太良町伊福区について

1LT00039K  岡 宏憲
  1LT00032P  大崎 祐一

私が調査に行った家はミカン農家の竹下渕郎さんのお宅でした。竹下さんは人のよさそうなおじいさんで、84歳の高齢にもかかわらずはきはきと話し、とても物知りな方でした。風がなく暑い中私は竹下さんが運転する軽トラックにのって家に連れて行ってもらいました。そこでまず、竹下さんが用意してくださった地図や町史を見ながらいろいろとお話しを聞きました。
伊福の町史によると藩政期の伊福村は佐賀藩川久保領で、明治4年7月に佐賀県、同年9月に伊万里県、明治5年5月に佐賀県、明治9年4月に三潴県、同年8月に長崎県になり明治16年5月に佐賀県となりました。明治8年大小区制により藤津郡飯田町となり、明治22年に市町村制施行により藤津郡七浦村となりました。伊福が太良町に編入されたのは昭和30年でした。
伊福には二級河川の伊福川が流れていて主にそれが水源となっています。その他に山の方には小川内池内、小川内池外、小浦川内池、新立池上、新立池下などがありみかん畑に利用されているようです。ただ伊福川にダムがあるとはいえ旱魃の際はやはり水不足となり、昭和37,42年の旱魃の時はボーリングで地下水をくみ上げて対応したそうです。また以前は太良岳神社で雨乞いのための「千人お参り」をしたそうです。それに対して昭和24年には集中豪雨による水害が起こり、伊福川にかかる3つの橋のうち2つが流される被害があったそうです。
しこ名に関しては竹下さん程の年齢の方しか知らないものばかりで(小字自体現在あまり使わない)ほとんど無くなっていると言えます。また明治時代初期に多くあった小字をまとめて統合した小字をつくったという言い伝えもあるそうです。小字としこ名は次のとおりです。(小字→しこ名)
(箱崎→「ユムタ」湯牟田)(小浦→「ムタ」牟田)(椎木坂→「クラシタ・エノオ」倉下、江の尾)(森の前→「サンタンダ・モンゼン・ミチウエ」三反田、門前、道上)(城崎→「ミチシタ」道下)(搦→以前から同じ)(立目→「クサキハラ」草木原)(萩の尾→以前から同じ)(中古賀→「シモクサキハラ」下草木原)(瀬道賀→以前から同じ)(源助→「シミズダニ」清水谷)(小川内→以前から同じ)(すげんだ→以前から同じ)(とんごだ→以前から同じ)(一の瀬→「カミイチノセ・シモイチノセ」上一の瀬、下一の瀬)(木庭向→以前から同じ)(木庭→「アユガエリ」鮎帰)(矢答→以前から同じ)また伊福川は以前たま川といっていたらしく、その名残が橋の名前「たま川橋」に残っています。
伊福の米作りについて聞いたところ農協が出来る前は、明治・大正・昭和・終戦までは酒屋がありそこに米を売っていたそうです。このことを「米入庫」といいます。また家族が食べる米のことは自家用消費米というそうです。明治から終戦までは村に牛馬がいたそうで労働力として重要な役割を担っていました。圃場整備により以前は海だったところも今では埋め立てられ水田となっているところもあります。 伊福には「クラブ」がなかったため伊福区の5ヶ班(道下、道上、江の尾、倉下、小浦)のなかから一つを決めて、そこの家に集まって泊まるということをして遊んでいたそうです。また村に電気がきたのは明治末期から大正初期のことでそれ以前はランプで生活していたそうです。
伊福区の産業を振り返ってみると、江戸時代は米、麦、大豆、栗、小豆、小麦、唐豆、唐芋、芋の子、辛子、茶、綿、煙草、はぜ、柿、薪…(慶応元年藤津郡能古見郷伊福村、田畑屋敷竈雑穀書上帳による)などがあり、そのうち販売を行っていたものは米45石、麦30石、大豆30石、小麦9石、唐芋1万斤、芋の子8石、はぜ2万8千斤、薪1万斤、柿260石だったそうです。輸送には海辺であることの影響もあり船が使われたそうです。明治期に入ってからも米麦、甘藷、雑穀類が主な作物だったが、水田面積が少ないため養蚕、サフラン、葉タバコ、養鶏、養豚、和牛飼育等の副業が奨励されたそうです。ただ主要作物である米を作る水田が少なかったのでいろいろと努力をしました。例えば、小学校児童による「螟虫駆除」また松明行列による「虫追い」「種子の塩水選」等が行われました。昭和に入るとミカン園が普及し米の裏作の麦や、サフランといった雑穀類は姿を消し始めました。
伊福区では伊福生産森林組合を結成し、集会所の製作や林道、入り会林野事業を行いました。また伊福区は昭和39年第一次農業構造改善事業で23.7ヘクタール交換分合が佐賀県連合会で第一位を受賞し、昭和42年には農林大臣賞を受賞しました。その他平成7年生産組織、集団部門伊福21農会が優秀賞佐賀県知事賞と農林水産大臣賞を受賞しました。さらに平成8年には伊福21農会は全国農業会議所主催「第20回青年農業者グループ活動コンクール」において全国三位となり表彰されました。 竹下さんは地名調査なら実際に行ってみた方がいいだろうとおっしゃって私を軽トラックにのせて伊福の山へ連れて行ってくれました。山の中は当たり前ですが自然がいっぱいで、福岡では見られないような光景でした。
しかし山道は舗装されてないものばかりで、ガードレールもないのにすぐ先はものすごい高さの崖というところもあり少し怖かったです。竹下さんが車をまわしてくる(方向転換)と言って一時しても帰ってこなく、遠くでクラクションの音が響いていたから何だろうと思って走っていくと左の後輪が落ちて車が動かなくなっていたので私が押して元に戻すといったこともありました。
それにしても伊福の人はやさしいことを実感しました。福岡のように人付き合いが淡白でなく地域全体が一つとなっているという感じがしました。
私たちが山から帰ってくると竹下さんの奥さんがカツ丼の出前を取って下さっていて冷たい飲み物といっしょにいただきました。またバスを待っている途中偶然竹下さんの娘さんと会い、そこでもすぐに気軽に話しができました。このように伊福区には福岡にはないあたたかさを感じずにはいられませんでした。
竹下さんのおかげで満足のいく調査が出来て、心から感謝しています。失われつつある地名を保存することはとても重要なことだと思います。時間があればまた伺ってお話しを聞きたいと思いました。

参考文献「太良町史」