丘は、戦後みかんが作られるようになったそうだ。 その後、ちょうど牟田田に対して八幡さんと反対側に位置している鬼塚に行った。鬼塚も小高い丘で、昔は桑畑だったそうだが、戦後食料のためにさつまいもなどの芋類や麦が作られ、現在では丘全体がみかん畑となっている。現在、鬼塚には「鬼塚道路」と呼ばれる道路が通っている。道端に「鬼塚道路」とかいてあった。この道路は北側の糸岐村との境なのだそうだ。またこの道路沿いに前に書いた六地蔵があったので、私たちは写真を撮った。鬼塚は丘なので途中の風景がとてもきれいだった。そこからは北町全体が見渡せ、南には本町の方も見えたし、晴れていたので海のむこうまで見えた。若芝さんが海の向こうを指差して、「むこうにかすかに煙突みたいなんが見えるやろ。あれは大牟田の炭鉱の煙突よ。」とおっしゃった。本当に眺めがよかった。 ここまできてようやくわかったのだが、北町にはみかん畑がとても多い。北町に田んぼは多くて5.6反だと若芝さんがおっしゃっていた。 資料館に帰ってきてから「何か伝統的なお祭りなどはありますか?」と聞いたところ、「せんとろう」というのがあるよとおっしゃった。はじめ、「せんとろう」と聞いてよく分からなかったが『千灯篭』と書くと分かった。これは、子供が相撲をとったりする祇園祭なのだそうだ。 その他に町史で調べたところ二つの祭りが分かった。一つ目は、「おくだり、おのぼり」というもので、これは浅間神社と荒穂神社の建立の祝いから始められたと考えられており川北と川南が2年交代の当番でおこなっている。<おくだり>は10月19日で、小学生が荒穂神社に参拝し、夜人々はコンニャクにじめを食べ、酒を飲み、太鼓をたたいて一晩中興じていた。<おのぼり>は10月20日で、小学生が今度は浅間神社に参拝する。家庭ではイモンコにジメ等を大きな鉢に入れ、酒と一緒に家の前に出していた。人々はそれを自由に飲み食いできた。 もう一つは「鬼火たき(ほうげんきょう)」というもの。これは、毎年1月7日の夜一年間の無病息災を願って行われていた行事である。青竹や藁を使って大小二つの<ほうげんきょう>を作り、初めに小さい方を燃やし人々に開始を知らせる。人が集まったところで大きい方に火をつける。尻や背中、腹等を火 柱にあぶったり、残り火で焼いた餅を食べたりして無病息災を祈ったそうである。 調査結果 しこ名は以下のように集まった。 イワサキ(岩崎) ミノヤマ(みの山) オンツカ(鬼塚) ロクンドサン(六地蔵さん) キタグミ(北組) ミナミグミ(南組) ウウカワ(大川) タンガワ(たん川) ウラカワ(うら川) ムタダ(牟田田) ジンベイガワ(じんべい川) ハチマンサン(八幡さん) ハッタジゴサン(はったじごさん) カンノンサンイド(観音さん井戸) 調査に行くまでいろいろと調べたりもしたが、実際しこ名をあつめることができるか不安だった。しかし、若芝さんのおかげでしこ名だけでなくいろいろなことがわかった。昔の海道もあり、漁港もあり、みかん畑もあり、という趣のある町で、まったく知らない町が身近になったような気がした。 最後に改めて若芝さんに感謝して終わりたいと思う。 |