【武雄市武内町鯰渕地区】

歴史の認識現地調査レポート

 

武雄市武内町鯰渕

 作成者 1LA99073 河北洋介

     1LA99078 木下恵吾

情報提供者 山口英夫(話を聞いた人)

      山日常昭(話し手の紹介者)

 

鯰渕

小字 イトウヤマ(伊藤山)のうちに ツバキハラ(椿原)

イトウヤマ(伊藤山)

ハイツチ(灰土)

 

タテヤマ(立山)のうちに      タテヤマ(立山)

ツバキハラ(椿原)

 

ナマズブチ(鯰渕)のうちに     ナマズブチ(鯰渕)

 

フチノモト(淵の元)のうちに    フチノモト(淵の元)

トボサ

ホタテノタニ(ホタテの谷)

ナマズブチ(鯰渕)

 

ゴホンマツ(五本松)のうちに    ゴホンマツ(五本松)

 

ツチバシ(土橋)のうちに      ツチバシ(土橋)

 

ヒキサコ(引砂古)のうちに     ヒキサコ(引砂古)

 

オオタニ(大谷)のうちに      オオタニ(大谷)

 

 

村の水利

@用水はどこを使っていたか。

    用水源   松浦川

          伊藤山ため池

          淵の元池

          椿原池

          砂子池

そのほかには単独用水があったということです。

 

A昔の配分の慣行や約束事があったのか。

水番をおいて管理していたということです。水の流れについても、鯖渕、渕の元、伊藤山の3つの水利組合があるそうです。

 

B水の争いはあったのか。

もともと五木松のあたりでは水が不足していたが、ある時、せきの水がかさあげされたということです。それまでは下流の人は上流の人におぎないをやり、水を使っていたが、せきのかさあげをしたためにおぎないをやらなくなったそうです。基本的に水番をおいているので、争いは少なかったということです。

 

C1994年の大旱魃のときはどうしたか。

 すべてのため池で防火用水だけ残して全部使ったということです。足りない分は、川からあげたということです。『犠牲田もださずなんとかもった』というふうにおっしゃっていました。

 

Dもしこれが50年前だったならどうなっていたか。

「50年前もあったとたい。そんときゃほとんど枯れたったい。そんときゃポンプのなかったでしょうが。だから川に水があっても、あげきらんかった。今のような動力があったら、ある程度よかったかもしれん。ポンプのなかったけんが、ため池だけでまかなってきたけん。」とおっしゃっていました。

 

E昔は雨乞いをやっていたか。

小部落としてではなく、梅野区全体でやっていたということです。場所は黒髪山で、雨乞いの祈とうをやったということです。効果はあり、まもなく雨がふったとの話です。

 

村の耕地

@昔とくに米のとれるところと逆に余りとれない田んなかがあったか。

 良田…ゴホンマツ(五木松)

 ふつう田…タテヤマ(立山)・イトウヤマ(伊藤山)

 悪田…フチノモト(渕の元)・オオタニ(大谷)・ヒキサコ(引砂古)

 その理由として

地力の違い、水利の問題、地域的な日照時間の違いなどが挙げられるとのことです。

 

A化学肥料の入る前にはどのようなものを使っていたか。

 野草や昔は牛を飼っていたから堆肥とかを主に使っていたということです。又化学肥料が入ってからも堆肥は使用していたということです。

 

B化学肥料の使用後の変化

 地元の人の話によると「結局対収(タイシュウ)があがったちゅうことて、増収になったちゅうことて。」とおっしゃっていました。又、それ以外に変化があったかと聞くと「化学肥料が出てきたためにおこることとすれば、そういうこしかなかたいの。しかし、道路とか何とかの整理ができてきて機械がどうのとか加入して色々あって、ただあなたたちみたいに化学肥料のでたけんていえば、まあ、対収が上がった、増収になったことしかなかわけて」というふうにおっしゃっていました。

 

村の発達

@村の電気はいつきたか。

 この質問をしたときは、他の質問のときと比べて初めは思い出すのに悩まれていました。そして出てきた答えによると、だいたい大正7、8年頃であったといいます。このとき「西梅野に平山神社のできたころやけん」とおっしゃってこの答えがでてきました。又昭和30年頃まで辺境地では、まだ電気のきていない所もあったといいます。

 

Aプロパンガスはいつきたか。

 戦後にきたということで、おそらく昭和30年後半であったということです。又生活の変化としては、昔と生活様式は変化したということです。具体的に、と「ガスあたりが来れば、ほら、炊事とかがよくなる。電気も、昔は、一軒に一個ぐらいしかなかったもんね。」というふうにおっしゃっていました。

 

B電気が来る前には

 ランプを使っていたといいます。山の方の人と酒飲みで集まっていても、ランプだったため、早く帰っていたといいます。

 

村の生活に必要な土地

@入会地(村の共有の山林)はあったか。

武内町全体で言えば、入会地はあったということであるが、鯰渕にはなかったということです。地元の人の話によると、「他部落は区でもっとう所もあるし、それこそ団体でもっちゃるところもある」とおっしゃっていました。又、薪については、「自分の山(私有山)から」取ってきたということです。「(鯰渕の人の)ほとんどの人が自分の山から薪とってまかないよったって」とおっしゃっていました。又、薪を買っている人はいたのかという質問すると、「中には、いやこの辺のもんは、薪をこうたりはしよらんかった。」とおっしゃっていました。

 

米の保存

@米は農協に出す前の時代は誰に渡したり売ったりしていたか。

農協に出す前は、農家の人々は、個人に売っていたといいます。個人というのは、米の商人がいてその人に売っていたといいます。その後の時代になると、産業組合の倉庫にやっていて、その後に農業共同組合が出てきて、それからは農協に出す様になったといいます。

 

A地主と小作人の関係はどんなものだったのか。

小作料に関して、良田と悪田とで違いがあった。だいたい50%を地主に渡すことになっていた。以前には、60%小作料という時代もあったらしいが、50%がだいたいの平均であったということです。又、小作争議というような地主と小作人との争いはなかったといいます。このことから地主と小作人との関係はそこまで悪いものではなかったということが推測できます。

 

B青田売りということはあったのか。

地元の人の話では、青田売りはなかったが、生まれる前にはあったかもしれないということです。

青田売りとは、広辞典によると「稲の十分成熟しないうちに収穫高を見越して予め産米を買い入れること」らしい。

 

C家族で食べる飯米を何といったか。

「さくまい」といっていたらしいです。

 

Dどうやって米を保存したか。

かめに保存していてそのかめにだいたい9俵は、入ったといいます。そして残りの米はかますに入れて保存していたということです。地元の人の話では、かますの米から先に食べて、それがなくなってからかめの方を食べたということです。

 

E次年度の作付けに必要な種籾はどう保存したか。

地元の人の話によると、「種籾もだいたい、まあその人によって違うけど、私はまっちょ小さなかめをもっとけんさ、ねずみとか、つかん様にばい、だいたい種は、これくらいとわかっとうけんさ、もうかめの中にいれて私は保存しとった。中には、カンカンに入れてとか、かますに入れてつっとるとか」して保存していたとのことです。又、話を聞いた人は、かめが一番良いといっていました。

 

Fねずみ対策はどうだったか。

  ねずみにたいして、猫を飼うことや、籾殻の中にいれておくこと、又、屋根のはりにつるしておいたりしていたらしいです。しかし、話を聞いた人の意見では、かめに保存しておく方が良いということでした。

 

G50年前:食事における米と麦の割合はいくらか。

 戦時中は、米:麦=6:4の割合であったといいます。又、戦争の終わりごろは、米:麦=5:5や4:6になることもあったといいます。白米が食べれたのは盆と正月だけであったということも言っていました。終戦後には、米の強制割り当てというものがあり割り当てられた分を出すように言われ、たとえ自分の家の食べる分を減らしてでも出さなけれぱならなかったといいます。もし出す事ができなかったら、出すように強制させられたといいます。これもおそらく戦後の食糧不足と混乱とが大いに関係してこのような事態になったのだろうと考えられる。地元の人も今では信じられない話だろう。今じゃ米は余っているのにという趣旨のことを言われていた事を思い出します。

 

H50年前:稗や栗、芋のような雑穀を主食とする事はあったのか。

 地元の人の話によると「主食には、しよらんかった。ただし雑穀はかなり食べよった。たとえば餅にも粟餅をつくるとか栗を団子に交ぜてみたりして食べよったことはある」とおっしゃっていました。

 

村の動物

@牛や馬はいたか。

 牛や馬はどの家にもいたといいます。だいたい昔は専業的に飼うという事ではなく各家少なくとも1頭はいたといいます。戦前は、牛か馬で、戦後は牛ばかりになってしまったということです。又、戦前、牛と馬では、馬の方が多く戦後は馬はいなくなり、牛が主流になった。又、戦前は、馬も牛も雄が多くて、戦後になるにつれて、牛の雌が多くなり生産を高めようとしたらしいです。又、戦前に馬が多かったのには、軍に馬が取られていたためだと地元の人の話ではそういうことです。

 

A博労(馬喰・ばくろう・ばくりゆう)はいたか。

 博労(馬喰)とは、牛馬の仲買いをする商人であるが、地元の人の話では、博労はいたということです。又、この人たちに頼めば、牛をもらっていくらかの金をもらってそのような商談をしていたとのことです。博労はあちこちにいたということである。

 

B馬洗い場(馬入れ川)や馬捨て場はどこにあったか。

 馬入れ川で馬や牛を洗っていたとのことです。場所は有の本橋や梅野橋のところにあったとのことです。この場所に馬などをつれていけば自分からそこに入っていったということです。又牛馬などが死にそうなときに博労にやっていたということで、馬捨て場というような場所はなかったとのことです。

 

村の道

@昔の隣の村に行く道はどれか

 今の県道や昔の村道区道を使って隣町にいっていたということです。又、近道として山越えすることもあったそうです。又、山間部には「〜ノウテ」と呼ばれる道はなかったということです。

 

A塩や魚はどこから来たのか。だれが運んできたのか。

 地元の人の話では「50年前でも今でも商人がおった。魚は行商がきよった。塩とかはさい、小さな町の中心みたいなところがどこでもあるでしょうが、…」とおっしゃっていました。つまり行商人が魚を売りに来て、塩は中心部で売っていたということです。だれが運んできたかはいまいち分からないそうです。

 

村のまつり

@村の神様や祭りには、どんなものがあるか。

 春祭り、夏祭り、秋祭りとあり、地元の人によると「小部落小部落でその、親睦をふかめるまつりをやりおる」とおっしゃっていました。具体的に言うとコウシンサイマツリ(冬)とかオダイヒマツリ(冬)などがあるということです。又、伊藤山(イトウヤマ)では北アイゾウという人がいて、その人がこの地に田を寄付したことから北まつりという祭りがあるそうです。又、このような例はあちこちにあるということです。又、祭りは全員参加であるらしいです。

 

A昔はどうだったか。

 昔は日時を今年同じ日に出来たが、今日(コンニチ)では勤めている人も沢山いるので日時が不定的になり、日曜日にするようになったそうです。

 

昔の若者

@テレビも映画もなかった時代、とくに夜、若者は何をしていたのか。

 今の公民館のある所に鯰渕健児社というものがあったそうです。ここは男しか行けないところであって若者はここに泊りに来たりしていたそうです。そしてここに寝泊まりして成人教育をしていたといいます。そこではわらを持っていってなわをなったりもしていたそうです。こういうところは昔至る所にあったといいます。女の人は、家でなわをなったりして、又、同年代の人と集まって話しなんかをしていたそうです。

 

A昔は何をして遊んでいたか。

 昔はあまり遊ぶものがなかったので、それが故に花見や神待(カンマチ)やおひまちといってもちをついたりして天にささげるというそういうものが楽しみであったといいます。

 

B力石(力試しの石)などはあったか。

 力石(チカライシ)と呼ばれる石があったといいそれを持ち上げていたといいます。これは健児社でやっていたという話を聞きました。

 

C干し柿泥棒をしたという話が多いのだが、干し柿のない時期は何をしていたのだろうか。

すいか畑のすいかを泥棒していたといいます。その仕方というのは、まず一人がその畑にいる番人に話しかけて、その間に誰かがすいかを盗むといったことをしていたらしいです。そんなことをしていた若者でも区の活動などには率先して行動していたといいます。今は、若者が区のためにはたらかずに、年寄りばかりがはたらいている、といって地元で話を聞いた人が笑っていたのを思い出します。

 

Dよその村の若者が遊びに来ることはあったのか。

 遊びに来る人はいなかったとのことです。立ち入り禁止にしているわけではなかったが暗黙の了解でよその人は入らなかったといいます。

 

E自警団のような組織はあったか。

 自警団のようなもので消防団があり区が単位でやっていたといいます。昔は今のように消防システムが整っていなかったし、又、勤め人もいなかったので学校を卒業して一年位経ってから消防団に入ったといいます。

 

Fよその村のものが道を通してもらうためによその村のものが酒を持ってきたりすることはあったか。

 大きな道ではなかったが、細かい道ではそこの所有者のところに酒などを持っていって通してもらったといいます。

 

G若者たちはどんなふうに男女が知り合い、恋をしたのか。恋愛の自由はあったのか。

 まつりとかで恋人ができたり、共同作業でできたりすることはあったが昔は恋愛というものはあまり見られなかったといいます。しかし恋愛が束縛されるという訳ではなく自由はあったといいます。

 

村のこれから

@村の姿の変わり方 村はどうなったか。

 まず農業の形態の変化がありました。つまり機械化が進み交通の整備がよくなったことなどがあります。社会的にはまつりの目が統一されなくなっていったということがあげられます。それ以外は特別変わったところはないのではないかということです。

 又、健児社も、戦後なくなってしまったけれども他の所ではまだ存在する所もあるそうです。

 

A日本の農業の展望

 『日本は工業優先でやっていったがやはり国の基本は農業であると思う。昔、軍は農業があってこそといっていたが、今では減田などがされるようになった。もっと農村への優遇をすることが大切なのではないか』ということを熱っぽく語ってくださいました。やはりこのことは真剣に考えているみたいで本当にいっぱい語ってくださいました。