【武雄市武内町多々良下地区】
歴史の認識現地調査レポート
歩き、み、ふれる歴史学レポート
調査日:1999年
調査区域:佐賀県武雄市武内町多々良下
調査員
1LA99176 永渕美佳
1LA99228 松浦里美
*武内町多々良地区 しこ名一覧*
*田畑 小字久保畑のうちに・・・フツノウエ(渕ノ上)
小字岩名のうちに・・・・イワナ(岩名)
小字久保畑、岩名、中山にかけて・・・ヤジロ(八代)
小字藤ノ元のうちに‥・トウノモト(藤ノ元)
小字前田のうちに・・・・マエダ(前田)
小字古場中のうちに・・・コバナカ(古場中)
小字思明寺のうちに・・・オンミョウジ(思明寺)、カミイシワラ
*宅地 小字中山のうちに・‥・ナカヤマ(中山)
小字平柿のうちに・・・・ヒラガキ(平柿)
*山林 小字飯盛のうちに・・・・コトギ(小峠)、ヤマイヌタニ(山犬谷)
小字松ノ元のうちに・・・マツノモト(松ノ元)
小字西岳、平柿にかけて・・・ニシダケ(西岳)
小字平柿、丸田、安田原にかけて・・・アンタバル(安田原)
小字山口のうちに・・・・ヤマノクチ(山口)
多々良地区においては、しこ名がそのまま小字として残っている場合が数多く見受けられる。曲がりくねっていた川路を整備した後の道路や川路を境界線として小字を設定するにあたり、例えば、ヤジロのように御堂を目やすとしたような地区は名を残せなかったようである。
多々良下 武内町
12月26日、朝8時40分に六木松九大前に集合。バスに乗って都市高速、そのまま九州自動車道を進み、武雄で高速を降りる。
昼前に柿田代で同じグループの人達とバスを降りる。次の若木町で降りようかと思ったが、山を抜けるよりも大きな道路を通っていくのが間違いないだろうということで少し遠い方のポイントで下車したのだ。
バスから降ろされた所は商店が一つあったが、日曜ということもあってか閉店(帰りの4時頃には開いていたが)。そこからたった二人で多々良を目指す。幸い、相手方との打ち合わせの時刻には2時間ほどあったので時間に遅れる心配は無さそうだ。どこかでご飯を食べようかとも2人で話していた(後に飲食店はこの通りには一軒もないということが判明)。
地図を見ながら歩くのは難しい。歩き始めて10分弱。初めて道を折れる。この道が正しいのかどうかはっきりと解らない。
通りかかった人に道を聞くことにした。
〜多々良に行くにはこの道でいいのですか。
「この道ば真っ直ぐ行くぎよかとですばい。」
父親の実家がすぐ隣の鹿島市だったので来る前に一応連絡しておいた。万が一、道に迷ったときとこれまた万が一、佐賀弁が聞き取れない場合に連絡をとるためである。道に迷っていないことは解った。だが方言の方は…。もう一人の調査員が佐賀市出身なので少し安心だ。先の「この道ば〜」の台詞も私は20回ほど練習して言えるようになったが、相方は2,3回でマスターしてしまった。
結局金子宅を見つけたのが待ち合わせの15分ほど前だったから1時間半は余裕で歩いていたことになる。「真っ直ぐ」歩き通してお隣の伊万里市まで行ってしまった程である。道を歩いて結局先ほどのお婆さんにしか遭わなかったのだ。2人でとても寂しくなって、ついに持参した録音用のテープレコーダーにスピッツ(グループ名)のテープを入れ、それを聴きながら道中を歩く。とても寂しい。相方が「テープ持ってくれば良かったなあ。」と言う。曲は明るいがヴォーカルの声がちと暗い。空も晴れてはいるが風は冷たい。年末のこの忙しい時期に来る非礼をどう謝ろうか。何を質問しようか。昼は外食するつもりだったのでお菓子しか手元にない。着いたらどうにかなるだろうと思いつつも未だ到着しないのだからどうしようもない。
伊万里で道を(と、言うよりも金子邸を)尋ねると、数十分前に通った窯元であることが判明。その時は金子といってもたくさんあるのよ、と軽い気持ちで通過した。もと来た道を引き返す。その前にゲートボール場になっている空き地で昼食をとる。数十分後金子宅を見つける。
昼食どきを避けるため、15分ほど河原で時間をつぶした後改めて金子邸へ向かう。玄関に出てきてくださったのは奥さんだった。開口ー番、
「お会いしたいと言う方が車の中に。」
きっと金子さんが紹介してくれる物知りのお年寄りなのだろうと思い、2人で車の方ヘ向かう。
詳しい話は省略するが、結論を急げばそれは私の祖母と叔母だった。それからまた色々あって、結局2人も座敷で話を聞くことに。しばらくして御当主の金子認さんと、今回しこ名を教えていただく馬場さんが座敷へいらっしゃる。以下はその時録音したテープを基にしての記録である。
はじめに今回の調査の目的などを説明した後、早速本題へ入る。
まず、知りたかった事は事前に用意してきた小字が果たしてきちんと地図に落とせているかという所だ。ここがきちんと成されてなければ地名の変遷など解るはずもない。分かりやすいところで神社がどこの小字に当てはまるか問いてみた。
問いて解ったのだが地図による、その鳥居のマークは神社ではなくお堂らしい。だがそれは今の小字でいう中山、以前のヤジロ(八代)にあるらしい。ここから小字、しこの区画分けの方法について聞いてみた。
だいたい予想していたとおり、川や主立った道路がその境界線にあたるらしい。また、山を挟んで2つの地域が隣接するときはその頂上を境にするらしい。これは、単に分かりやすいだけではなく後に述べる日照権の問題へとも関わるのだろう。
先ほどの鳥居の話に戻る。その鳥居が何を祀ったものなのか問いてみた。すると馬場さん、この地方の郷土史跡をまとめた資料の中から探して下さる。
坂井ヒタチノ守。その人物を祀っているらしい。
次に多々良という地名について質問してみる。多々良という地名は中国地方にも存在する。その地方は製鉄で有名な地域である。ということで、この地域にもそういう伝統が存在する、あるいはしたのか質問してみた。
が、この地域にはその伝統は存在しないらしい。その代わり、といっては何だがこの地域には多々良焼という武雄古唐津系の流れをくむ焼き物の伝統がある。たまたま今回伺った金子さん宅が窯元であり、詳しい話も伺う事が出来た。以下は頂いたパンフレットによる多々良焼の紹介である。
〜武雄多々良地区の窯場は約400年前の桃山末期に安田原(あんたばる)で絵唐津調の雑器を焼成した頃に始まり、江戸中期前後には松浦地方の工人達により「たたき手」技法によるロクロの技術が導入された様です。
その後、農業生産率が向上するにつれて米麦などの穀類や味噌・醤油などの貯蔵に不可欠な大がめ類、火鉢類や火茶壷などの需要が高まり、又時代が下ると共に農漁民の生活用陶器も加えられて九州一円から対馬領内にまで流通域が広がり、その需要に応える為に明治末期には10数件の窯元を数えるまでに隆盛し…(中略)…戦後の産業革命と生活様式の変化で大がめや火鉢の需要も極度に減り、昭和40年代初頭には窯元も数軒に減り…(以下省略)〜
今回訪れた金子窯は昭和44年2月に文化庁から伝統陶芸の調査の対象として選ばれ、以後製陶技法の全ての保存にあたっているそうである。
話を戻して、「多々良」の由来について質問してみた。すると、陶芸に使う薪のことをこの地域ではたたら木、と呼ぶのだそうだ。そこから多々良焼という名が付いたというのだが、中国地方との関係はよく解らない。ただ、同じく火を使ってモノを作るという点では共通点がありそうだ。
焼き物の話はひとまず置いておいて、その他のしこ名についても聞いてみた、がどうもスムーズに話が進まない。馬場さんもしきりと「地図がおかしい」と言う。
金子さんが最近の多々良下の地図を特ってきて下さった。それに鉛ってしこ名を聞いていく。その結果、私たちの小字の地図への落とし方が全体的に下だったということが判明した。これでは解り難いはずだ。
航空写真を見て目に付くのはため池だ。山や田の傍に黒く広がっている。特に山ノ口にある山口ため池はかなり大きい。どのくらいの範囲の人がこのため池を利用しているのかと聞いてみる。
「ここから、ここまで。」
と示された地域は遠く前田にまで及んでいる。松浦川付近の住民は川からポンプアップして水を採る。ポンプが無かった時代は川から水を直接汲み上げていた。
同時に昔(昭和42年)の航空写真もみせていただく。耕地整理をする前の写真である。
川や道路は曲がりくねっており、田畑の形もいびつである。九州電力がやってきた時に撮ったのだそうだ。これに沿ってまたしこ名を教えて頂いた。
しかし色々な地名がある。
「この地名は人が呼び合っているうちに根付いたのですか」
と聞いてみると西岳という地名について面白い言い伝えを教えて下さった。
西岳壱岐守。この地域における大蛇退治をしたという武士の名である。ここから「西岳」という地名が根付いたそうだ。
多々良下には、山口ため池の他に渕ノ上ため池というのが存在する。このため池は松浦桃川の比較的近くに存在するのだが、昭和40年代から今でも活躍しているそうだ。ため池を管理しているのはそこのしこの住人でなく、水利組合である。その役員は広く多々良下から推薦で選ばれる。
「みんな平等。」
一つのため池が干上がったら別のため池から水を引いてくるのだ。ため池が存在する前は川から直接汲み上げていたそうだ。
地図でいう山の部分について関いてみる。多々良下が盆地のような地形である以上、日照時間はそれぞれの場所によってかなりの違いがあるだろう。それでいうと谷の部分というのは損な地域のはずだ。終戦後多々良下に沢山の開拓者がやってきて政府が地主から廉価で買い上げてそれを彼らに払い下げて、さつまいもなどを作ったという話はその前に聞いていた。その時以来の、いねば比較的新しい田かと思いきや、昔から存在するらしい。なぜか、というと戦前までは米が全てであったからである。例えあまり収穫が良くなくてもあるだけで良かったのである。遠く唐津から来る魚売り(これは今でも毎日定刻にやってくるそうだ)に対しても対価として米が支払われていた。しかし今では話が違う。米を作れば作るだけ赤宇になってしまうそうだ。出来るはずの裏作も、今は行っていない。保有米と呼ばれる自家用の米を作るのみ。殆どの家庭が兼業農家である。市役所、農協、造船所が主だった勤め先である。それどころか、航空写真を見ると山を切り関いて作った田畑は今は雑木や杉の生い茂る山に戻ってしまっていた。田畑が出来る前は林業を行っていたらしい。その時期は多々良焼の隆盛期であった明治期に重なる。窯を中心とした分業が確立していた時期である。その後、みかん、りんご、なし、お茶、桑などが山林で作られていった。お茶は地域の人のため専用のものらしく、お茶工場まであったという。今は既に無く、それと同時にお茶の生産も殆ど無くなってしまった。
それでも、毎年夏には淀姫神社で豊作祈願のお祭りが今でも続いている。
ここに来る途中、数台の車とすれ違ったがみんな後部に沢山の食料を積んでいた。この辺りの人々は武雄中心部や伊万里まで買い出しに行く。以前は当然の事ながら自給自足とであった。牛乳は殆ど飲む習慣は無かったらしい。ただ各家庭には1頭ずつ牛か馬がいたそうだ、もちろん田畑を耕すために。餌はあぜ道の草。10年も働いてくたびれた牛馬はバクリョウさんという人が引き取りに来る。その時にもらったお金で新しい牛馬を購入する。現代でいう中古車屋のような役割を果たしていたといえる。また牛乳はなくても山羊の乳を飲んでいたという。
多々良下の人口、現在のところ71戸、およそ200人。最盛期の頃は100戸を越えるほどであった。若者も少ない。「青年団も無い」と残念そうにおっしゃる。学生は遠く伊万里や武雄中心部まで通うそうだ。夜道には沢山の街灯が並ぶ。
2つの航空写真を見比べて解るのは、家の位置が殆ど変化していない事だ。だが、確実に家の外装が変化している。どの家も農家らしい玄関の広い家なのだが、茅葺き屋根から瓦へと変化している。多々良下では昭和40年代に増築・改築が流行のように一斉に行われたそうだ。
「それでは、」ということで、長くなった調査を切り上げる。最後には金子氏の作の器でお茶まで頂いた。年の瀬も押し迫った時期に突然やって来たのにも関わらず、多くの事を根気強く教えて頂いたお二人に心から感謝したい。
調査にご協力して下さった方々
金子認 様(昭和12年8月生)
馬場猛 様(大正11年1月生)