【武雄市武内町梅野長谷、森の木地区】

「村落調査論」現地調査レポート

別府大学大学院下田 智隆

松竹 智之

調査日 1999年7月10日(土)

調査地 佐賀県武雄市武内町大字梅野字長谷

          同      字森の木

長谷  

しこ名 

新替(シンガエ)、柳原(ヤナイバー)、桑原(クワーバー)、焼林(ヤケバヤシ)、

平原(ヒラバー)、ヒラキ、観音さん前(カンノンサンマエ)、高見(タカミ)、マツバ

集落名

 シットデ、ジョウセンダニ、辻谷(ツジンタニ)、村(ムラ)上(カミ)

その他

 シッチンバヤシ、坪谷溜池(ツボンタニノイケ)、トッコブツツミ、

 血刀洗いの池(チカタナアライノイケ)、八天狗山(ハッテングヤマ)

 

森の木

しこ名

 原田(ハーダー)、森の木(モリノキ)、前田(マエダ)、葉山(ハヤマ)

集落名

 榊原(サカキバー)、曲口(マガイクチ)

〜その他判明した地名〜

上古賀 しこ名 前田橋(マエダバシ)、角田(カクタ)

真手野 しこ名 船木(フナキ)

赤穂山 しこ名 本谷(ホンダニ)、一軒茶(イッケンジャ)

 

〜浦郷東さん(71歳)昭和3年生 森の木在住〜

 浦郷さんは、以前森の木・長谷地区の生産組合長(のような役職)をされていた(と、長谷地区で出会った通りすがりのおばさんに聞いた)。ちなみに名前は「あずま」と読む。

 長谷地区の水田は圃場整備によって(いつ頃行われたかは良く分からなかった)水田のシコ名が失われている。浦郷さんは整備以前の地名をよく知っておられる。森の木地区と長谷地区の境にある長谷橋の南側は新替と呼ばれていたが、圃場整備後は、観音さん前を含むかつての新替・焼林・原田・ひらき・平原などの一帯を総称して新替と呼ぶようになった。(なお、地図にはかつての新替の範囲で記入した)(地図省略:入力者)

 長谷川と鳥海川の合流する東側が桑原と呼ばれている。長谷川の少し上流の西側はまつばと呼ばれている。

 鳥海川に架かる井手ノ元植の南側の民家2〜3軒を村と呼んでいる。この村という地名は、明治初年頃に村長(どこの村?)を務めた人物がこの一帯から出たことからこの名がついたといわれる。

 森の木地区で長谷植の北の最も集落の集中する一帯は榊原と呼ばれる。その東側の台地で南側に少し突き出ている所が曲口である。その北東側から北に向かって広がる田で鳥海川と挟まれた所に位置するのが森の木である。その一帯の中の南端部にある田は前田と呼

ばれる。

 森の木地区公民館の南西で、鳥海川左岸の一帯の田を原田と呼ぶ。

 長谷の薬師堂の西側にある田畑を平原と呼ぶ。範囲ははっきりしないが、南に位置する平原大堤によって潅漑を行っている一帯のことであろう。

 松尾氏宅から北東へ200mほど行ったところの急な高台地を含む周辺一帯が辻谷と呼

ばれる。

 森の木植を北に渡った最初の田を前田橋と呼ぶ。

 前田植の東隣で赤穂山川の左岸の中山養鶏場を東限とする田を角田と呼ぶ。

 角田から東の赤穂山川左岸の約600mの範囲を船木と呼ぶ。

 坪谷溜池は幕末の天保年間に造られた。ここの溜池は平成6年の湯水時には水が涸れていて鳥海川も底が見えるほど水が無くなっていた。しかし長谷の集落の裏手(辻谷の南縁から東進する小さい谷)からはいくつか涌水が出ており、上流から3段ほどに分けて溜池を設けているのを確認することができる。また、それらの水を使用しており、それぞれの田畑に配分をしている。

 浦郷さんには、武内公民館編の『わがふるさと武内町再発見』と云う小冊子を頂いた。

 長谷地区のシコ名の詳細な範囲ははっきりとはわからなかったのでそのことについて知っておられる溝口さんを紹介され、尋ねてみた。

 なお、地図上のシコ名の範囲の表記については、浦郷さんの自筆書き込みを参考にした。

 

〜溝ロトミ子さん(75歳)大正14年生 長谷在住〜

 長谷地区に生まれてからずっと住んでいらっしゃって、ここの地名について詳しい溝日さんによると、新替のなかにはまだ多くの地名があり、庄屋を務めていた松尾氏の敷地をひらきと呼んでいた。その裏手の山は八天狗山と呼ばれている。ひらきの東隣りは高見と呼ばれている。この高見の裏手にある竹林はしっちん林と呼ばれている。ここは鎌倉から室町にかけてこの地域に勢力を張った塚崎後藤氏ととある勢力がこの地で合戦を行い、いずれか敗れた側の将兵がこの地で自刃したところからつけられたと言われている。また、それに関する地名として村の北東に以前池があり、ここで血の付いた刀を洗ったところから血刀洗いの池と呼ばれた。

 平原の北側を流れる水路と鳥海川に挟まれた井手ノ元橋までの田を焼林と呼ぶ。

 まつばの西側に隣接する1〜2軒の屋敷を併せてじょうせんだにと呼ぶ。

 辻谷・じょうせんだにを含む北に伸びた舌状台地の先端部の1〜2軒の屋敷と畑を含む一帯をしっとでと呼ぶ。

 八天狗山の南に位置する溜池をとっこぶつつみと呼ぶ。

 長谷の集落の西に薬師堂(長谷天満宮)が有り、その前にお産の神として地元の人々の信仰を受けている大神宮がある。この大神宮があるところは上と呼ばれている。

長谷の集落で長谷観世音がある付近はしっとでと呼ばれている。この長谷観世音は毎年1月18日に女性だけでお祭りをする。薬師堂は薬師如来が2体安置されている。毎年12月12日に長谷の集落の人々がお祭りをする。

 溝口さんによると、各小字ごとに水路の管理をする水番さんがいるということである。なお、松の木・長谷地区では水路には固有の名称は付かないそうである。

 以上の地名以外にも両地区を通じてさらに細分されたシコ名が存在するらしいが、時間の都合上聞き取ることができなかった。地図上におけるシコ名の範囲の表記については、溝口さんと偶然居合わせた近所のおばあさんの2人からの聞き取りによって、調査者が地図上で判断し書き込んだ。

 

〜まとめ〜

 今回の調査では、松の木・長田地区のシコ名等と併せて上古賀・真手野・赤徳山地区の一部のシコ名についても知ることができた。予め講師の先生から紹介頂いた地元の方については、自分たちの手違いで伺うことができなかったが、通りがかりの地元の方などから色々教えて頂いたり、こちらから突然に民家を尋ねて回ったりして、ある程度の情報は集めることができた。聞き取った内容にはまだまだ不十分な点が多くあるが、当地区の圃場整備以前のシコ名とその範囲をある程度は把握できたものと考えている。

注)調査したシコ名については名前の由来または漢字表記を知ることができたものは、文中に記載した。それ以外で特に文中に記載のないものは、詳細の判明しなかったものである。浦郷さんからは小冊子をいただいたが、記載内容については原則として自分たちが直接聞き取ったものだけを記した。

 

〜調査者〜

  別府大学大学院文学研究科文化財学専攻1回生 下田 智隆、松竹 智之