【武雄市武内町馬渡地区】

歩き、見、触れる歴史学 現地調査レポート

 

1LA99232 松尾寛之

1LA99242 三代達也

<伊勢馬場一郎さんからの聞き取り調査より>

しこ名について

村の名前

しこ名(カタカナ)一覧

馬渡

田畑

小字馬渡のうちに

モウタイビラキ(馬渡開き)、

フジバル(富士原)、

テラノシタ(寺の下)

イデノシタ、

マツノモト、

ノダハル

鶴ノ原のうちに

ツルノハル

ワカミヤ

デグチ(出口)

藤原のうちに

ヒラキ

ツミシタ

ドンモト

ヒラマツ(平松)

猪ノ古場のうちに

イノコバ

清水のうちに

ツミガシラ

いぜきの名前 さらいで

 しこ名とは、仕事をはじめとする日常生活の様様な営みの中で便宜的に使われているその土地特有の地名である。今回、聞き取り調査を行った結果、14個のしこ名を見つけることが出来た。これらのほとんどは由来がはっきりしていなかったが、長年使用しているということだった。

*馬渡という地について

 名前の由来..…池の平(柿田代)から馬を渡していた

 馬渡という地はため池が多く見られる。その理由を伺うと、この地は高い山がないために水が枯れる。従って、田の水はため池から引いているのだそうだ。ちなみに、近くにある武雄北中学校のプールも馬渡部落の水を使っているということだった。

 この地は川が多いのだが今でも大水の時は氾濫し川の幅は倍にもなるらしいということも伺った。それでも、10年前に現在のように田、川が整備されてからは昔ほど害はひどくないそうだ。

馬渡を流れる川は松浦川の上流で、私達が訪れた日は川の水が非常に豊富だなという印象を受けたのだがその点を伺ってみると、この日は少ないほうであったらしい。この川の水は枯れやすいという事はないらしいがもし枯れた場合はポンプで水を引き上げるのだそうだ。現在のように皆がポンプを持っている時代ならよいが、なかった時代は自力で汲み上げていたらしい。

*馬渡の水利の今昔

 このような土地なので水をめぐる問題は絶えなかったそうだ。昔の水の配分などは今のように皆が平等に施設を(ポンプを)持っていた時代ではなかったため、水がない時の配分などは部落長の一声で決まっていたそうだ。最近では、1994年に旱魃があり、その時は川がすべて干上がってしまい、少しでも水がたまっているところがあったら、ホースで皆田に水を引いたらしい。さらにさかのぼって昭和50年代の旱魅はひどく、しかもあまりポンプが普及していなかった時代であったのでわざわざ柳川までポンプを購人しにいったそうだ。ポンプ一台の値段は14,5万円ということなのでやはり深刻な問題なのだなあと改めて感じた。

*馬渡の農業

  馬渡の人々の生活に深く関係してくる農業についてうかがってみた。

  ・田に良田、悪田はあったのか?

    昔、水路だったところは一等田だそうだ。

  ・田一枚あたり何(表)どれだけ収穫できるのか?

    一反も取れるということだった。

  ・肥料は昔何を使っていたか? 化学肥料になって収穫は増えたか?

    昔は堆肥が主で、有田から人糞を牛や馬にリヤカーで引っ張らせて売りにきていた人いたそうだ。今は化学肥料に変わってしまって、収穫は増えたが、堆肥なら一ケ月持っていた土地が化学肥料にすると半月しか持たないようになりどんどん土地はやせていっているということだった。

  ・耕作に牛や馬を使用したか?

    大体牛に引かせることが多かったそうだ。牛も子供のころから訓練すると、耕作に慣れてきて、田の端まで行くと自分で次のコースを見つけて歩くなど上手になるらしいが、お金の無い時はその牛も大人になったら売却せねばならず、さびしかったとおっしゃっていた。馬渡をしばらく歩いてみても、現在は畜舎を見つけることはできない。それについて伺ってみたところ、畜産は採算が取れないからとのことだった。昔も畜産は主に肉牛で、専門的に牛や馬を売り買いする「ばくりゅうさん」という人がいたらしい。袖の下で指を握って値段を決めていたらしいのだが、やはり相手はプロなので、手馴れてないと大変らしい。五万円のつもりが五千円にされてしまったこともあったということだった。馬と牛では、牛のほうが多かったらしい(馬は高いから)。馬は主に切り出した材木の運搬を担っていたそうだ。方法法としては、人と馬が組んで、馬は川の中を、人は飛び石の上を行き木を川に浮かべて川を渡していたそうだ。

 

*馬渡の昔の生活

 まきやガス、電気が村に来だのは伊勢馬場さんが生まれる前で定かなことはわからないということだった。風呂や炊事に使うまきは山から取ってきていたそうだ。食生活、特に米についても伺ってみた。昔は、米を収穫したらもに(ママ、モミのことカ)として、五俵、十俵の缶に入れ天井から吊るして保存していたらしい。そうすることによって、天敵ネズミ対策としていたらしい。またこのようにして蓄えた米を保有米ということも伺った。種籾とは別に自宅で保存していたらしい。収穫した米は農協が無い時は、地主のところに一括して納めていた。地主さんは頭のよい人がなっていたということらしい。今は、生産組合で農協に納めているということだった。

 ネズミのほかに農作物を狙う動物は? という疑問を持ったので伺ってみると、イノシシなどの害は山が豊かだった昔はさほどひどくなかったらしい。しかし戦後になって、植林のために材木として伐採したり、燃料としていたまきが不要になったりしたことにより人が山に入らなくなり、山が荒れると、イノシシが手がつけられなくなったという。

 生活物資はどうしていたのだろうか? 馬渡は山に囲まれているため、薬や魚は商人が売りにきていたらしい。ちなみに、薬はおなじみの「富山の置き薬」だったという。塩、砂糖は伊万里にたまに買いにいっていたそうだ。

 

*行事について

 馬渡では地蔵祭りというのがあるらしい。盆踊りなどをする伝統的な祭りだということだった。

 他の村とも、祭りの時はその村に行くなど、文化的交流があったそうだ。

 

*若者の存在

 馬渡では、若者(中学卒)は青年クラブというものに入り(男性のみ)村のために奔走していた。彼らは、夕方になると、「若い宿」というところに集まり酒を飲んだり(どぶ酒)して過ごし、寝泊りをそこでしていた。彼らは何をしていたかというと、電話のない時代どこかの家で急患が出たりすると、どこよりもまず青年クラブに連絡し彼らが医者を呼ぶなどの措置をとっていた。

 死亡した場合も連絡をうけた若者たちが親族に伝えるというシステムになっていた。このように地域のために働く若者たちに村の人々も寛大であった。やはり若者は腹が減る。そこで、近所から干し柿やスイカ、梨を失敬することもしばしばだったらしい。しかし、村の人は例え若者衆の仕業だと気づいていてもその行為をとがめることはけ決してなかったという。青年クラブにはしきたりがあり、在籍は中学卒からで、入った当初は世話役ばかりやらされるらしい。そして、結婚と同時に卒業するということらしい。結婚についても伺ったが、馬渡周辺はかなりオープンらしい。というのは他の地域にはで力(ママ)を強めるためその部落のもの、つまり親戚結婚が多い部落もいまだにあるという話も伺ったからである。

 

*馬渡のこれから

 以上に述べてきたように、歴史ある馬渡も時代の変化とともに少しずつ変化してきている。最後に、これからの馬渡について伺ってみた。やはり機械化によって農業や自然が変化していく中で馬渡の人々の生活も大きく変化したようだ。それに加え、平成12年度からは、減反政策にも変化があり、これからは田を減らして大豆、麦の両方を作る畑を作らないと国から補助が受けられなくなるそうで、今まで農業の政策にはほとんど知識がなかったのだが、私達が食べているお米を作っている方々が私達の知らないところで苦労されていることにとても驚かされた。

 

*最後に

 忙しい年末に急にお邪魔したにもかかわらず、丁寧に詳しく教えてくださった伊勢馬場一郎さん、よそ者の私達に優しく道を教えてくださった馬渡の皆様ありがとうございました。拙い文章ではありますが教えていただいた事を私達なりにまとめあげてみました。記録違い、開き違いによって間違いが多少あるかもしれませんがもしお気づきの点がありましたらお知らせください。皆様のこれからの健康と益々のご活躍をお祈りしております。

 

九州大学法学部1年

松尾寛之

三代達也