■ 聞き手: 1LA00102R 境 佳奈子 1LA00107M 坂本 明通子 ■ 聞き取り協力者: 中溝忠喜さん(昭和6年10月2日、69歳) 中園勇さん(昭和6年2月12日、70歳) ■ 調査した村:佐賀県藤津郡太良町波瀬ノ浦
■ しこ名調査について 私達が行く波瀬ノ浦は、小字地図がなかったので、まずは小字の範囲を教えて頂くことから始まった。小字の範囲を教えてくださるうちに、そこにあるしこ名も思い出してきたらしく、その都度教えて頂くこととなった。そこで分かったのが、波瀬ノ浦では、基本的 に小字を通称名として呼んでいるらしいと言うことだ。しこ名を説明した際に「通称、部落の人達が呼び名として、便宜上つけとるわけね。それが俗名よ。」と分かって下さったが、聞いたほとんどの俗名(しこ名)が、小字と同じであった。それでも、小字資料一覧しか持っていなかった私達にとっては、範囲を記すよい機会である。「地図に載っていない名前ね」とも言われていたが、それは確かであり、そのために既に消えてしまった小字もあるのだ。例えば、ツバキワラ(椿原)、ハセ(長谷)は、「名前はのこっとる。言葉は知っとるばってんが、どこの箇所かはしらんようになっとんね。」と言われ、今回の調査の重要性を再認識した。しこ名にはやはり、きちんとした境界はないということだ。また、波瀬ノ浦には、水田がほとんどなく、水田にまつわる地名はなかった。 ■ しこ名、地名の由来やそれにまつわる話について *オカンノンサン 「文久2年くらいにこのジンシャ(神社)を建てたと言うのは、やっぱ漁業を守る豊漁の神じゃったと思うよ。で、昔はほら、ジンシャ仏閣は権威があるものって大事にしてきとるけん・・・。」(中溝さん) 調べたところ、文久2年はおそらく、西暦1862年にあたる。 *ショウズ 潮の中から地下水が出ている。昔は、冬は温水が出ていたらしい。「飲料水としてしてたわけ。ところが機械がでて、もう約40年くらい前かね、この辺一体はパイロット事業で、みかん畑になってしもとるわけよ。そいで、汚染されて、雨がひどく降れば、いくらか色のついてきよったもん。そいじゃだめだと言うことで、4,5年前?3年前に新しいのを掘ったもん」とのことで、つい最近まで、飲料水として使われていたらしい。 *センジャバタケ 各家の前にある、畑。「前菜畑(せんさいばたけ)」がなまって音便化して、「センジャバタケ」と呼ばれるようになったらしい。(中溝さん) *タカミ 2000平方程の場所。波瀬ノ浦へ一番最初に来た先祖の家があるところだ。「その人たちがここを、まず最初に作ったわけ。村落にしたわけ。昔の村落はね、ここは10件てなかったってね。そいけんが、10件なかったって言うのは、慶応元年虎の年…慶応の前の前位がそのくらいの戸数じゃったて。」(中溝さん) 慶応元年は、おそらく慶応=西暦1865年に当たる事になる。 *オチョウズ、オオヒラ 「サトの上にオチョウズってあるよ?オチョウズにね、平家の人たちがだいぶん逃げ延びて来てるわけ。そいでこのオオヒラにいろいろその当時、家を作って、だいぶんカタ住まいで住んだ形跡があるわけ。それで、この辺に古墳がいっぱい出よったと。平家時代の落ち人が隠れとったところっていう伝説がある。そいで古墳がおおかもん。その古墳の中に、吉野ヶ里じゃないばってんが、名刀が出とったよ。未だにオオヒラ一帯には古墳があるのね。名刀の4,5本いって、その中にはいろいろな焼き物があったよ。そういう由緒あるところ。それでね、昔、ちょうど戦後、その辺は開拓に大分開いとったわけ。その中で出てきたわけたいな。ところが、どっちかといえば考古学のあれになれば、古墳は考古学の法にもとに基づいて届をしなきゃいけんっていうあれがあるけんが、それをすればね、なかなか開墾もできないってことで、全部無視してやってしもたところ。戦後ね。オチョウズというところは、昔の平家のあれがあるけんが、戦前までは、太平洋戦争前までは、地主さんがいっぱいおったところ。」(中溝さん) 古墳などを失ってしまったのは残念だが、生活のためには仕方なかったのである。 *コウチ 「昔はコウチは家はあったと。それはもう私達の先祖の時代に。大昔ね。それでコウチの一角に昔の屋敷の跡もあっとよ。川の横にね。そしてその川から飲料水を汲んで生活してきよったとよ。そのコウチとカセノサカのほんな下に、昔の、縄文時代のクワダマが余計出てきたよ。それは太良の中学校に復元して陳列しとるよ。そのときのね、土器も出てきとるよ。クワダマ土器。それはなんで掘り当てたかて言えばね、昔は、だいたい戦後は物資不足で、燃料とかはプロパンとかじゃなかったわけ。全部焚き物だったのね。ここの山のね。それを薪にして、全部大川当たりに大分うっとるわけよ。その売る焚き物を、百姓かたわらに、稼ぎのために、切っておったわけ。家主さんが。ところが、ちょうど消毒薬の匂いがいつもぷんぷんしとったわけ。これはなんかあるに違いないと言うことで、だいぶ鼻に気を使わせて、やったところが、この辺が一番臭かという所で、そこにマエウチ、ツルハシを入れて掘削をしたわけ。ところがそこに、古墳のようなものが、昔の墓たいね、それがあって、クワダマと土器が出てきたわけ。鑑定の結果、縄文時代のあれていうことで、3000年か何年かたっとるということで、今中学校の方に復元しとるよ。そういういわくのコウチ。」(中溝さん)前項のオチョウズ、オオヒラと合わせても、歴史的価値の高いものが多く波瀬ノ浦にはあるということが伺える。 *イチノタニ 「コウチの上のカセノサカの下が市の谷。これはカセノサカ字。」(中溝さん) 「ほんなこの辺(市の谷)だけ。水田があるところを市の谷て、昔の人がつけとっとね。そいで、そこを昔の人が米びつにしとったとよ。それぞれ名前がある。」(中園さん) と、加瀬の坂の小字ではあるものの、市の谷にまつわる話をして下さった。 *イケイシ 「そこは、神社のかみさんが、沖ノ島に渡ろうて思って、そこで一休みしたとか、あるいはケイコ天皇が来て一休みしたとか、言うような地名の由来があるわけ。」(中溝さん) 「石の上で休ましたけん、休み石って言うと。」(中園さん) 石の上で天皇が休んだので、イケイシという名前がついたと言う。「ケイコ天皇」について調べたが、一番この発音に近い天皇が景行天皇だったので、参考として記しておいた。 *オオクボ 「戦後の開拓団が来たところ。そこは山だったとよ。全部みかん。そして、今はみかんが調子のいい経営がならんから、全部豚舎とかになっとる。牛舎とか。オオクボ一帯は豚と牛じゃもんね。」(中溝さん) とのことだ。昔から伝わっているやり方では、暮らして行けなくなった、世の中の移り変わりの激しさを感じさせた。 *カクヤシキ ご本人達は、ナゴラなどとはスケールが違い、とても小さいことを強調されていたが、そのようなものでも立派なしこ名である。しかし、もうこの名前は誰も使っていないということだ。 *カメザキ ここにある墓場にまつわる話であるが、「トオマルカゴに乗せた罪人。罪人をトオマルカゴに乗せて、そして処刑しよったと。」(中溝さん) とのことである。また、この辺りで火の玉を見たともおっしゃっていた。 *ツジ ツジのすぐ上にある、加瀬の坂にある矢岳にも関することだが、「明治10年から100年前、昔の人が先祖が、ヤマシオの出た所て。山津波。山津波ていうのは、山の地すべりがした所。そして地すべりがして、辻の谷が埋められたとて。」(中溝さん) と、約200mほどの地すべりがしたと言うことだ。 *ハゼノウラ 地図上には、「波瀬ノ浦」と書いてある所と、「破瀬ノ浦」と表記してあるところがあったので、その違いについて質問してみた。 「あ、そりゃねえ、だいたい昔の名前は、破れるが本当じゃったと。こりゃ最近の話したいね。52,3年ころ、区長さんが『波のあっところじゃるけんが、波瀬ノ浦がよーはなかろか』て言うて、役場に届出を出したのが始まり。」(中溝さん) 「前の破れる、か。「破れる」じゃけんが、こりゃーよーなかばいって言うて」(中園さん) 「波がよかろ、って、そういう経緯のあるわけ。そいで、その破れるが、もう、先祖代々から使ってきたところの、固有の字ですよ。その方が、本名。こっちは、自分たちが勝手に独断と偏見で字を変えとるわけじゃん。」(中溝さん) 私達にとって、これは行く前からの謎だったが、お二人とも笑いながら話してくださった。 ■ 村の水利について 水田に必要な水は波瀬ノ浦川から引水していた。しかし水田はメインではなく、自分たちで食べる分を作るので手一杯だった。現在水田になっている場所は、昔は家が建っていたところもあるそうだ。各水田・水路には、特別に名前はついていないと言う。 ■ 1994年の旱魃について 「いやぁ、ここはね、かんぱつのあってもさ、水位が全然落ちらないわけ。それだけ、やっぱい自然の水源慣用があるさ。もう1メートルも50センチも水位は下がらんわけ。もう全然。全然下がらんよ。」(中溝さん) という具合に水に困るといったことはなかった。 ■ 土地・山の利用について 共有の山林などがあるか、と問うと、 「いや、ここはなか。しかし太良町はね、町有林がある。1100町くらいある。そいで、山の人工造林では、全国的にトップクラス。」(中溝さん) とおっしゃった。またその山の利用方法については、 「ここの山はもとはね、戦後はシンタンリンが多かったわけ、雑木林が。その雑木林が、当時燃料革命がなかった時代だから、全部薪にし炭にし、そいばふんばしゃりよったわけ。ところが、そいから燃料革命が起こってきたから、人工造林を全部したわけたい、山は。ところが人工造林をしたところが、材木の需要がやっぱ構造的に変わって、もう全部あんた、その、家作るにしても、木材を使わんで、その…なんか一つの工場で作るね、ハウジングに変わってしもたもんですから、そいで需要がうんと減ってきたわけ。減った上に、外材が安いもんですから、どんどんどんどん入れるから、もう採算に合わん山の経営になってしもうたと。」(中溝さん) ちなみに、山の人口造林は、全部で4800町ほどあるそうだ。 ■ 村の発達について 「電気がきたのは大正の初め、大正半ば頃ていいよった」(中溝さん) らしく、生まれた頃にはすでに来ていたという。プロパンガスについても聞くと、 「プロパンガスはね、うちあたり取り付けたのが、プロパンガスは40年代じゃった」 (中溝さん) と答えてくださった。ガスが来る前については、上の土地・山の利用とも重なるのだが、裕福な山があったために薪を燃料としていた。 ■ 村の動物について 大久保辺りに今牛舎や豚舎があることから、昔は波瀬ノ浦で牛や豚を飼ったりしていたか聞いてみた。 「そりゃね、なぜ牛辺りを飼いよったかて、益牛にしよったと。その益牛ていうのが、あ<の、田んぼを耕すため、そいから運搬の原理を作るため、車力を引かせてね、リヤカーを<つけたり車力をつけたり、そいからニノウていうて牛にからわせて、そのためのあの益牛<として牛も馬もしよったたいね。それからもう一つはやっぱり肉牛ね。肉牛としてやっぱ<り肉にするために老人の趣味としてやりよったと」と言われた。そして牛の数は、 「いやぁ、飼う人と飼わん人があったけんね。あぁ、石材関係でやりよる人は全然牛は関係なか。しかし農家の人が、一部、ここでやっぱ10頭ぐらいおった。私たちのしっとっときね。そして、やっぱい趣味で飼う人が2頭から3頭こうとんしゃった。当時がね。」 とのことらしく、また牛のえさは 「農耕飼料ばっかじゃったと。自分たちがほら、草を切って、そしてわらを食わせて、そ<れにサクズていうて、米のかすね、それを振りまいて。そして飼料にして食わせよったと。今んごとあんた、農協からこうてきて、そしてそういう飼料を買った覚えはほとんどなかと。」 と教えてくださった。一方、昨今使われている外国からの飼料に関して、 「腐らんための防腐剤が入っとるわけよ。そいと防腐剤が一番発がん性ばもっとるわけよ。そいけん昔のあの牛は肉を食うても、農耕飼料で全部やっとるけん発がん性がなかわけよ。ばってん今んとは、食えば、それぞれの牛豚が飼料を食うことによって発がん性があるわ けじゃっけん。毒が人間がそれをくいよれば、悪循環をしよるわけ。そいけん養殖の魚も一緒ばい。そいけんあんたたちは税関のあの組織を知らんけんが、こいなばちょっと外国輸入の農産物とかなんとか食われんな、という危機感が湧かんわけよ」 と心配そうに仰った。それから馬についても尋ねてみた。しかし馬は波瀬ノ浦にはおらず、太良の方にならいたということである。また牛を洗う場所について尋ねたところ、それは海であった。牛は海で泳ぐのだと笑いながら教えてくださった。(以上、中溝さん) ■ 村の道について 「部落部落の集落集落に、やっぱい生活道路っていうのを作っとぉけん。生活道路。全部ね、町の行政でやっとる。昔はなかったわけ。ね、今は戦後30年から40年50年にかけて全部生活道路の整備をしてしもうたと。」 と現在の状況をおっしゃり、中園さんが地図への書き込みを手伝ってくださった。昔の道は今はもう地図に載っていないのだが、昔はそこを通って運ばれたものは、 「そりゃもうほとんどが農産物ね。生産した農産物。そいからマキとか昔の材木とかそういうもの。農産物とそいから自給自足のそういうマキとかね、そいから商売用にする専門にマキとかスミあたり」 だった。農産物を運ぶのは波瀬ノ浦の百姓だった。また山を越えて動物たちが数多くやってきていた。例えば、 「まずいのししね、そいからタヌキ。タヌキはねだいぶん汽車でやられるとか、鉄道でやられるとか、そいから自動車でやられるとかひんぱんにおったね。サル。サルは…もう。あとは、いたぢね、野良ねずみもだいぶん出よらした。そいから昔はあの、ヘビがよけおったね。あおヘビの、アオダイショウの。アオダイショウてなればね、長さもやっぱりながいのは2メートルか、おったもんね。大きなヘビの。」 である。しかしその動物たちも今はほとんど見えず、それについては、 「農薬の関係よ。ねぇ、そいけんやっぱりね、天の摂理ていうか配剤でいうか、やっぱり全ての、万諸ことごとく生きていくごとなっとっとが、人間のやっぱり自分たちの利益のためでやっぱり殺したりなんたりして、生息のできんごと死なしてしまいよるもん。やっぱりヘビあたりも、昔はね、マムシあたりは相当おったと。マムシをヒラクチて言いよったもんね。マムシはヒラクチ。この辺通称ね。」 と危惧しておられた。(以上、中溝さん) ■ 祭りと行事について 田んぼの祭りである小さい祭りは数多く行われていた。例えば 「タキトとか、田の神さんの田ば植えてしもた時タキトて田のお祭りをするわけ。サナボ リ祭りとか、そいからね、ハツキトとか。」 等があり、他にも、茶前仕切りという祭りがある。茶前仕切りについては、 「お茶摘む前に一つの保養をしようじゃっかと。これから忙しくなるからと。田植えてん何てん。そういう農繁期が来るから、その前に体を休めて、一つのやっぱり、保養をして体作りをしようという、昔からのあの、しきたりがあるわけたい。」 と説明された。茶前仕切りは、現地では「チャマンシキ」と呼ばれている。また、戦争で亡くなった13人の魂を慰めるための慰霊祭も8月15日に11時から毎年行われている。行事では、年に2・3回運動会やソフトボール大会がある。これは町民体育祭とは別に、 集落独自で行うもので、 「全部それぞれの弁当を持ってきてね、班ごとにヒアテ・ヒカゲ・ヨコバマそいからカミ ていうそういう集落の組があるわけよ。組の人たちが全部集団で昼の弁当こしらえてきて、 そして全部で食べるわけ。」 という風に親睦の場になっている。(以上、中溝さん) ■ 昔の若者について テレビも映画もなかった頃は特に夜は若い人たちは、今の公民館の前世であるクラブで仲間と交流を持っていた。また講組というものがあり、 「いろいろ金銭ば、例えば月に千円ならば千円、こうするわけ。そしてこいが10人もおんなば一万円月にあれすっじゃろが。そぎっと、10人のランクを、あの、順番をこう決めとって、そして、今月は例えばよ、今月はAさんが一万円たい、と。Bさんが次の月た い、と。こういう一つの仕組みをしよったとたい。講組みて言うて。そして、その仲間の集いたい。いろいろ酒を飲んでみたりご飯を食べてみたり話をしてみたり、その親睦の昔の集会をしよったわけ。」 ということであった。共存共栄する習慣もでき、講組は、集落の交流と親善をはかるという役割も果たしていたと言う。その講組み・講仲間が変化したものが今の三夜待という制 度である。また力試しをする石もあった。 「そりゃね、昔ほら、相撲とりさんは力が強いが一番じゃていうじゃろ。やっぱり田舎は利からの強いが一てゆうて、力は肉体労働が主じゃったけんね、そいけん力の強いことが一つの誇りじゃったと。そいでやっぱ青年仲間、昔の学校卒業中学校卒業すれば全部青年仲間て言うて、青年の組織にいるわけよ。そいで、なんか一つの祭りとか何とかした時はその試し石じゃったかの、そいから抱えれるごとなったかとか、なかなかすかしきらんじゃん、あのふとか200キロもあっとば、やりよったわけじゃんけんな。なかなか動かせよらんかった。そういう力試しはありよった。」 また夜働くこともあった。 「そりゃあ仕事の職種によって、船乗りあたりは、石具の運搬あたりは時間が不規則よ。そりゃなしかて言うが、潮の満ち引きが違うもんけんがら、こいは干潟でやっでしょが、潮の満ちた時しか、潮が、船が動かんわけだから。そいけんそれに応じて仕事をするわけだから、時間は不規則じゃったと。」 というのが主に男の仕事で、一方、 「女子はもう野良仕事と子育て、そいから家事ね。」 だった。女性は信念を持ってそうしていたわけではなく、地域の制度がそうなっていたためである。よその村の人が遊びに来ることは、青年団同士としてはあったという。よそ者を村に立ち入らせないように妨害したりなどということもやはりあった。 「やっぱり歴史の流れの中で、昔はほら藩政の中であったけんが、そのなごりをくんで昔の人たちが知らない人を見れば泥棒と思えと。うん、そういう警戒心は非常に強かった。こりゃもう藩政のなごりやんね。そいけんが、例えば太良のほら、小学校に行っとれば、太良の人て分かっとればね、他の人も何も抵抗せんわけ。ところが、ありゃ太良んもんじゃなかて、例えば隣の町に行くぎっと、そこば通っときはね、なんかこう縄張りんごとやって、そりゃ異様な雰囲気なりよった。そういう藩政のね、昔のなごりの。人を見れば泥棒て思えていうような。そういうやっぱ欠点もありよった。ばってん、今はそういうあれが全然なか。」 らしい。今は、職業別に、また三夜待の会というようなグループグループでの交流はあるが、地域全体としてはない。これからは、その交流もますますなくなっていくであろう。 (以上、中溝さん) ■ 村のこれから 諫早干拓について尋ねると、大変憤慨なされた。 「ありゃ自然ば荒らしとっとじゃいけん、その、天の制裁ていうかね、そりゃ必ずツケは来るよ。そりゃツケは来るていうことは当然のことじゃん。自然の摂理から言うて、そりゃできればせん方がよかと。」(中溝さん) 諫早湾の欠陥がのりに出たのは多分間違いないだろうとも仰った。潮の流れが早ければ、えさが寄って来て魚も寄ってくるのだが、流れがなくなったため、のり栽培をしてもやっぱいあの養分が集まって来ないので、それで不作になってしまう。干拓の影響は大きい。なぜなら、諫早湾ていうのは一つの湾になっていて、潮が有明海が動くための一つ伴奏者とでもいうような存在であったのに、それを閉め切ったばっかりに潮の動きが変わってしまったのである。子孫繁栄のためにお産をする魚にとっての、いわゆる子宮の役目がつぶされてしまった。本当に百害あって一利なしだと思う。 また村のこれから、ということで、町おこしに関する話になった。 「ここは町おこしていうのは、あの…物産祭りとか、それからね観光を盛んにするために、丸ごと体験ツアーて。福岡から 180名の女性をかに食べに連れにくるわけ。そして食道楽をやらせるわけ。女性に。一泊二日でね。そしてだいたい費用が五千円。腹いっぱい、かにからさしみからこの辺の魚介類、山幸海幸を食べさせて、帰りはみかんを一箱ずつ持たせて、それを宅配便で送ってくらやん。」 それから波瀬ノ浦は太良町の竜宮城であると、自慢げに仰った。(以上、中溝さん ■ その他… ☆漁獲の方法について だいたいは網でとっていたが、手で捕らえることもあった。網取りの方法には、マチアミ、 クチゾコホシ、ガタイチ、ケイタ、ガタスベリ等がある。 次に、ひとつずつの方法について、詳細を述べる。 ・ガタスベリ 先を少し曲げた板に乗り、足で蹴る事で、干潟の上を滑って魚をとる方法。 ・アミスキ 夏に、海が赤くなるほどに魚の集団ができ、それをカジと言っている。そして、人間が下の方が袋になった網を持って周り、その中に魚が入っていく仕組みである。コンテナいっぱいにとれたそうだ。 ・マチ 潮が満ち引きする時に、竹を三角に並べてその中に入ってくる魚を捕らえる。 ・ジュブ 磯に、火の見櫓のようなものをたてて、網で約2,30分毎にすくう。これも潮の満ち引きの時を利用して行われた。 ・サンジャクアミ これは、定置漁業である。引満の差が大きいので、この方法が使える。潮が満ちたときに、沖合いに1キロ程円く並べる。潮が引くとき、その範囲の魚は取り残され、そこを漁師がとる。 ・クチゾコホシ クチゾコと言うのは、干潟面に住んでいる魚のことである。網で干潟面を押して歩き、1キロ程歩いたところで網を引き上げると、クチゾコが一杯入っている。 ☆亀崎のトオマルカゴについて 波瀬ノ浦の上にある、亀崎では、 「トオマルカゴに乗せた罪人を処刑しよったと。」(中溝さん) というように、そこで処刑が行われていた。中溝さんは、そこで火の玉も見たことがあるらしい。 ■ 感想等 現地調査までの準備だが、私達はまず、講義の時に調べた名簿に載っていた、中園さんに手紙を送った。こちらから、手紙が届いた頃に連絡する予定だったが、親切にも中園さんが電話をかけてきて下さった。私達は6月30日に行く予定だったが、30日には議会が入っているとおっしゃった。そこで中園さんが紹介して下さった、一番詳しい議長さん(中溝さん)も、同じく議会である。そこで、7月1日のグループになんとか入れてもらう形となった。地図を何枚もコピーしたり、色を塗ったり、資料を探したり講義の時にもらった資料を読んだりして当日に備えて勉強した。 当日だが、9時に出発し、私達が現地に到着したのは11時半頃であった。手紙でお知らせした時間は12時半だったので、それまでに神社を見学することにした。しかし、神社に行く途中に中溝さん宅があり、そこで既に奥さんが待っていて下さった。「あー、あんた達、調査しに来た人やろ?」と、上の方からふいに声をかけられ、ちょっと驚いたが、待っていてくださったことがとても嬉しかった。まだ時間より早かったが、ありがたくお邪魔することにした。 向かい合って座り、いざ調査を開始することになった。初めは、太良町にまつわる言葉の調査だと思っておられて、そのような地元で刊行された本を探してくださった。 しかし、見つからなかったので、そのまま地名調査に移行することとなった。しこ名調査については、前述の通りである。1時間程して中園さんが見えて、それからはお二人に教えて頂くことになった。なくなってしまった地名、ツバキワラ、ハセについては、最初は全く覚えていないようだったが、他のしこ名について聞くうちに、次第に思い出していかれたようだった。残念なことに、範囲まで聞くことは出来なかったが、思い出して頂けただけでも、幸いである。中園さんは小字一覧をとても興味深そうに眺めていらっしゃって、そのうちに思い出されたのかもしれない。 しばらく聞き取り調査が続いているうちに、中溝さんが、「あんた達も、一通りは勉強してきとるね。地名を言えばすぐ分かるけん。」とおっしゃってくれた。やはり、勉強していかないのは失礼なので、そういう風に言って頂けると、資料を調べた甲斐があるし、とても嬉しかった。また、一つの地名を言う毎に、それに関する話もあり、やはり地名は、昔から何かしら由来がある上で成り立っているものだと再認識させられた。 また、山の話しになった時には、森林の果たす役割について教えてもらった。 「あんたたちゃ、森林の果たす役割ってしっとる?私は、これは小学校中学校のに載せなきゃいかんと思うよ。あんたたちゃ、京都の議定書ってしっとる?」 と聞かれたので、森林については何度も環境の講義を受けてきていたし、京都の議定書についても調べたことがあったので、「はい、知ってます」と答えた。その後、説明して下さった内容を下記に記す。 「今、地球の温暖化問題で、大分やられようじゃろが。フロンガスによってオゾン層が破壊されていくけんが、工場とか自動車とかの規制を行うのがひとつと、それと同時に、やっぱし森林が二酸化炭素の吸収をして、それを人間に還元してくれるわけ。そいけん、森林のメカニズムを、うまい具合に組み合わせんと、地球と人類はもてませんよ、と。そういうようなことで、森林の果たす役割っていうのが、国土保全と、水源涵養と、自然の浄化機能という山の果たす公益性があるわけたい。それをいかにして守りながら、地球と人類を住める環境にしていくのか。そいけんが、森林を大事にせんと、どがんでんされんじゃろだい。ところが、森林が何故あれとるのかってしっとる?」 「伐採するからですか?」 「伐採して、再生産ができんわけたい。というのは、あまりにも経済的に安いから。例えば1ha、40年50年を売って何百万かしても、今度は育てるためには何百万てまたせないかんわけたい。そういう再生産が出来ない状況に今あるんだと。山を切れば、あれていくんだと。砂漠化してしもとることと同じわけたい。地球が枯渇しよるわけじゃけん。そのしくみを、小学校から知らんば、山のありがたみっていうのがわからんわけ。そういうことを教えてもらいよっじゃるかと思て。」 と話して下さった。後で、中園さんに波瀬ノ浦を案内していただいた時、一部だけ帯のように切り取られた山が見えた。それは、どこかの事業者が伐採していたものだが、森林がなくなると土砂崩れなどが危険だと言うことで、村人が反対し、中止になったものだった。実際に森林が身近にある方の意見は、現実的でとても深いものがあった。 他にも、昨今のインターネットが普及し、人と人とのつながりが薄れていこうとしていることに対しても危惧しておられた。昔は、 「縦割りの社会横割りの社会の中で、やっぱり上級生は一つの親代わりをしよったと。そいけんが、悪かことをすれば上級生が、だめじゃなかかて言うて、修正機能をきちっとあててきよったったい。そいがもう悪かこたされんの、て。そいから親は聞かせえんばってん、上級生の命令は天の命令と同じこと。よう聞きよったわけよ。」と中溝さんが話してくださったが、親と子、地域と子供達の関係に加え、子供達の中での縦の関係もしっかりしていた。このような子供達の中での関係は、親が共働きで忙しい家が多い、昨今の社会の中にこそあるべきものである。しかし、現状は、地域として行動をとる機会ですら少なくなり、子供達も、縦の関係を大切にしてはいない。 「田舎と都会の交流をやっぱいすべきよ。そして田舎のよさ都会のよさ悪さをお互いがね、やっぱい知って、そしてやっぱいいい方はいい方でいい方に、向けていかんばいかん。」 対策としては、このようなものを考えておられた。私達自身、インターネット社会の中に埋もれていこうとしているので、このような言葉は大変ありがたく、新鮮だった。 ひととおり話が終わったところ、奥さんがおにぎりを持ってきて下さった。とてもおいしかった。中園さんの家をおいとまするとき、中園さんが 「人生で一番大事なのは出会いじゃけん。大切にしなさい。」 と諭して下さったことを、忘れてはならない。 その後、中園さんが村の中を車でまわって下さった。やはり、実際にまわってみるとそれまでに聞いた話がますます理解出来る。カメラを持って行っていなかったことが悔やまれた。まず、ショウズを見た。水が海の中から涌き出ているのが見えて、その隣の埋立地では、数人の方がゲートボールをしていた。 他に、採石場の近くを見に行ったり、地図に載っていない川も見る機会があった。波瀬ノ浦には2つ神社があり、私達は「平建っている方の神社に行ったのだが、平和の塔の碑の裏側には、戦争で亡くなった方々の名前が刻み付けてあった。中には私達とほとんど変わらない年の人の名前もあり、改めて戦争の悲惨さを思い知らされた。 実際にまわってみて分かったことだが、波瀬ノ浦にはとにかく坂がおおい。周りが山ばかりというのもあるだろう。平地は、住宅がある地区だけだ、という印象を受けた。車で移動しながら、 「ここの上がヒラキ。あっちがハカショね。」 と中園さんが解説して下さり、さきほど地図に書きこんだものを思い出しながら回った。 一通りまわり終わり、バスが来るまで中園さんは私達と一緒に待っていてくださったことにお礼を申し上げたい。 以上のように、準備は大変だったものの、私達が現地調査で得たものは計り知れないものがあると思う。地名もそうだが、村の人の考え方や生き方に心をうたれた。 そして最後に、中溝さん、中園さん。快く私達の調査を引き受けて下さり、協力してくださり、ありがとうございました。 |