【武雄市武内町松尾地区】
歴史の認識 現地調査レポート
調査区域:佐賀県武雄市武内町松尾
調査担当者:S1−28 1PS99029 小林賢治
S1−28 1PS99043 大東智恵子
私たちは、「歩き、み、ふれる歴史学」の授業の一環として、佐賀県の武内町松尾というところに行くことになった。その目的は、この地に古くから伝わる「しこな」というものを町の古老などから聞くことによって調査し、それを記録に残すというものである。今しておかなければ「しこな」というものは次第に忘れられ、そのままになってしまうからである。
こういうわけで、私たちの佐賀への旅が始まったのである。
一日の行動記録
そこまでは、バスで行くことになっていた。バスを降りた私たちは、隣の調査区域である平古場へ向かう二人とともに、それぞれが連絡を取っていた人のところへと歩きはじめた。本来ならば松尾の公民館長である藤安昭純さんのお宅へ行って話を聞きたいところだったが、電話してみたところ、あいにく藤安さんはまだ50歳代で昔の村のことはあまりよくわからないということだった。しかし藤安さんは代わりに武内町の公民館長を勤めておられる伊勢馬場光時さんという人を紹介して下さった。そこで私たちは伊勢馬場さんなら昔のこともよく知っているのではないか、と思いとりあえず彼のお宅へ向かうことにした。
バスを降りて20分ほど歩いたところに伊勢馬場という表札がかかっている家を発見した。私たちはここがあの伊勢馬場さんのお宅だと思い、近くまで行ってみた。すると奥さんらしきひとが庭仕事を終えて家に入ろうとしていた。そこで、私たちは「恐れ入りますが、公民館長をしておられる伊勢馬場光時さんのお宅ですか?」、と尋ねた。すると、「いえいえ、ここは同じ伊勢馬場でも公民館長の伊勢馬場さんとことは違います。公民館長さんのお宅なら、この道を真っ直ぐ行ったところにあります。幼稚園バスが止まっているのですぐわかりますよ」と親切に教えて下さった。「ありがとうございます。」と私たちは丁寧にお礼を言ってその場をあとにした。彼女は気さくそうでやさしそうな人だったのでもっと話してみたいという、後ろ髪引かれる思いであった。
そして、彼女のいうとおりに歩いて15分ほどしたところに、伊勢馬場さんのお宅はあった。さすがに公民館長らしく立派なお住まいであった。呼び鈴を二回ほど嗚らしたであろうか。すると、老人というには失礼なほど立派な体格の男性が玄関先に出てきた。彼が伊勢馬場さんである。名を名乗り、概略を説明すると、藤安さんから連絡があったらしく、すぐにその学生たちだと分かったようだった。玄関先では寒いからといって、彼は私たち二人を奥の部屋に案内してくれ、そのうえストーブまでつけて下さったりしてまさに身も心もあったまる思いであった。
しかし、肝心のしこなについての情報は何も得られなかった。というのも、彼は松尾の隣むらの人間で、「その地域のことならいくらでも教えてやれるんだが、松尾のことはちょっとわからん。」ということだったからだ。ここで私たちは蹟いてしまったが、伊勢馬場さんが松尾の地域の人で昔のことに詳しそうなご老人を幾人か紹介してくれたので、その中の一人、中原キヌエさんという方を訪れてみようということになった。
私たちは来た道を戻って、彼女のお宅にたどり着いた。玄関から「すみませーん!」と声をかけると、中から奥さんらしき人が出ていらしたので、かくかくしかじか……と説明すると、中原キヌエさんと思しき人とその息子さんらしき人が出てきた。再び概略を説明すると、彼女たちは快く話をすることを承諾してくれた。そうして、私たちは質問をしはじめた。まず始めに地図で松尾地域の正確な確認をすることにした。それからこの地域に伝わるしこなについてお聞きした。すると、「しこなみたいなものは2、3個ならあるけど、それ以上は知らないねえ。それでいいなら。」ということだった。それから、昔のむらの姿についてもお聞きした。
今回収集したしこな:西の角(にしのかど)陣の内(じんのうち)松尾の山(まつおのやま)
村の発達
電気は子どものころからあったのでいつきたかは不明。
プロパンガスは昭和30年代にきた。
村の生活に必要な土地
入り会い山はなかった。
ガスが来る前は生活に必要な燃料は薪でまかなっていた。薪は近くの山から取ってきていた。
米の保存
青田うりはしていなかった。
家族で食べる飯米は‘保有米’と呼んでいた。
米は大型の甕に保存していた。
次年度の種もみも大型の甕に保存していた。
ねずみ対策も同様に保存し、甕にふたをしていた。
食事における米・麦の割合は5:5〜6:4で幅があり、各家庭によって違っていた。
芋ご飯、麦飯なども食べていた。
村の動物
牛はいた。各家庭に平均二頭くらい。雌だった。
博労はいた。博労‥‥‥馬の仲介人
馬洗い場や馬捨て場はなかった。
村の道
**ノウテと呼ばれる道はなかった。
秀吉の時代古い道を通って、朝鮮陶工のつくった、焼き物が運ばれていた。
しおや魚は行商人が運んでいた。大村湾や伊万里湾から運んでいた。
まつり
夏祭‥‥‥全員参加
もぐらうち(1/14)‥‥‥子供たち中心
弁財天‥‥‥夏の収穫に対する感謝の祭り
昔の若者
男子‥‥‥家の手伝いや山へ薪を取りにいっていた。
女子‥‥‥わらで縄をぬってむしろを作る。
遊び‥‥‥ビー玉、お手玉、陣取り遊び、めんこ、こま、水鉄砲作り、すぎのみ鉄砲
近くの川で水泳
力石はなかった。
みかん泥棒をしていた。
若者たちは夕食のあと、青年クラブという公民館に集まった。
よその村の人が夜這いしてくるのを妨害した。
若者たちは青年団活動、夏祭(6月下旬〜9月くらいまで)を通して知り合い、恋をした。
恋愛に関してはよその村との交流はあった。
その他
干ばつの時、ちょっとした水争いはあった。
生活用水は井戸や山水。
鯉、イモリ、蛍などもいっぱいいた。
昔は武内町ではなくて、武内村だった。
村のあり方
圃場整備、道路整備以来村の姿はあまり変わっていない。
現在村の家の数は減って、高齢化が進んでいる。
日本は自給率が低いので、自給率をあげることが目標。
話し手‥‥‥‥‥中原キヌエ(大正15年8月8日生まれ)
以上が、今回得た情報である。中原さん親子はとても気さくな方たちで、私たちも非常にリラックスしながら、話をすることができた。途中で、奥さんがお菓子とコーヒーを出して下さったりしたので、ちょうど12時前で昼食もとっていなかった私たちはそれをありがたく頂いた。
私たちが伺った時、中原さん宅にはいとこの男性が来ており、話の途中私たちの写真を撮っていた。「自然な感じで」といわれ、なかなか恥ずかしかったのを覚えている。しかし、私たちがきたせいで、中原さんとも十分に話すこともできなかったようで、大変申し訳ないと感じている。私たちが九大の薬学部の学生であるというと、中原さんの息子さんが受けたいらしいということをいわれたので、なんだかとてもがんばって欲しい気がした。そして私たちは丁重にお礼を言って中原邸を後にした。
今回の旅での収穫は多大である。第一の目的である「しこな」の収集も果たせ、昔のむらでの生活の様子についても、たくさんの話を聞くことができた。驚いたことは、日本史の教科書の中だけのはなしのような気がしていた、秀吉の話や、朝鮮陶工の話を実際に耳にした事である。
しかし、収穫はそれだけではなかった。佐賀に実際に来る前は、見も知らずの私たちにここの人たちはいったいどんな反応を示すのだろうかと不安でいっぱいだったが、私たちの不安をよそに、佐賀の人々はとても気さくで心のあったかい人々であった。突然の訪問にも関わらず、快く私たちのお願いを聞き入れてくださった中原さんたちの心やさしいお人柄が心に残っている。昼食をそこらの道路わきで食べたのだが、松尾はのどかで、心安らぐ思いが二人の胸になかにあった。授業とは別に、また佐賀にきたい、そして、今回お世話になった人たちにお礼を言いたい、と思いながら私たちはバスの待ち合わせ場所へいった。するとそこには私たちと同じような歓迎を受け、同じような気もちを持ったクラスメイトがいた。みんなお互いの調査結果を語り合った。みんな充実した面持ちで佐賀での体験を口にしていた。そして私たちは佐賀をあとにしたのだが、帰りのバスの中は疲れた顔の人、嬉しそうな顔の人、さまざまだった。しかし一様に見知らぬ土地での経験を経て、一回り大きくなったようであった。