私たちは、針牟田地区を訪れました。最初に訪問させていただく予定だった井出さんのご都合が悪くなったため、急遽高松さんをご紹介していただきました。 針牟田に入ると、ちょうど高松さんがこちらへ向かってきていました。急な訪問だったにも関わらず、とてもご親切にしていただきました。 まず、高松さんのお宅にお伺いしました。すると、高松さんの奥様が、冷たいジュースをくださいました。それから、高松さんに、実際に針牟田地区を歩きながら説明していただくことになりました。 【甚平衛牟多田】 高松さん宅の目の前に、小さな湧水がありました。この湧水は『ジンベガワ(甚平衛川)』〈写真@〉と呼ばれています。ジンベガワの水は、昔はとてもきれいで、「ジンベさんの水」と皆に親しまれ、飲料水として愛飲されていたそうですが、今はもう飲めないとおっしゃっていました。この傍らに、弘法大師のお地蔵様〈写真A〉が奉ってありました。 ジンベガワから東の方へ向かう道は、『インキョミチ』と呼ばれています。この道は、昔本通りだったそうです。「この道よりあっち(北側)は、昔海やったとさ。」と高松さんがおっしゃったので、私達はとても驚きました。目の先に見える景色は、道や家などで、とても海だったようには見えなかったからです。 その道を通り、針牟田の東端までやってきました。そして、一番大きな道を西へ向かって歩き、元の場所まで戻ってきました。 今私達が歩いてきた地域の辺りを、『ジンべムタダ(甚平衛牟多田)』と言うそうです。このように呼ばれるようになった所以は、後に述べることにします。 そこから更に西へ向かうと、当初お世話になる予定だった井出さんのお宅へたどり着きました。ちょうど井出さんの奥様が出てこられて、「今日はうちの主人がおらんで本当にごめんね。後でまた寄ってね。」と、笑顔で挨拶して下さいました。 今度は、井出さんのお店の裏側を東に続く道上っていきました。すると、誓願寺に着きました。 【誓願寺】 誓願寺に行くと、そこには大きな門がありました。とてもきれいな絵が描かれていました。〈写真B〉誓願寺は、天保10年に建立された浄土宗のお寺です。山門は、「託田の番匠」によって造られたもので、釘は一本も使われていません。 誓願寺の入り口のところには、弘法大師の地蔵がありました。〈写真C〉この地蔵は、前に述べたように甚平衛川の傍らにもありましたが、もともとは4体存在して、離れた場所に置かれていたところ、高松チエさんという方がお告げを受けて、2体ずつまとめて今の場所にあるそうです。弘法大師のお祭りが、今も毎年4月と8月の21日に行われています。4月は女だけの祭りで、婦人会の女性だけでやっているそうです。また、8月のお祭りは男だけのもので、『セン(千)トウロ』といい、子供達が相撲をとったりします。今は子供の数が少ないので、女の子も参加するとのことでした。 また、山門の所には、首なし地蔵〈写真D〉がありました。なぜ首がないのか訊ねてみましたが、高松さんも「そがん昔のこつは分からん。」とおっしゃっていました。 誓願寺から小田の方角へ続く道のことを、『ダントザカ(壇徒坂)』というそうです。昔、諫早藩の武士など、壇徒の人々が、誓願寺にお参りする際に通った事から、このように呼ばれるそうです。壇徒坂の途中、道の両端に2体の地蔵がありました。これらは六地蔵〈写真E〉といって、高さは170cm程のものと、130cm程のものだそうです。 この地蔵と同じものが、昔、糸岐村と多良村との境界であった尾根〈写真F〉にもありました。(現在の太良町は、糸岐村と多良村が合併したものだそうです。尾根から北が多良村で、南が糸岐村だったそうです。) その六地蔵は『オンヅカジゾウ (鬼塚地蔵) 』〈写真G〉といい、他の2体とは違って、「+」という印が刻まれていました。〈写真H〉後程、ここにも実際、車で連れて行っていただきました。 壇徒坂を上りきったあたりの地域を『ババ(馬場)』というそうです。昔、誓願寺にお参りする人や旅の途中の人が、馬を止めてこの辺りで休んでいたことから、そう呼ばれるようになったと言われています。 壇徒坂を下りきると、草むらの向こうに糸岐川が見えました。ちょうど小田との境界に当たり、糸岐川の分岐する所に、水車があったそうです。この水車は『長兵衛水車』といわれます。他にも何個かあったそうですが、今は残っていませんでした。 それから高松さんは、水車の向こうにある山を指さして、「小田のものになるが、あそこに『アラオ(荒穂)神社』があったとです。」と教えてくださいました。1971年に川上神社と共に、太油津にある良嶽神社に合祀されたため、建物も残っていませんが、以前は、10月19日、20日に「おのぼり」「おくだり」と呼ばれるお祭りが行われていて、荒穂神社と浅間神社とを行き来するお祭りだったそうです。 そこから少し西へ進むと、道に三角形の形に囲まれている地域があります。この地域を『ホイキ』と言っているそうです。 ホイキを通って、次に教えていただいたのが、『ヒャクド(百堂)道』という古い道です。これは、針牟田の北西に位置する『オヒャクド様(百堂)』へ続く道です。今はもう道であるということが分からなくなってしまっていました。 また、その近くには、『トノサマ(殿様)道』という古い道があったそうです。昔、殿様がこの道を通っていたときに、とても天気が良い日だったので、空を見上げて「晴れたなぁ。」と言った道です。また、殿様のこの言葉から、この地区が『ハレンタ(晴田)』と呼ばれるようになり、これが『針牟田』という地名の由来になっています。「針…細長く、湿田が広がる場所」、「牟田…湿田」という意味を持つそうで、この地区の特色に合った名前になっています。 殿様道から百堂にも道がつながっていて、この道より東のあたりの地区を、『シャカド(釈迦堂)』と呼びます。 その更に北に行き、山の谷にある地域を『ヤマウチダイ』と呼びます。この地域は、昔田んぼだったそうです。 これで一通り針牟田を歩き終えました。帰りに、井出さんのお店に寄らせていただきました。すると、奥様がまた笑顔で迎えてくださいました。そして、飲み物を用意してくださいました。ちょうど高松さんの奥様も来られたので、みなさんに昔のお話をおうかがいすることにしました。とはいえ、みなさんまだお若いので、あまり昔のことは分からないそうです。皆さんがおっしゃるには、「この辺一帯の昔のことは、大峰の大岡さんが専門」という事でした。 まず、子供の頃何をして遊んでいたのかを訊ねました。次のような遊びを教えてくださいました。 〇きもだめし〇 ヒャクドミチ(百堂道)から誓願寺の辺りまで、きもだめしをしていたそうです。私達が訪ねたのは明るいときでしたが、夜になるとかなり怖いだろうなと思いました。 〇瓦倒し〇 頭の上や脇に挟んだ自分の瓦を、足元においてある相手の瓦に落として割ったら勝ちです。また、片足だけでジャンプして、瓦をけったりしていたそうです。 〇釘抜き(釘倒し)〇 釘を地面に投げつけて、地面にさしてある相手の釘を倒したら勝ちです。 〇他にも…〇 パチンコ(私達の言うめんこです。) 、おはじき、ゴムとび、けんぱ、うまとび、お手玉、玉つき、ビー玉、めじろとりなど、私達もやったことのある遊びもたくさん出てきました。 「今の子供は家でゲームばっかり。」と、高松さんは、コントローラーを動かすふりをなさいました。確かに、最近は、私達が小学生の頃していたような、ゴムとびのような遊びをしている子供を見かけません。なんだか少し懐かしい気分になり、かなり盛り上がりました。 また、昔の暮らしについても尋ねました。 昔、井戸がなかったころ、村の人たちは、甚平衛川の湧水を使っていたそうです。とてもきれいで、少し白っぽい水だったとおっしゃいました。 農作物は、米や麦、芋(サツマイモ)などを作っていたそうです。芋は、『ろくべい芋』と呼ばれていて、でんぷんをとったり、また、薄く切って乾燥させて粉にし、その粉でだんごを作ったりしていたそうです。 冬は、焚き木をとるのが仕事だったそうです。荒穂神社のあたりまでも取りに行っていたらしいです。わらびやたけのこも採っていたとの事です。焚き木は、ご飯を炊いたり、風呂を沸かしたりするのに使われていました。もちろん風呂は五右衛門風呂です。20年ぐらい前までは、どのお宅でも五右衛門風呂だったそうです。井出さんのお宅では、去年まで五右衛門風呂だったらしいです。私達が実際に入ったことが一度も無いと言うと、「五右衛門風呂がやっぱり体が芯からあったまったねぇ…。」と、昔を思い出しながら楽しそうに話してくださいました。 他にも、魚(ボラ、クチゾコ、タコ、アサリ貝、アカ貝)なども採っていたそうです。魚は、潮が引いたときに網を入れて、潮が満ちてくるときに波と一緒に流れてきて網に入った魚をとるという方法で採っていました。〈写真I〉 今は、昭和30年ぐらいのみかんブームにより、田はほとんど無くなり、畑や山でみかんを作っています。まだ緑色のみかんが、道端などにたくさんなっているのが見えました。〈写真J〉 たくさんのお話を聞いて、井出さんのお宅を出ました。(飲み物とみかんをいただきました。) そして、井手さんの奥様と、高松さん夫妻のお写真を撮らせていただきました。〈写真K〉井手さんの奥様は、「また遊びに来てね。」と、笑顔で見送ってくださいました。 それから、高松さんのお宅へお邪魔させていただきました。おじいちゃんの家に遊びに来たような気持ちでした。そこで詳しい資料を見せていただきながら、お話を伺わせていただきました。今までの針牟田についての詳しい情報は、この時にお聞きしたものです。 〇1994年の大干ばつについて〇 水車や農協役場の近くの水を使って乗り切ったそうです。 また、これは昔の話になりますが、雨乞いなどもしていたらしいです。高松さんは農家ではないので良く分からないそうですが、多良岳の多良嶽神社で行ったらしいとの事でした。 〇甚平衛牟田田の干拓事業について〇 慶長年間、諫早藩の家老達が、現在甚平衛川と呼ばれている湧水に着目し、潮止め干拓水田造成を決意しました。そして、家老の牟田甚平衛を派遣しました。牟田甚平衛は、この事業に大いに尽力し、多大なる貢献をしました。これが、甚平牟田田という知名の由来であります。耕地面積は約2ha程度で、機械が無かったので、すべて人力によってなされました。そうやって、針牟田に水田増反がなされましたが、牟田田は湿田が深く、牛馬で耕作できませんでした。よって、後に食糧増産運動の一環として、修正干拓事業がなされました。 現在は、水田も埋め立てられ、畑や宅地造成が進んでいます。 以上のようなお話をしていただいているうちに、だんだんと帰りの時間が近づいてきました。すると、高松さんは、「車でちょろっと景色のよか所まで連れてっちゃろう。」と言って、陣の内の辺りにある山の上まで連れていってくださいました。そこは、太良町が一望できる場所でした。有明海が広く広がっていて、とてもすてきな景色でした。写真を数枚撮った後、もうバスが来る時間になりそうだったので、ゆっくりする暇も無く、急いで山を降りていきました。高松さんの家に戻り、奥様にもご挨拶してから、集合場所まで来るまで送っていただきました。奥様が、お菓子とジュースを下さいました。「またいつでも遊びに来てくださいね。」と、見ず知らずの私達を見送ってくださいました。 本当にご親切にしていただき、とても感動しました。自分のおじいちゃんの家に遊びに来ているような気分にもなりました。本当にありがとうございました。 教えていただいたしこ名の一覧 ジンベガワ(甚平衛川)、インキョミチ、ジンベムタダ(甚平衛牟多田)、 ダントザカ(檀徒坂)、ババ(馬場)、ホイキ、ヒャクドミチ(百堂道)、 トノサマミチ(殿様道)、シャカド(釈迦堂)、ヤマウチダイ、アラオ(荒穂)神社 |