【武雄市武内町西梅野】 歩き・み・ふれる歴史学 現地調査レポート (しこ名を含めた調査のレポート) 1LA99058 小田 達也 1MD96057 谷口 秀将
調査地:佐賀県武雄市武内町西梅野地区 話者名:不明
実習レポート(小田・谷口班) 今回われわれ九州大学教養部の周辺教養講座である「あるき、み、ふれる歴史学」の受講生は、その土地その土地の私称である字(しこ名、よび名)を調べるべく、武雄市を始めとする佐賀県西部地方に1999年12月26日(日)訪れ、その土地の方々からお話を伺うことになった。私達、小田と谷口の2人組は、佐賀県武雄市西梅野地区のしこ名について調査することになった。
<用意したもの> 下調べとして用意した物は、西梅野地区に該当する5000分の1の地図と、25000分の1の地図と、ゼンリンが発行する住宅地図である。なお調査のマニュアルとして、その土地の公民館長か、またはその方を通じ、その土地の昔から今までの様子に詳しい方を紹介してもらわねばいけなかったのだが、多忙ということもあり一人も紹介していただけなかった。 調査当日は、前述の地図と、録音機(テープ)、調査のマニュアル書、カメラ、弁当等を持参した。
調査日の私達の行動 朝9時ごろ九大教養部を出発し、午前11前頃現地に到着した。西梅野という所からは歩いて20分ぐらいの所でバスを降り、話が聞ける人を探すべく当地の方に歩いて行った。ぱっと見た感じでは山と水田が主な部分を占めていて民家が少なかったので、これは農作業をしている方か、ゲートボールをしている方に聞き込みしていくしかないという事に決めたのだが、なかなかそういう方々でさえお見かけする事も無かった。郵便局の関係の方が通りかかったので、まず西梅野とは大体どの辺の場所であるのか尋ねてみたのだが、なんと「そんな名前は聞いた事も無い」との事だったので、西梅野とは地図上だけの名前であるのかという不安も覚えながら、次の話を聞けそうな方を探しまた歩き続けた。 有田町の方に抜けていく県道(海野・有田線)を歩いていくと、「西梅野公民館」と表記のある建物を見かけ、とりあえず中の様子を伺う事とした。広さや中の様子は普通の公民館とあまりかわらず、住居や老人憩いの家の様な物は付随してなかった。公民館の庭先には「平山大明神の由来」という説明文のある看板を見つけた。庭の横に石段が長く続き、またその先に火の見やぐらのような物が見えたので、興味を覚え、またこの地区全体を見る事が出来るのではと、石段を登って行く事にした。上は公園みたいになっていて、土俵と神様を祭ってある小さな社のような物があり、3分ばかり休憩をとる事にした。この場所は「平山大明神」と地図上にあり、どうやら下の公民館の説明の看板はここの社の事のようである。 さすがに誰からもお話を伺えずに昼御飯を食べるのはちょっと問題があるので、もう一度下の県道におりて市境まで歩けば誰かいるだろうと、元気を出してもう一度進みだした。しかし相変わらず誰もおらず、市境にたどり着いてしまった。もう一度折り返そうとすると松浦川沿いにポンプのある小屋が見えたので、近づき水の流れの方向やどの水田に取り入れているのかという事などを調べていると、トラックに何やら積み込んでいる方がおられた。駄目を承知で声をかけると、うれしいことに、いろいろなことを僕たちにお話してくださった。(恥ずべく事に、私達はこの方にお名前などを伺う事を忘れてしまい、感謝の手紙を差し出す事が出来ない。この場を借りて感謝させていただきます。)この方は、村の水利関係に携わったことがあり、その時の話や、昔から存在していたお祭りの話や、村の過疎化の話(バス路線が廃線、青年団が解散)など、大事なお話をして下さった。なおその方のおっしゃる昔からのその辺の地名(ミマサカソンハッテンサン)が、小字や地図上の上にある名前と異なり、その由来となる山が、その方の家の裏の方に広がっていて、かつその頂上に祠があるということをおっしゃった。そこで登りかたなどを教わろうと尋ねると、「2、3時間かかるよ。」とおっしゃられたが、他に頼れる当てもなく何か一つでも調べられるつてを求めていた私達は、山の場所だけ指を差してもらってそれをたよりに、その「ハッテン山」という所を目指した。 さすがにしばらく迷っていたが、途中一人の方を見つけ、その方がだいたいの道を教えてくれた。その方によると5、6分で上れる、大丈夫、大丈夫とのことで安心して登り始めた。だが道は途中からほとんどなくなり、とにかく私達は上の方を目指せばいつかは頂上だと奮闘し、30分ぐらい過ぎた頃、頂上に到着した。ここについては後述の〈祭りについて〉を見て頂きたい。 さて自己満足と達成感で満たされた私達は、自分達への褒美として昼御飯を食べようと休憩を取った。20分ぐらい休憩しながら「25000分の1の地図での西梅野地区を一通り歩き回ったが、住宅地図での西梅野は隣の松尾谷(まつおのたに)という所も含んでいる。時間もある事だし見てまわろう、そしたらこの登山のようにヒントは出るかも」という事になり、資料の撮影や記念撮影などした後、下山した。 登ってきた時のように、下山時もかなり転んだりしながらふもとに着くと、先ほどの登山路を教えてくれた方がむこうから話し掛けてきてくれ、お話の内容は最初の方と重複する所が大きかったが、経済的に見ても過去の歴史的に見ても武雄よりも有田などに近い、などと実際その地で生活されている方ならではの意見がいただけた事は非常にありがたかった。(この方にはお話をいただいた後、家で取れたというみかんをいただいた。水筒を忘れていた私達には心にしみるプレゼントだった。だがここでも同じ失敗を繰り返し、またもやお礼の返事先を頂いてくるのを忘れてしまった。あのみかん、甘くておいしかったです。本当にありがとうございました。) さて頂上で決めた通り、私達は松尾谷に向かった。ここではお話を伺えた方は女性唯一人だったが、その方は農作業中で「私はよそからきたもんで、なんにもわからんから」と、残念ながら新たな情報を仕入れる事は出来なかった。ただ最初の方が教えて頂いたしこ名の残り一つの「やんご」という地名に関わる他の手がかりや、今現在のその土地の様子を見ようと、消防水利にも使われているため池を見に行った。(なぜ私達がこのため池を目指したかは、最初に会った方がそのため池の事を「やんごのためいけ」とおっしゃっていたからである。)ため池は同定できたが、他の情報はここでは消防水利しか分からなかった。 この少ない情報ではいけないと、基本的にすべての道を通り、すれ違った人などに一人一人聞いていこうともう一度決意を新たにしたが、車ですれ違う以外に誰もすれ違わず、あと残り時間も少なくなってきたので、その辺からわいて聞こえる牛の泣き声をもとに、一件何頭居るのか、どのくらいの割合で牛舎が存在するか、また豚舎は存在するのかを調べて見ようという事になった。牛舎は比較的簡単に見つけ出す事は出来るのだが、豚舎は森の奥に一つ見つけただけであった。最後は武内町中心部の方に出てきたので、待ち合わせの方に向かっていった。
<村の耕地について> 田んぼのなかには良田・普通田・悪田などがあり米の取れる量に違いがあったとのことである。イヒ学肥料が入る前の肥料には主に堆肥を利用していたという話だ。化学肥料が入ってきてからはやはり増収になったようである。 さらに現在の田んぼについて聞いてみると、「今は田んぼ一つでは生計できんけんね。生計できん。もう若い奥さんとか若っかもんはみんな仕事しよう。専属農業専門でしよう人は向こうに一人おる。やっぱ4町ぐらい作らんば。」とおっしゃっていた。一見田んぼが多いこの西梅野でもそれだけで生計を立てるのは今では難しいようである。農業ではその形態を兼業農業という形に変化しているというのは先程の老人のお話にもあったが、兼業でできるようになったのは、水利の発達にもよると話されていた。それには大変な苦労があったようで、配管の際にはいろいろなことを考慮に入れて、尽力なさったという話である。だが「若いもんはただでできたぐらい思うとる。」とぼやいていらしたように、若い人たちはあまり水利や配管には関心を持っていないことが窺えた。
<むらの発達について> 村の電気について質問をしてみると、大正の中期頃に入ってきたという答えが返ってきた。電気が来る前はランプを使用していたらしい。プロパンガスについてはいつ頃か余り定かではなかった。
<村の生活に必要な土地> 入り会い地はあったということであるが、それは武内町全体での話であり、西梅野にあったかということは分からなかった。
<米の保存について> 農協が出てくる前、米を作る人々は収穫した後、米の商人に対して売っていたようだ。 次に小作料についていうと、小作料は多少の差はあるがだいたい二分の一を地主に差し出していたようである。小作争議についてはあったというような話を聞いた。 米の保存については話を聞いた方は、主にかますを使っていたということだ。次年度の種籾の保存は甕やかますに入れて保存していたようである。ねずみ対策は主に甕に入れて防いでいたというお話を聞いた。こうすればかなり防ぐことができたそうである。
<村の動物について> 昔は牛や馬は一家に一頭飼っていたとおっしゃっていた。第二次世界大戦を境にして、戦前では馬を飼うことが多く、戦後では牛を飼うことが多かったということである。現在ではほとんどが牛であり、また各家が一頭ずつ飼っているわけではないということが、西梅野を実際に歩いてみて分かった。牛を飼っている家は少ないようだった(10件に1件、ただこの比率が一般の農村と比べ多いのか少ないのかは判らない)。今では牛は牛舎でまとめて飼っていた。また豚舎もあって豚も飼われていた。豚舎は一つのみ見つけ出せた。だが中を窺う事は出来なかった。
<祭りについて> この集落には昔、8月26日(旧暦かどうかは定かではないが)夜、みんなで八天山の祠の所に御酒やらごちそうやら持ち込み、一晩中みんなで踊ったり飲み食いしたりして過ごす習慣があった。少し前までは、村の青年団や集落の区長などの役員の方などで行われていたが、残念なことに村の過疎化と共に祭りに参加する人も減少し、一昨年青年団が解散し事実上祭りは無くなった。今は村の区長や役員の方が(多分この役員とは町内会などの役員と思われる)その26日になると、お神酒をもって西梅野地区にある山に登り祠に捧げる、ということで一応形式的に残っているとの事である。 さてこの祠であるが、とてもそんなものがありそうもない山を指差され「あそこの山だよ」と説明を受けていたので(実際どこから登っていいのか判らず、人の住む民家の裏庭のような所から登って行った)、取りたててする事の無い僕たちは、実際に確かめて昔の人がしたように登ってみようという事になり、試してみる事にした。ちょうど登り口となる所に民家があり、そこにおられた方に簡単に道を教えてもらい(この時話によると5分ぐらいだよとおっしゃられていた)、道無き道を行く僕たちは、結構崖からずるずる滑ったりしたが、なんとか苦労の末頂上まで辿り着く事が出来た。なるほど最近は誰も来ないだけあって草の背丈はかなりのものがあったが、祭りが長い間行われていただけあって、まあまあのスペースが切り開かれていた。祠は寂しげにぽつんとその姿を残していて、横には知らない年号が記してあり土台にもひびが入るなどのすさみかただった。 さてまたこの道のりを戻り終えると、先程道を教えていただいた方が外に出ておられ、この村に来て2人目のお話を伺うことが出来た。祭りの話としては、一人目の水利のお話を伺った方と大体同じ内容だった事から、ここでは割愛させていただくが、この方にはこの町の成り立ちを、歴史の観点から教えていただいた。経済的、地理的にどうしても有田の方が結びつきが強く、その影響か佐世保くらいなら武雄中心部と変わらない感覚で出かけている様である。その辺はバスも過疎化の影響を受け3、4年前廃線となり、とにかく自家用車がないと話にならないようである。各民家に車が3台あったり、陶磁器の焼き物工場があったり、いろいろこの方の話を裏付ける現在の状況を、この集落の周りをうろうろしながら再確認する事となった。
<村のこれからについて> 「(西梅野は)みまさか村、もとはみまさか村。別れてこんだ武雄。朝鮮合併のときこっちの山内にかたるような気配になっとったんよね。前はね合併する前は山内四か村(ヨンカソン)ちゅうてさ、たけうち・あかき・すみよし四つが山内四か村ちゅうて、いろいろな学校設備とか運動会とか何とかは全部いっしょにしよったけんね、ほて、いろんな行事もしよったけん。それがこんだ朝鮮合併で別れてしもて、タケウチとアカキは武雄にいって、ヤマウチとスミヨシが二つでやまうちね。今、こちらの経済圏から言えばこっちがはもう有田に近い、経済圏から言えば山内に近い、やまうちも大体経済圏から言えばもう有田には近い。今の有田の状況から見た場合にやっぱりこの合併はちょっとなかなか、もうねうん、うん、長い目で見ればやっぱりもう合併して武雄も山内、有田、伊万里、唐津ねそれが行政こんだ行政の三区になったとね三区に三区になった。ほしてそれがヨシイが今度地元の代表にね。それから見た場合には先はやっぱわからんね。先はね。いま伊万里じゃなっかたこっちが朝鮮合併の行政の話を進めようばってんが、他のところはまだなかけんね。」という風におっしゃっていた。これからもわかるように、村のこれからの行政区域はまだどうなるか村の人にもあまりわからないようである。しかしお話を聞かせてくださった方もしきりに話しておられたことで気づいたのは、経済圏をもとに西梅野という村がどの地区に属するかを考えていたということである。さらに朝鮮合併というものがこの地方においてとても大きな変化を生む原因であることも感じることができた。
<村の若者について> 村の若者たちは今と違って、祭りや村の行事に率先して参加していたようである。また青年団があったということであるが、一昨年解散してしまったというお話を聞いた。
<感想> 今回、私たちはそもそも西梅野の公民館長の方からお話を聞くようにお手紙を出したのだが、忙しいということで地元に詳しいご老人も紹介してもらえなかった。そのため、私たちは歩いて話をしてくれる人を探すこととなった。はじめのうちはあまり話してくれる人がいなかったが(郵便屋さんでさえそっけないほどで、あまりにも心細いスタートとなった)、一時間くらい経ったところで一人の老人に無理矢理のアプローチで水利やしこ名について話を聞くことが出来た。その方が八天狗(ハッテンサン)という山に毎年登ると言われたので、私たちも実際に登ってみようということになった(この辺のところは〈祭りについて〉を参照いただきたい)。この山は大変急で、道も細く登るのに苦労した。30分くらいかけてようやく登り終えると、その老人の言われていた祠があった。今では若者はあまり登らず自分たちだけ(町内会の役員など)が登ると言われていた通り、山の頂上はかなり荒れていたが、とりあえず昼御飯はありがたくそこを使わせていただいた。 山を下りた後、また別の老人からお話を聞くことができた(この辺のところも〈祭りについて〉と重なるところがあります)。その老人からはまつりや村のこれからについてのお話が聞けた。彼が最後に僕たちに渡してくれた彼の家で作られたみかんはほんとにおいしく、それまで散々愚痴をこぼしながらさまよっていた僕たちに元気を与えてくれた。 その後も牛舎や豚舎、消防水利や川・ため池など様々な場所を歩いて見てまわった。西梅野はとても静かで牛の鳴き声が響いていた。たまに車は通るが信号はなく、バスも廃線になってしまったとの事である。実はこのバス路線をこの調査のための下調べの時に見つけ出し、調査の際のあてにしていたので結構これも僕たちにこたえた。 一日中歩き回って西梅野という土地の歴史に実際に触れたことはとても有意義な体験だったと思う。はじめお話を聞かせてくれる老人がいなかったというアクシデントのため、あまりしこ名について教えていただけなかったが、意味のある一日であった。 |