6月30日私達は胸を膨らませバスに乗った。着いた場所は破瀬の浦、突然救急車がやってきて何事かと思いきや目の前では交通事故が起こっていたようだ。いきなり幸先の悪いものを見てしまったと思ったが、これはまだこれから始まる悲惨な旅の前兆に過ぎなかった。地図の上では破瀬の浦は嘉瀬の坂のすぐそばだったので、歩いてもそんなにかからないだろうとたかをくくっていたがその予想はすぐさま裏切られた。まずどう進むべきか聞くために側を通る車を止めようと思って、困っている顔をして走っている車に近づくと田舎の人はみんないい人なのですぐに車を止めてくれた。天神ではこうはいかないだろう。そして顔を出して「どぎゃんしたとね(どうしたの)?」と声をかけてくれた。私達が調査の為に来ていることと嘉瀬の坂に向かっていることとその方向がわからなくて困っていることを伝えると、「じゃあついてき!」と言われたのでゆっくり走っていってくれるのかと思ったら全く普通のスピードで私達はついていくのがやっとだった。なまじついていったのが悪かったのか一緒に行った残りの二人は途中で脱落してしまうほどの速さで、私達は田舎の子と違って日々走り回っているわけではないのでこんなスピードで走れるわけがない、と心の中で思いつつ足が動かなくなるまで走らされた。田舎の人もどうやらあまり親切ではないようだ。何とか山の麓までついていった私達は「この道ばまっしゅぐ行きんしゃい。わからんごてなったら近くん人にでん聞きんしゃい。」と言われたので息を切らしながらも山道を登り始めた。しかしまっすぐ行けとは言われたものの道は大蛇のように曲がりくねって私達の目の前をふさぐかのごとく高くそびえる。先程の強制的追走劇もあって1リットルのペットボトルにいっぱいだった水も一気に2割くらいにまで減ってしまっていた。この暑さで蒸発してしまったのかと一瞬自分の目を疑った。普段は簡単に流し見してしまう地図の等高線の恐ろしさというものを初めて思い知らされた日だった。そして目印にしていた鶏舎を地図で探しながらお手紙を出していた嘱託員の池田富康さん宅へ向かった。この山道でひときわ目をひく鶏舎は後出の新宮ミカさんの話によると30年前に始めたもので大昔からやっているものではないそうだ。
途中の道端でおばあちゃんに道を確認した後、池田さん宅前の坂の下まで行った。昼頃に伺うと連絡していたのだが着いたのが正午頃だったので、ここはマニュアルに従って昼食時を避けて伺うべきだと判断した。そして時間をつぶすために周囲を散策した後、坂の下で先に昼食をとることにした。散策の結果嘉瀬の坂一帯は田んぼより果樹園が多かったような気がしたので果たしてしこ名がちゃんと存在するのかどうか一抹の不安は残った。昼食を取った後池田さん宅に入ろうとした直前、裏口から自動車が出て行く音がしたので嫌な予感がして必死で音のする方へ走ったが、時すでに遅し、私達が自動車を目で認識しそれに人が乗っているのを確認する間に自動車はもう私達の追いつけない速度に達していた。それでも誰か家の中に残っているだろうと思いつつ表口からたずねてみたが、人のいる気配がなく30分ほど待っても戻ってきそうになかったので、「先日お手紙を出した九州大学のものです。1時頃お伺いしましたがご不在でしたのでご近所の方に先にお話をお伺いしております。3時頃までにご都合がついたならお話を聞きたいのでお電話下さい。」と置手紙に電話番号を残して池田さん宅を後にすることにした。田舎の人と私達では時間の感覚が違うのだろうか、私達の判断の微妙な甘さが貴重な情報収集の機会を逃すことにつながったのだ。フィールドワークでは時には臨機応変さも必要だということがよくわかった。後の人達の参考にしてもらいたいものだ。 次に私達が向かったのは池田さん宅から一番近い農家だった。玄関の前まで行き、扉を少し開けて農家の人を呼んだ。「九大の者ですが今歴史調査をしているのでよかったらお話をお聞かせ下さい」というと、奥の方から返事がして新宮芳行さん(52歳)が笑いながらでてきてくれた。私達の班は小字地図がなかったので小字の場所がわからなかった。だからまず小字一覧を出して一覧表にある小字を確認しなければならなかった。玄関の前で私達が小字について聞くと温厚そうな人柄を見せながらいろいろな質問に答えてくれた。しかし小字一覧の中にある名前はなんとほとんど聞いたことがないと言われた。新宮さんの話によると嘉瀬と一ノ谷はあるが野口と矢岳とサコはないらしく、鬼木は板の坂の方にあるという。また小字一覧にあるものの他にウシロノ谷というのが存在するという話だった。小字について2つ(3つ)しか確認できなかったので私達は多少戸惑いながらも「しこな」について聞くことにした。「田んぼに名前とかありますか。田んぼの呼び名とかなんですけど。」と尋ねると、最初は思い当たらなかったようだがちょっと考えて「そこの真ん中の田んなかはウマレガワぁ言いよるばってん、名前の由来はそこで水の流れが2つぶつかって1つの流れになっとっとさ」と教えてくれた。またその両側の田んぼについてはイットウマキとサントウマキといって、そのイチやサンというのは植える苗の量を表しているとのこと。田んぼの呼び名は自分の田んぼには名前があるが人の田んぼを呼んだりすることはない。新宮さんの所有する田はその3つしかないため、田のしこなについてはもう聞けないだろうと考え、農業についての他の質問に移ることにした。まず、ゆいのような行事を行っていたか尋ねてみた。すると「今はやっとらんばってん、自分の田ば終わらせたら、他ん人んとこば手伝いに行きよったよ。最後の田にはみながどっと集まった。」と教えてくれた。また、手伝いに来るひとたちは「ひとこしかしにきた」といっていたらしい。今よりもやはり近所の人達とのつながりが強かったんだなということを感じた。また、ゆいが終わると、さなぼりといってみんなで集まっておはぎを食べたそうだ。それがお礼だったらしい。みんなで働いたあとのおはぎはかなりおいしかっただろうとおもう。次にあぜに何か植えていたか聞いてみると、小豆を植えていたことをおしえてくれた。これは土地を無駄にしないためであり、生活の知恵だそうだ。できた小豆は正月のもちのあんこになったそうだ。また今ある果樹園は昔は、いもと麦の二毛作をやっていたそうだ。 農業に関する質問が一通り終わったので、目印になる木とか岩がないか尋ねてみた。すると、夫婦松(メオトマツ)と言う木について話してくれた。二本のマツが夫婦のように並んでたっていたため、そう呼ばれていたそうだ。この木は今はないそうだが、昔は町に出るときの距離や時間の目安になっていたそうだ。生活の知恵だなと思った。昔は車とかなかったから、町に出るのも一苦労だったんだろう。もうひとつ昔の交通手段についておもしろい話を聞けた。なんと嘉瀬の坂の中に、昔の参勤交代の道があったというのだ!トンサンミチと村の人たちは呼んでいたそうだ。残念ながら、林のなかにあったため、今は草が生い茂ってどこがそこなのかわからないらしい。歴史の教科書で習った参勤交代を実感できるチャンスだったので、見てみたかった。 次の質問は電気についてだった。電気がいつひかれたか聞くと、嘉瀬の坂に電気がひかれたのは意外と早く電気のない生活を知っているのは90歳以上のお年寄りだけらしかった。この村には80歳代までの人しかいないのでここからは伝え聞いた話になる。電気が他の地域より早くこの村にきたのは坂本さんという大地主がいたためらしい。当時は今と違って国ではなく個人がお金を出さなければならなかったので、その坂本さんの尽力によって大変なお金を払って電気をひくことができたようだ。また坂本さんは電気についてだけではなく、寺子屋の設立にも手をつくしたそうである。その寺子屋は三里と嘉瀬の坂の境目にあって今の三里分校の前身にあたるものらしい。現在その三里分校は場所が変わって板の坂の方にあるがその名残で三里分校という名前が残っているようだ。坂本さんがこの土地の人にいかに根付いているかがうかがえたエピソードだった。 電気のないころの話しについては直接知っている人がいなかったので、ここでガスについてきてみたところ、ガスはプロパンガスでそれが入ってきたのは40年ほど前のことで新宮さんがじかに体験していてその時の気持ちを生で教えてくれた。マキをくべるのは子供の仕事だったのでガスのおかげでマキをくべる必要がなくなったことがとてもうれしい出来事だったのを顔をほころばせて語ってくれた。その表情からはその当時の感動がヒシヒシと伝わってきた。 いろいろと話を聞かせてくれた新宮さんに感謝しつつ最後に農業の楽しさについて質問した。きつい仕事である農業を長年続けている中でその楽しみとは一体何なのか。新宮さんの楽しみは米を納めに行った後でみんなで集まってお酒を飲むことであった。そこでいろいろ質問させていただいて感謝の辞を述べたところ、新宮さんが「ビール飲んでかんね、あつかろうが?」とにっこり笑ってすすめてくれた。この不意打ちに私達の中の呑んだくれが突如目を覚まし私達をすごい勢いで誘惑したが、そこを必死に耐えて丁重にお断りした後次の調査の為にこの辺りに詳しい人を尋ねた。すると80歳ぐらいのおじいさんが道を登ったところにいると教えてくれた。新宮さんにはこれから農薬をまくという作業の前に貴重な時間を割いていただいてたいへんありがとうございました。この場を借りてお礼を申し上げます。またビールをすすめてくれてありがとうございます。とてもうれしかったです。この次はご一緒させていただきたいと思います。 そして次の道を登っていくと、新宮さんに教えてもらった辺りの田んぼに80歳ぐらいのそれらしき人が田を監督していたのでこの人がそうだと思い話を聞こうとすると、先にむこうから話しかけられてしまった。「何かようね?」といきなり聞かれたので少しびっくりしたけど九大で小字としこなの歴史調査のフィールドワークに来た旨を説明すると、最初の新宮さんに確認できなかった小字についてはこちらが示した例についても全く反応がなかったので次にしこなについて聞いた。するとこの辺りの田んぼにはしこなはなく、誰かの家の田んぼを指すときは「だれだれさん家の田んぼ」というように所有者の名前で表すということだった。ほかに土地の名前について聞こうとしたら登記の方に話がそれはじめたのでお礼をその場を辞した。どうも農作業中だったようでよく話をきかせてもらえなかったのが残念だが、わざわざ質問に答えてもらったのでたいへん感謝しています。 すでに二人の方に色々なお話を聞かせていただいたが、しこなの数が全然足りないので、他の人にも聞かねば、とあせった。先程、新宮芳行さんが、今日は晴れているので農薬の散布に絶好の日とおっしゃっていたので、どの農家の人も農薬の散布にお出かけになっているのではと心配しつつ、次のお宅を訪ねてみた。すると、私達の心配をよそに、最初に伺ったお宅で話を聞かせてくれることになった。出てきた優しそうな感じのおばあちゃんは新宮ミカさん(72歳)。まず、前のお二人に聞いたのと同じように、小字について聞いた。やはり小字についての情報は今までと同様乏しく、新たな情報を得ることはできなかった。そして三度しこなについて質問することにした。ここでもやはり自分の田にしか名前をつけていないらしかった。ミカさんの話によるとイチンタニとハカンシタという田んぼがあって、イチンタニにあるからでハカンシタは文字通り墓の下にあるからその名がついたということだった。 この時点でしこなについての情報自体が限界だと感じたので、ほかのことについて聞くことにした。新宮芳行さんの言っていたマキは入会の山から採っていたのかと聞くと、入会の山は存在せず自分の山から採ってきたらしく山を持たない人は山を持っている人から分けてもらっていたということだった。マキを拾うのは当時の子供の仕事で、子供達がはねつきなどで遊ぶ傍ら仕事を手伝うという具合だったようだ。村の祭りには昔から12月1日に男祭り、12月18日に女祭りがあって男の祭りには女は参加してよいが女の祭りには観音様祭りという別名があって男は参加してはいけなかったらしい。干ばつのときの話も聞いたところ、干ばつになったときはみかん畑の木と木の間を掘ると水が出るのでそれを掘って田に回すという方法がとられていたようだ。最後に家畜について聞いた。牛は現在では一頭しかおらず代わりに業者に委託された食用の豚が村の上の方でたくさん飼育されているそうだ。昔は豚の委託飼育などはなく農業用に多くの牛が飼われていて重宝されていた。その性別についても聞いたがミカさんの預かり知るところではなかった。 以上で新宮ミカさんへの質問を終えてお礼を言って新宮さんのお宅を出た。そろそろ時間がせまってきていてかなり焦っていたので私達は嘉瀬の坂での調査を終えて撤収する準備を始めた。この調査で小字やしこなについての情報があまりなかったのは嘱託員である池田富康さんとの会見に失敗したことと嘉瀬の坂の地理的条件に阻まれたからからだろう。嘉瀬の坂は田んぼよりも果樹園の栽培が盛んで田んぼなどを区別する必要がなかったと思われる。このような調査の際には現地の人との連絡を密に取ることが重要であるということとその土地の環境に大きく左右されることが経験としてよくわかった。昔の地主の坂本さんなどの話を聞くと地方における人と人とのつながりの強さを感じるが今は年齢層も高くなりしこななどで呼ぶことも少なくなって人々の結び付きも弱くなったのではないかとも感じた。とにもかくにも直に農業をなさっている方のお話を聞けたのは貴重な体験であり、それだけでもこの調査に参加した意味がたくさんあったと思う。 調べた結果、わかったしこなは以下のようになる。
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