【武雄市武内町黒牟田地区】
歴史の認識現地調査レポート
○武雄市武内町黒牟田
1LA98114 貞方崇邦
1EC97084 澤辺俊裕
7月10日、僕らは武雄市武内町黒牟田に、昔の情景、田のしこ名、等を調べに出発した。どうにか黒牟田に着き、陶芸家の丸田隆影さんのお宅におうかがいしたが、「ここ辺の地域には、田がほとんどありませんよ。」とおっしゃっていた通り、黒牟田につくや否や、田んぼの数は3、4つの場所にしかなかったのは実感できた。だが、歴史が長く、伝統のある黒牟田で、陶芸の道に通じておられる丸田さんのお話には、とっても興味深いものが多く、大変関心をもった。{その際の陶芸の話は後程叙述します。}
丸田さんのお宅をおうかがいした後、失礼ではあったが、商店のおばあさんや今から畑仕事に向かおうとする昔からその地域にすんでおられたおばあさん、また田で雑草等を駆除していた最中のおじいさんなど、多くの年輩者の方々から、昔からある地名の話や、現在までの歴史、そして数少ないながらも田のしこ名をお聞きすることができた。
まず歴史の流れを述べたいとおもう。
以前、第二次世界大戦後から、その地域の辺りは<合衆国>というあだ名でよばれていたそうで、その由縁は、黒牟田を中心としたいくつかの村が合併していたからだそうだ。おばあさんは、「昔、ここら辺は、武内町で一番の繁華街やったと。」とおっしゃっていたが、今日では若者があまり存在していない様に見えた。現在までの過程の理由をうかがったところ、黒牟田にあった神社がまず武内神社という離れた所にある神社に、吸収されたということと、学校が梅ケ原に移ったということの主な二つがあった。最後に「淋しくなった。」とぼそっといっておられたが、とても印象が強かったことを覚えている。
次に黒牟田の地名を述べておく。なにしろ、黒牟田という所は周りは山で囲まれており多くの谷が存在しているため、そこに住んでおられる住人の方もどこの谷、場所がどう呼ばれているか地図では把握できなかったようである。
<黒牟田>:オオクボンタニ :コダニ :フッダニ :ヤナギンタニ :祥古谷
:アリタンコウチ
<平古場>:キレンコバ :トウトザカ :ユイノバ :カマ :ジンノウチ :ジンノヒラ
{後の2つはじんば刀という江戸時代の刀の名からきているらしい}
<田のしこ名>:タバル
<用水路の呼び名>:「そっこう」と仲間内ではよぶらしい。
田で仕事されていた方からの話では、後継者がおらず専業農家(畑等は除く)ではやっていけないと強く語られていた。確かに、お一人で仕事をやられていたことからも、若い世代の人の中で農学関係の仕事についている者は少ないというのが実感できた。
次に、この黒牟田のメインである陶芸について述べようと思う。この地域に入って真っ先に目に付いたのは、数多くの煙突らしきものが所狭しと立っていることであった。そもそも武雄市での陶磁器の発祥は、文録・慶長の役に従軍していた武雄領主である後藤家信が多数の朝鮮人陶工をともなって帰国し、その中心であった深海宗伝が―族とともにこの黒牟田にある竹古場山の山麓の錆谷や小峠で開窯したことに始まる。武雄鍋島家文書によれば慶長3年(1598年)頃から、陶器の製作が始まり、すでに寛永6年(1629年)には磁器が焼かれていたようである。以後400年の間、陶芸の伝統が引き継がれて今に至っている。この武雄市に点在している古窯跡のうち小峠窯跡、大谷窯跡、錆谷窯跡、土師場物原山は国の史跡に指定されており、そのほかに70ヶ所以上の古窯跡が確認されているらしい。この黒牟田焼の黒牟田窯は武雄唐津北部系に属するもので、おもしろいことに有田の方にも黒牟田と呼ばれる地域があり、そこは李三平を中心とした人たちが白磁を完成させた場所らしい。また、この地域一帯には30近くの窯跡が点在しており、一大群窯の姿を今日にとどめている。
また黒牟田焼は桃山末期の慶長、元和のころ(約450年前)に、さき程の朝鮮の陶工宗伝と共に帰化した群国陶工の開窯によるものであって、開窯以来、窯の焔は、燃えつづけ、肥前一円の庶民の、日常雑器のすべての種類を焼成してきたとおっしゃっていた。
したがってこの窯の製品は日常の生活用品をはじめ宗教用具に至る範囲にわたり、その規模は実に雄大であったことが、数々の伝世品、発掘品を通じて伺う知ることができるとのことであった。よって黒牟田窯の伝統陶技は、在来の古唐津の北朝鮮陶技の中に、李朝中期の作調、文様が表現され、主に往時の肥前土着民の生活感情が流れているといえる。
このお話の途中で自分らが特に、関心を持ったのは、その焼き方であった。土灰等を水がめに入れ、天日ぼしをするとか、還元、酸化といった化学反応を上手く利用して、還元の時は黒に、酸化の時は黄色みがかかった色を出すなど陶芸の奥深さというものを垣間見た気がした。また、大切なこととして、粘りけのある土や鉄分のある土などをあげておられた。製品の特徴としては、素朴な親しみ易い意匠形状と釉調にあるといえる。殊に黒釉薬、縁釉薬と呼ばれている味わいと大胆な刷毛目の描線は、端的に黒牟田窯の個性美を表している。今日でも、なお、生産なさっているらしい、「そろばん玉型の黒土瓶」、「笹絵徳利」、「油壷」、「刷毛目皿」などは実によくその特徴をとどめているとのこと。
あと、祭りについてだが、毎年「火祭り」と呼ばれている祭りがある。一種の有田焼市みたいなものだそうだ。丸田さんは最後にこう語ってくれた。「そもそも豊臣秀吉が政を行っていた頃、千利休に代表される茶が流行、または風流のあるものとして、広く珍重されており、豊臣秀吉が朝鮮出兵を謀ったのも、朝鮮に存在していた、腕のたつ陶工を見つけ出し、連れ帰ってくることで、よりすばらしい茶碗をつくろうとしていたかもしれませんね。」このことに僕らは相づちを打ったものだが、よくよく考えるとつくづく納得でき、歴史への好奇心と探求心をくすぶられた感じがした。これら興味深いお話をお伺いできたのと共に、僕らに時間をさいて下さった丸田さんには深く感謝し、お礼を述べたい。
こういうわけで、丸田さんのお宅を失礼し、後にしたわけだが、その帰途で、「竹古場キルンの森公園」という大きな陶芸館らしきものがあり、「そこにはバス3台分ぐらいの飛龍窯というものがありますよ。」と丸田さんもおっしゃっておられたので、おじゃますることにした。間近で見ると実に大きいことを実感でき、なんと世界一の大きさだということであった。袋の数4袋、袋の大きさ、奥行き8.9m、幅3.8m、高さ3.4m、全体の長さ23mはだてではなく、大変圧巻された。この飛龍窯[写真]は、昭和20年代初めまで、使われていた登窯を参考に連設されたらしく、一度に約12万個の湯飲みを焼成することができるらしい。
以上のように、黒牟田という地域に足を運び、以前からの伝統、歴史を探ってきたわけだが、その作業が実に容易ではなく、様々な視座が必要であるということを痛感した。と同時に、ふれあいと対話の重要さ、楽しさも感じることができた1日でもあった。先生が「大学だけが学ぶ所ではない。」とおっしゃっていた通り、歴史というものは、単なる事実の羅列としてではなく、その裏側にあることにふれなければならない。そしてまた、そのことがこの調査を通じて分かった気がした。
※写真省略