板の坂地区調査レポート
2001年6月30日調査
古賀義將   末松浩一郎

去る6月30日に、私達は佐賀県藤津郡太良町大字糸岐板の坂地区を訪れ、調査を行った。調査内容は、失われつつあるしこ名、地区の水利、昔の暮らしなどである。率直な感想として、私達の調査は順調に進んだとは言い難いものであったと思う。

私達が調査の際にお世話になるはずだった山本さんとの事前の連絡がうまくいかなかったため 現地を訪れる前日になって、山本さんが所用でおられないという事がわかりたいへん戸惑ったがとりあえず現地に向かい調査を行うということになった。
調査当日、9時をやや過ぎて学校を出発した。私達を乗せたバスはほぼ満員である。
バスにゆられること2時間あまりで、太良町内へ到着した。有明海の干潟が見える。本当に広い干潟だ。それからバスは国道を離れて狭い山道を進んだのであるが、大型バスで通るにはあまりに狭い道であったのでバスはかなりスピードを落として進んでいた。こんな狭い道をバスが通るなんて滅多にないことだろう。

山道をだいぶ進んだところで、私達の下車地点についた。
バスを降りた途端、鼻をつくにおいがした。山深いところだから、森の爽やかなにおいを期待していたので面食らってしまった。牛の糞だろうか。そういえば通りすがりに牛舎をよく見かけた。見まわしてみると、辺りには人家が一軒、牛舎と思われる建物が一軒あるだけで他には木々と畑しか見当たらない。「何にもないところだな」などという言葉を交わしながら私達は歩き始めた。
20分ほど歩きつづけただろうか、養鶏場に着いた。そこで作業をしている人に板の坂の場所を尋ねてみるが、答えは返ってこない。地図を確認したところ、どうやら道を間違えていたようだ。もとの道へと引きかえす。
それからまたしばらく歩いた所で再び地図を確認した。今度は道を間違えていないようだ。道といってもほとんど坂道なので、引き返したりするとなるとかなり面倒なことになる。しかし、ずいぶんと歩いてきたはずだが、いっこうに目的地に近づいた様子はない。 多少不安になりつつも、ずっと歩きつづけた。分かれ道にさしかかった。バスを降りてから一緒に歩いてきた別の班とはここで別れることになる。ここからは、私達の班2人だけで行動することになる。
ここから林のなかの一本道を進む。現地の人は、こんな道を進むことなど日常茶飯事なのだろう。うっそうと木々が茂っていて、ほんとうに山の中にいるという趣だった。その道を20分ほど歩いたところで、やっと人家が見えた。どうやら目的地である板の坂についたようだ。木々の茂った道とは打って変わって、開けた場所に出た。思ったよりも集落の範囲は広い。

だがしかし、ここまでに時間がかかりすぎた。結局、バスを降りてから1時間以上歩いていたことになる。 調査に時間を割くことが出来なくなっていたのだ。

目的地に着いた私達は、さっそく家々を訪ねていくことにした。事前に訪問の約束が取れていないので、最悪の場合は誰にも話をうかがうことが出来ず、調査がまったくできないのではないかと考えていた。当日はあまり人がいないのではないかと危惧していたが、実際に訪れてみるとそうでもないようだ。はじめに訪れた民家でおばあさんに調査の旨を伝え、話をうかがってみる。
「 私は知らんですけど、徳永さんやったら知っっとられるやろう。あの人は何でも知っとんなれる」
とおばあさんは言われるのでその通りに徳永さんのお宅を伺うことにした。徳永さん宅を訪れ、調査の旨を伝えた。すると、そういうことはおとうさんが詳しいから、といって徳永 弘さんを呼んで下さった。徳永さんは1932年生まれで、板の坂には50年前から住んでいるそうだ。あとで聞いた話だが、板の坂では世代交代が進んでいて、昔のことを知っている人がかなり少ないということだ。
徳永さんは突然の訪問にもかかわらず、快く調査に協力してくださった。私達の質問にも丁寧に答えて下さった。
以下にそれをまとめてみると

1.しこ名について
古近道(フルキンドウ)
四升播き(ヨンショウマキ)
岩の口(イワノクチ)
瀬原(セハラ)
四つ枝(ヨツエダ)
向江(ムカエ)
以上のしこ名があるそうだ。今は面積で田んぼを呼ぶので、こういう呼び方は廃れているそうだ。 また、しこ名の由来についてはわからないという。

2.地名について
草原(ソウラ)
野田の平(ノダノヒラ)
大谷(オオタニ)
岩道(イワミチ)
麻畑(アサバタケ)        
フウノキ(楓か?)
以上の地名がある。

3.水利について
水源は近くで涌き出ている水を用いていて、かなり規模の小さいものだそうだ。実際に確認したところ、その通りだった。村の水源はこの涌き水のみといってもよいもので、供給できる水量も少ないようだ。そのため、近隣の集落で水源を巡る争いなどはなかったそうだ。また、水源が少なかったということで、旱魃のことが気になったのだが、意外なことにもいったん涌き水が出ると水不足になることはなかったそうだ。旱魃に苦しむこともなかったという。しかし水源が乏しいのが災いして、冬になると田が荒れたそうだ。現在でも管理に手間のかかる田は見捨てられ、荒れているものが多い。

牛・馬の利用について
60年ほど前までは農作業に馬も使っていたが、それ以降は牛を使うようになった。昔は雄牛も雌牛もいたのだが、戦時中になると若者が兵役に取られ、集落には女・年寄りしかいなかった。だから気性が荒い雄牛は危なくて使えないので、おとなしく扱いやすくさせる目的で去勢した。去勢した牛のことを「たま抜き」というようだ。戦後は林業で用いるために力の強い雄牛を去勢せずに用いていた。農耕には去勢した牛も用いていた。また、45年くらい前からは使役の目的で牛を飼うよりも食用として牛を飼う農家が増えてきた。それらの牛・馬を洗うための牛洗い場は、前述の湧き水の出る場所に設けられていて、そこをオオカワと呼んでいた。子供の水遊びの場にもなっていた。またそれは飲水にも用いていた。牛洗い場は昭和36、7年くらいまで使っていた。

村の様子について
昔は山での作業と稲作が中心だった。山でとった木材は炭にしてしていた。しかし林業は商売にならないのでやがて廃れたそうだ。今でも山を所有している人はいるが、林業を営む人はいないという。また畑もあり、麦や芋を栽培していた。芋はでんぷんにするためのものだった。この辺りにはみかん畑が多いが、古くからあるのではなく、昭和40年ごろから始まった。当時は稲作や畑作よりも利益が大きいということで始められた。昭和50年代になってみかんの果汁がもてはやされたが、その後輸入のオレンジなどに押されてしまい、今ではみかん栽培はあまり盛んではないそうだ。
徳永さんはいち早くみかん栽培を始められたそうだが、今から20年ほど前にすべてやめてしまったという。この集落の田んぼは湿田が多い。そのような手間のかかる湿田から稲作をやめていき、今では田んぼもそれほど多くは残っていない。農業を続けている人は、農作業で使う機械が壊れるまでは続ける、と言うそうだ。しかし機械も急に壊れてしまうわけではなく、少し壊れてまたそれを修理して使う、というような状況なのでなかなか米作りも終わらないそうだ。だがいつかは機械が使い物にならなくなり、農業が終わる時がくるのだろう。板の坂で米作りが終わるのもそう遠くはないことなのかもしれない。板の坂の世帯の数は、昔と比べてあまり変わっていないらしい。 街への通勤に向いていないことと、土地が肥沃だったことが大きく影響しているそうだ。 現在集落には若い人もいるが、農業に携わっているのではない。パソコンを使って仕事をしているそうだ。都市から離れたこんな所で、現代の情報通信の発達を垣間見て驚いた。

板の坂地区の発達について
板の坂地区に電気が来たのは昭和30年ごろで、近隣の地区と比べるとかなり早いほうだった。これは、三里に住んでいた 地主の坂本さんの功績であるそうだ。水道は、20年ほど前に井戸を掘り、その水を使っているそうだ。先々代の町長は水道管の敷設やボウリング工事には積極的でなかったらしい。そのため今でも板の坂では井戸水が使われている。また、農作業に使う機械は、戦後にメリー・テーラーという輸入耕運機が入ってきて広まったそうだ。その後昭和25年に三菱のガーデントラクターなどが広まり、それまで使われていた牛から、だんだんと取って代わられたそうだ。徳永さんはこれら農業機械を早くから使っていたというまた、ダイハツのミゼットも使っていたそうだ。みかん畑の件といい、徳永さんはなかなか先見性を持っておられるようだ。
この板の坂地区でも、農業の高齢化や後継車の問題を抱えているようだ。しかし、板の坂の人々はそれほど危機感を抱いているわけでもなく、むしろ、後継者がいないのなら自分ができなくなるまで農業ををやる、自分ができなくなったらもう農業は終わり、というような以外にもあっさりとした考えを持っているようだった。板の坂地区は、古くから農業が行われてきた場所でもあり、農業によって発展してきた場所でもあるだろう。今回の調査では調べきれなかったしこ名などもたくさんあるはずだ。農業が廃れてしまうと、そいうったものも完全に忘れられてしまう。これは非常に残念なことだと思う。
徳永さんは、国の農業が衰退してしまったのは、そのほかの産業の人件費が高くなってしまって農業だけが人件費と収益とのバランスが取れていないからだ、というようなことをおっしゃっていた。たしかに、農業にかかるコストと作物を売って儲かるお金は割に合わないものがある。ハウス栽培のように、大規模で大量に栽培する体制でないと農業で生計を立てることは難しいだろう。また、作物によっては輸入作物との競争もあるだろう。このような状況では、個人が小規模な田畑で農業を営み作物を売って生計を立てるのは困難なことだろう。 今の日本では、古くからの農村で行われてきた農業は消えゆく運命にあるのかもしれない。

私達はまだ徳永さんに話をうかがいたかったのだが、あいにく時間が足りなくなってしまった。心残りだが仕方がない。私達は徳永さんに道を教えてもらい、礼を言って徳永さんのお宅を出た。

板の坂地区をあとにして、もと来た山道を進んだ。どうやら、このまま歩いていると集合時間の16:00に間に合いそうにないということに気がついた。そこで私達は走っていくことにした。走ればきっと間に合うだろうと軽い気持ちでいた。実際はとんでもないことになるとは知らずに。

地図を片手に、私達は坂を駆け下り始めた。もと来た道を引き返す形で進んでいた。舗装されている道は走りやすいのだが、土の道だと地面を水が流れていたり、コケが生えていたりして苦労した。私達は、実際はあまり時間がないことに気づいた。なんとかたどり着くだろうと思っていただけにかなり動揺してしまった。私達は小走りから、全力で走るようになっていた。全力で走ることは速く進むことができるという長所を持っており、また大きな短所も持ってた。それは、道を間違えてしまうことである。全力を出すあまり、注意力が散漫になってしまったわけである。道を間違えた私達は、それを知る術もなくひたすら走り続けていた。下り坂にさしかかった。もうすぐだ、と思った。それから走りに走った。ずっと下り坂を走りつづけた。まだ着かない、まだ見えない、と思いながら走っていた。走りながら自分で体力が消耗していくのがわかった。自分の足の動きがどんどん鈍くなっていった。それでも必死の思いで走りつづけた。

そして長い長い下り坂を駆け下りて、平坦な道に出た。着いた、と思った。走りつづけること約30分、私達は目の前の風景と、里区と書いた案内板を見て、ようやく道を間違えていたのだと悟った。後日知ったことだが、私達は6キロ走っていたらしい。疲れがどっと押し寄せる。気がつけば全身汗だくだった。そして不安がよぎった。バスにおいていかれるのではないか、と。地図を見たところ、ここはバスの通過する場所であることは間違いないらしい。とりあえず服部先生に携帯電話をかけてみるが、つながらない。もう一度かけてみると、つながった。しかし電波が弱いのか声も聞こえず、途中で切れてしまった。何度かこういうやり取りを続けるうちに、やっと連絡ができた。私達は安堵でのため息をついた。

しかし、バスは私達をずっと待っていたのだった。これもあとになって知ったことなのだが。集合場所に来ない私達を、20分以上待っていたらしい。その際私達に携帯電話をかけたらしいが、走っている最中だったからか、圏外だったからか、気がつかなかった。その後バスは私達を置いていくような形で出発し、それから連絡が入ったということなのだろう。結局全体に遅れが出てしまった。

調査を終えた感想として、まず挙げられることは、調査を順調に進めることができなかった点である。目的地にたどり着くまででかなりの時間を費やしてしまい、調査にかける時間が少なくなってしまった。また、調査をわずかな時間で行ったために、複数の人からのお話がうかがえなかったことも挙げられる。

このように不本意で終わってしまった部分が多く、調査も完全なものとは言いがたいが、実際に現地を訪れ、人々に尋ねることで得られるものは数多い。昔を知る人の話を聞き、それを伝えていくことも私達の重要な使命である。歴史というものは、教科書や、教室の中でだけで触れるものではない。実際に触れることができるものなのだと、実感した。