【武雄市武内町亀ノ甲地区】

歴史の認識  現地調査レポート

 

亀ノ甲調査レポート

 

1LA99104 佐藤太作

1LA99096 坂本尚史

 

アザナ、シコ名一覧

カイバヒラ(飼葉平)、アイタンコチ(有田河内)、ウーヒランタニ(大平ノ谷)、トイコバ(鳥古場)、ウラゴチ(浦河内)、ザマダケ(材木岳)、テンドウイワ(天堂岩)、ハジンコチ(河内)、シンヤマニタノツツミ(新山仁田ノ堤)、マエダバシ(前田橋)、ヨシンタニ(吉ノ谷)、マーヤマ(丸山)、ヒラキンタニ、ボウノフチ、マーヤマバシ(丸山橋)、ミツンコチ(満ノ河内)、ナカンタニノツツミ(中ノ谷ノ堤)、ウサヤシキ 以上あざな

 

キタバタケ(北畠) 以上畑

 

マエダ(前田)、ヤナバ(柳葉)、ゲンダ(源田)、ヤツエ(八ツ枝)、カメノコウノタンナカ(亀ノ甲の田ん中)、ジゾウダ(地蔵田) 以上 シコ名

 

バスから降りたのが11時。これからすぐに青広さんのお宅に伺うと昼食をはさむことになってしまうため、青広さん宅には12時30分ごろ伺うことにし、それまでは白分たちの足で亀ノ甲を探索してみることにした。

バスを降りてから私達は松浦川に沿って歩いていくことにした。まず目に付くのは、川を挟んで私達から見ると右側にある田であった。稲を刈ってそのままの田と、すでに畑になっているものがある。その後いったん来た道を戻り、「病院前」と書かれたバス停を右折、上り坂を登っていく。その名のとおり病院があるのだが、左側に小道が二つある。右側の小道を行くと青広さん宅へと行ってしまうので、左のほうの小道を行くことにした。小道に沿って左側に田が展開しており、延々と10分ほどこの景色が続く。ちなみに右側は雑木林がこれまたずっと続いている。しばらくすると稲荷神社が見えてくる。鮮やかな朱色の建物の周りにこれまた鮮やかなのぼりが立っており、「初詣」とある。もうそんな時期かと思いながらも、稲荷神社は明らかに他の地域であるのでそろそろひき返すことにし、時計を見るとちょうど12時30分をまわったところだったので青広さん宅へ向かうことにした。

12時45分ごろ青広さん宅へ到着。住宅地図を見て分かっていたことではあるが、青広姓の家が並んで二軒ある。思い切って一軒をたずねてみたところ、これがはずれでいきなり最初から恥をかいてしまった。青広孝治さん本人は第一印象として優しそうな人だと感じたが、それは最後まで変わらなかった。その後青広さんにシコ名を教えていただく大宅正記さんのところへ連れていってもらうことになった。大宅さんは85才にもかかわらず足取りもしっかりしている元気なお年よりだった。聞けば、今年の8月に富士山に登ってきたという。なるほど。どのような調査方法をとるか迷ったが、とりあえず地図を見てもらってシコ名等のだいたいの場所を教えてもらい、その後でそのシコ名等の場所に実際に言って確認するといった方法をとることにし、とりあえず青広さん宅へ戻ることにした。

青広さん宅に戻り、まず地図を見てもらった。

「地図で言うと・・・この辺はなんと呼ばれていますか?」

「この辺はミツンコチていうですもんね。」

ミツンコチ‥・と書こうとすると大宅さんはわざわざ紙に漢字を書いて示してくれた。

「この辺をですね・・・ウラゴチていうですもんね。そんでこっちはもうハジンコチていうですもんね。」

「この山の辺りもですか?」

「ええ、その辺の山もハジンコチていうです。そんでこの辺はもう亀ノ甲ですね。」

「ああ、この辺はもう亀ノ甲。」

そして待望の田んぼのシコ名の話に。

「昔の田んぼでしょう?この梅ノ原から川のほうにずーっとこの辺が源田ていうですもんね。そんで昔はこの辺を柳葉ていうてましたもんね。昔んことですよ。今はもう言わんですもんね。」

「いや、昔のものでいいんですよ。」

ゲンダとヤナバと呼ばれる田んぼは最初に私達が見た川沿いの田んぼを指すようだ。後でどの辺で区切られるのか聞こうと思いつつ次のシコ名に。

「川を挟んで向こう側がゲンダ、ヤナバで川こっちはもう亀ノ甲のタンナカて言いますもんね。それから向こうがタバル・・・チャーバて言うですもんね。」

大宅さんが教えてくれたこのチャーバ(タバル)だが、亀ノ甲には含まれない。しかしせっかく聞いたものを書かないのはもったいないので補足として書いておく。

「で、この辺は・・・」

「この辺もタバルやね。タバルはちょっと広いけんね。」

「そうですか。」

「うん、広い広い。」

タバルは広いらしい。

「あと畑とかは・・・」

「畑?北畠。キタバタケていうのはね・・・。この辺やね。」

「ここですか?」

ここで青広さんのお母さん(だと思う)がお茶と漬物を持ってきてくださった。個人的な話だが、この漬物はおいしかった。

そして調査再開。

「この辺はなんて言いますかね。」

「もうここは柿田代ですもんね。」

「ああ、柿田代ですか。」

「もうここは柿田代て言うけどね、ここにほら堤のあるでしょう。これはヤマニタノツツミていうですもんね。」

佐賀では池をツツミと呼ぶことが多い。

「で、この辺はもう松尾ですかね。」

「もう松尾ですもんね。」

「まあ、ここに道のあるですが、これによって分かれとんやなかですか?」

「ああ、そんなもんですよね。」

「ミツンコチ、アイタンコチ、ハジンコチて。そんなもんでしょうね。」

「そうですよね。名前つけるのにそう正確にどこからどこまでなんて決めたりはしないですよね。」

「はい。」

少しおかしな方向に話がいっているような。    ・

「この辺は亀ノ甲山ていうですもんね。」

「で、ああ、この辺はもう多々良ですね。焼き物が有名なんですよね。」

「ええ、焼き物が焼けて、ね。」

「あ、あと水路には名前はついてますか?」

「水路には名前はちょっと、ついとらんごたあですね。」

「だいたいこんなもんですかね。じゃあまた後で聞くとして。他にも聞きたい事があるんですよ。祭りとかもあると思うんですけど、今どんな祭りがあってますか?」

「今は地蔵祭りですね。」

「いつ頃あってるんですか?」

「12月の19目、19日やったかなあ、昔はもっと祭りのありよったけどねえ。何人かでタンナカ持っとってねえ。今もそやけんあのタンナカ、堤の下にタンナカがあるけどわしたちが5、6人の祭りのありよったけどね。」

「祭りをはじめたいわれみたいなものは分かりますか?」

「やっぱり、その部落にタンナカがあったわけですたいね。要するに、共同のタンナカですたいね。そんで亀ノ甲は亀ノ甲で亀ノ甲の地蔵祭りていうてタンナカの一枚あったわけじゃもんね。そのタンナカを亀ノ甲で作って、今でんこの祭りはしようわけですよ。タンナカがあるから地蔵祭りをしようとでしょうね。そこを地蔵田って言いよるわけですよ。」

「それは地図のどの辺りですか?」

「ここんとこですよ。ここはもう個人のものになってしもうたんですよ。」

と、ここでもう二人のお年寄り、青木さんと平原さんが来てくださった。青広さんが事前に連絡して来てもらうようにしてくれていたという。青広さんありがとうございます。

その二人を含めた三人に話を聞いていく。昔の田んぼはどう分かれていたかを聞いてみた。しかし昔は川が流れていた場所が違ったので土地自体が変わっているという。その話になっている間どうしようと頭を抱えたが、その地形だった頃は三方の生まれる前の話であったらしく、今回の調査では関係ないようなので一安心。

「圃場整備があったのはいつくらいだったんですか?」

「があったのは・・・40・・・。」

ここらでしばらく圃場整備した年について論争になるが省略させてもらう。そしてまた祭りの話に。

「地蔵祭りはどんな祭りなんですか?屋台とか出るんですか?」

我ながらなんとも恥ずかしい質問をしてしまったと思ったが、後悔先に立たず。亀ノ甲の地蔵祭りはそういった屋台の出るような種の祭りではないようだ。あとでパートナーに思いっきり馬鹿にされたが、それも仕方ないくらいの失態である。

「他に祭りなんかはありますか?」

「ジュウサンチ祭りてしよったもんね。」

「12月13日にやりよった。」

他にも毎月23日にサイヤマチ、11月15日にオウヒマチが行われているという。四月の花見は昔は最低三日、場合によっては一週間もやっていたという。今と違ってみな専業農家だったため、仕事に出ることもなかったのでできたようだ。

話は変わって電気の話となった。

「電気が来たのは大正12年じゃったろうか。」

「ああ、そのくらいばい。電気が。電灯が。」

「ガスなんかはどのくらい前に来たんですかね。」

「ガスは・・・(笑)。四十年くらい前?」

「昔はガスなんかなかった。」

「うん、そいやけ・・・35〜36年?」

「そんくらいんとこじゃろ。」

「わしどんがこまかころは石風呂じゃったもん。石!風呂は石!」

石風呂とは聞いたことがなかった。五右衛門風呂なら見たこともあるが。聞くと五右衛門風呂よりももっと前の風呂の形態であったらしい。石だけでなく木風呂もあったとか。

「じゃあ次の質問を。皆さんが僕達くらいの年齢の時は何をして遊んでいらっしゃいました?」

「遊び?もくろうち。あと、かたつけとかぺちゃとかね。」

ぺちゃとはめんこのことだと青広さんが教えてくれたがあとは・・・。

「あとは・・・演習ごっこか(笑)。」

お年寄りの人は笑っていたが、今まで出た遊びの中で一番想像できるものであった。

「そいでもほとんど遊ぶ暇とかはなかった。働きよったし。」

「そう、藁仕事とか。」

話ではぞうり、下駄で学校へ行き、雨の日ははだしだったとか。昔は今と違い身なりで貧富の差がはっきり分かっていたという。何故か樋口一葉の「たけくらべ」が頭に浮かんだが、時代的には近いものがあったかもしれない。村に一つしかない電話の番をする仕事もあり、日給15円で青年たちがやっていたそうである。

「カイバヒラてあるやろが。」

「カイバヒラ?どんな字ですか?」

と、カイバヒラと言う名が出てきたので早速地図で確認してみる。

「そこがみかん山のあったところ・・・。」

「そうそう、ああみかんじゃなか、みかんじゃなか。梅の木たい。」

「この辺の・・・この橋が前田橋たいね。」

やはり、前田という田の近くの橋なのでそういう名がついたそうだ。また、マアヤマと呼ばれる山があるのだが、その近くにある橋をマアヤマ橋と言うそうだ。

ここでまた少年時代の話に戻るのだが、

「水浴びやらして天堂岩ちゃああが。」

天堂岩と言う言葉が出たとたん皆さんが次々にその岩についてしゃべり出したので聞いてみたところ

「天堂岩ちゅうてね、川ん中にね、マアヤマの前の川に岩ごたんとのあってそっから朝来て川に飛び込みよったったい。」

「天堂岩て言いよった。岩がもう川に出とったとですと。」

「それで天堂岩あってね、そしてここが飛び石やったんですね元は。飛び石があってね。そいでここがずーっと下さん広かこうらのあったたいね石の。広々としたこうらのあって。そって亀のおったもんじゃけん亀ノ甲て名前のついとったい。」

亀ノ甲という名のいわれである。突然出てきた話だったが、これは拾い物である。

「この橋の下がね、ボウノフチて言うたの。ありゃ坊主の死んでの。」

「昔ボウノフチはすりばちのごと深かったもん。」

「それでも大分流れよった人のおるの。」

「あそこらへんは何かあるばいね。坊主の死んだけんやろか。」

ここで一同大笑い。死んだお坊さんには申し訳ないのだが。

「昔は畑とかを耕すのに牛や馬を使ってたんですよね。」

「牛馬ね。そりゃどこでも牛馬やったね。」

牛も馬もいたそうだが、昔は馬のほうが多かったそうである。家一軒につき一頭が平均だったそうだ。

「バクロウと言われている人はいました?」

「バクロウ・・・ああバクリュウさん。」

「よう知っとったな。」

いや事前に資料読んで知っただけなんですけどね。やはり普通は知らないだろうなあ。

「ありゃあ馬喰いて書くもんのぉ。」

「この辺はいましたか?」

「ここにはおらん。」

それでも一時期はいたそうである。家畜商の免許が必要であるらしく、それを取った人はバクリュウさんであるようだ。

「馬捨て場なんかはありました?」

「姥捨て山?そりゃあ知らんばい。」

そして皆さん大笑い。いや、姥捨て山じゃなくて馬捨て場なんですけど・・。すごい勘違いをされてしまった。結局そんなところはなかったという。

とけいを見るともう3時を過ぎていたのでお年寄りお三方の名前と年齢を聞いて家での調査は終了とさせてもらい、実際にシコ名の付いた場所へ行って見ることにした。

まずウラゴチからヒラキンタニまでの一本道を歩くことにし、大宅さんと青広さんに案内してもらった。しかし、確かに最初はきちんとした道だったのだが、進むにつれ草が生え放題で道も荒れてきた。

大宅さんに聞くと、最近はほとんど誰もこの辺は通らないということであった。この辺りになると、地図では田んぼとなってはいるものの、実際はほとんどが荒地になっている。さらに進むと、田んぼだったところが植林されていた。ということでヒラキンタニヘ行くのは諦め、引き返してこの一本道の中間あたり、まだ田んぼが使われているところを横断して山を通り抜けた。

私達が通ったところの右側の山がアイタンコチと言うらしい。山を出るとちょうど目の前に地蔵田が現れた。前に出てきた地蔵祭りの地蔵田である。大きさとしてはそんなに大きな田ではないと感じたが、やはり、昔共同で使っていた時は相当に重宝されていたのだろう。

地蔵田を左に曲がりしばらく行くと、亀ノ甲池がある。消防用の水であるようだ。亀の甲池へ行く途中ザマダケも確認した。杉が密集している所があったが、その辺一帯を指すようだ。亀の甲池からはゆるやかな上り坂になっており、その左手にキタバクケが広がっている。上り坂が終わる頃、火宅さんが「あれがマアヤマばい。」と教えてくれた。なるほど、名前の通り丸いという印象を受けた。

ザマダケの時も感じたのだが、ザマダケにもマアヤマにもいくつかの墓が見られた。他でもいくつか見られることから、亀ノ甲では雪国のようなものはなく、個々の家で墓を作っているのだろうと思われた。それにしても若い僕らを引っ張るような元気で一緒に歩き回ってくれた大宅さんには感服した。さすが85才で富士山に登る人である。聞けば富士山に登った人の最高齢は90才らしく、大宅さんがその記録を破る可能性は大きい。しかもその時は親子四代で登るという。青広さんが「NHKに取材にくるよう言っとかんね。」とおっしゃっていたが、僕らも取材に行ってほしいと思った。

最後にヤナバとゲンダを見て終了となった。バスの時間ぎりぎりになっていたのでゆっくりはしていられなかったが、ヤナバとゲンダは段差で分かれているということを大宅さんから聞いていたのでそれを確認。青広さんに車で送っていただき何とかバスに間に合った。

今回調査に協力してくださった青広さんはじめ青広さんのご家族の方々、大宅さん、青木さん、平原さん、どうもありがとうございました。

 

今回調査に協力してくれたお年寄り

大宅正記さん 1914年生まれ 85歳

青木かね麿さん 1915年生まれ 84歳

平原篤さん 1926年生まれ 73歳