陣ノ内

1sc00235N 藤井謙一 1ed01031R 楢崎尚弘

見陣 真義さん、見陣 タツエさんに聞き取りをした。

しこ名;シロツジ(城辻) シロシタ(城下) オチヤ(落ち矢)
田圃;城下の南にムタダ(湿田)
ほか;亀崎にカブトイワ 城下お南東にゴアンザカという坂

曇り空に晴れ間が差し込む頃、私たちふたりのフィールドワークは始まった。
自然のすばらしさとともに満喫しながらも、調査に協力して下さったおじい さん、おばあさんの語りに耳を傾け、普段の生活では得られない貴重な体験 を味わうことができた。最後の最後でバスの待ち合わせ場所に全力疾走をし て終わりを告げた今回のフィールドワークの成果を、これからここに示す。

最初のバスを下車し、数分遅れの地元の祐徳バスに矢の津から乗り、バスに 揺られて、目的地に最寄りのバス停にて下車。それから徒歩で数十分、よう やくお話を伺う約束を取っている家の付近に到着。今からそちらに伺います と連絡を取っていた中尾さんに連絡をした時、事件は起こった。なんと中尾 さんは今から葬式に行かれるところだったそうで、2:30過ぎにしか会う ことができないそうだ。2:55分のバスで帰る予定だった私たちはそれで はバスに間に合うはずがないと判断し、他のお宅を伺うことを決めた。
まず、近くにある善行寺を伺うと、そこの方はあまり昔のことをご存知では ないそうなので、裏の高木精郎さんというおじいさんを紹介していただいた。 そこで伺ってみると、なんと高木さんはあまり目がよろしくないそうなので、 他の方を紹介していただくことにした。すると、近くに見陣さんという方が いらっしゃるそうなので、見陣さんのお宅を伺った。最初はすんなり事が進 むとは思ってなかったが、こうも苦労するはめになるとは・・・・・・・。 そうして、今度こそはと思いながらも見陣さんのお宅に到着したのであった。 そうしてやっとお話を伺うことができた。まず、事情を説明し、あざ名の聞 き取りを開始した。しかし、あざ名があまり浸透してないせいか、あざ名と 言ってもわかってもらえず、昔から使われていた土地の名前と言いかえるこ とで理解していただいた。最初に教えていただいたあざ名は、小田川と陣ノ 内川が合流する地域を示すシロツジ(城辻)、シロシタ(城下)であった。 このあざ名に関してはとても面白い話を聞かせていただいた。シロツジ、シ ロシタの北西にある、糸岐川の対岸の八幡宮(ハチマンサマと呼ばれていた) の地域と、シロツジ、シロシタのある地域の間で昔、戦があったそうだ。そ の時、シロツジ、シロシタ側放たれた矢が八幡宮まで届かず、糸岐川沿いの 地域にその矢が落ちたことから、その地域のあざ名がオチヤ(落ち矢)にな ったそうだ。またシロツジ(城辻)、シロシタ(城下)の名前からわかるよ うに、この地域には昔城があったそうだ。その城の内側ということで、陣ノ 内という地名になったらしい。こういったあざ名のできかたがあるのだなぁ と思わず関心してしまった。
また、見陣さんの家の向かい側にある山に向かう坂道のことをゴアンザカと 言うらしいこの坂道は今は山の向こうへとつながっているが、昔は別の道が、 おそらく尾根づたいに走っているようだった。今は人の往来がなくなり、藪となってしまった。聞き取り調査の後におじいさんとゴアン坂を歩く事になった。坂の入り口にはイサハヤの神様が奉られており、そばにはもう使われていない井戸が見られた。坂を上まで登ったところの道の両脇に同じ高さの土地があった。おじいさんの話を聞くと、ここには昔一軒の屋敷があったらしい。
海岸沿いの古い地名としては、カブトイワと言う名を教えていただいた。戦時中に行われた白石干拓に使うため海岸の石が運ばれたが、カブトイワだけはそこに残されたという。以来、ここのあざ名となった。
水路の利用は主に陣ノ内川から水を引いていた。小田川は水量が比較的少ないため、陣ノ内川から小田川へ一度引き、再度陣ノ内川に水を戻して水路として活用した。この水路は今も使われている。また、この二つの河川はまっすぐ下流に伸びているが、以前蛇行していたものを石垣でせきとめ直線化したのだと言う。
数年前の飢饉の時は、あまり被害がでなかったらしい。それに、その時期に政府が米の供給をおこなったおかげで十分に生活できたようだ。
昔の農家の収入源は百姓だけではない。ヤマシの仕事もしていたと言う。ヤマシというのは、山に行って薪を取ってきたり、その他いろいろの山の産物を利用して収入源にしていた。このヤマシの仕事も昭和30年ごろを迎えるとみかんを植えたりなどして変化を見せる。このみかん園の担い手は陣ノ内の人々だけではない。他からも人が来てみかんを植えたり、なかには、長男を本家に残し次男、三男対策を目的としてきていた人もいると言う。
陣ノ内に電気が通ったのは昭和元年だったようだ。おじいさん、おばあさんが物心つくころには既に電気があったという。ただ、ライトは一軒につき一個が相場だったらしい。当時、それ以上は電気代が高くついた。そののち昭和35年に水道が通り、昭和40年にガスが通るようになった。冬の暖房は七輪を使っていたようだ。数少ない暖房器具で重宝されていた。
おじいさん、おばあさんが子供の頃は山や川や海で遊んでいたらしい。ウナギに似たスボという魚を手ですくいとっていたようだ。糸岐漁港では昔ハゼなど取れていたらしいが今は取れにくくなり、漁師は赤貝や海苔の養殖で生計を立てている。
今回の調査は、苦労はしたものの満足いくものができた。最後に、好意的に協力してくれた見陣さんを含め、調査に協力していただいた陣ノ内の方々にありがとうのお礼が言いたい。