【武雄市武内町柿田代地区】

歴史の認識現地調査レポート

 

1LA99195 原田俊祐

1LA99194 原口陽一郎

 

話者 伊勢馬場 勇

   畑島 梅次

 

しこ名の名前

柿田代 ツンノハ(鶴ノ原)・フジバル(藤原)

池ノ平 オオマガイ(大曲)・ヒガシノハル(東ノ原)・イケノウエ(池ノ上)・ハチナガレ(八流)・カキバラ(柿原)・ミヤノハラ(宮ノ原)・クボ(久保)・カネガフチ(金ヶ淵)・シトギレ(四斗切)ミヤハ(宮原?)

*柿田代の人は、池ノ平と柿田代の田圃を耕作している。よって、柿田代の現地調査ではあるが、田圃については池ノ平のしこ名についても、列挙しておいた。

*メインは池ノ平で、ここでよく米がとれる。この地域は、水に恵まれており、水不足に困ったことはないに等しいという話です。むしろ、水害の被害が大きいそうです。特に、池ノ平においては、松浦川が湾曲しており、大雨が降ると川が氾濫して田圃を全部だめにする大水害地帯だそうです。(地図参照)

*圃場整備は昭和48〜平成2年まで続けられ、池ノ平から柿田代へと進められていった

そうです。

*池は、水田用の溜池で、結構新しいそうです。

*池ノ平のミヤハは、江戸時代に、山を切り崩して平地にして、田圃にしたそうです。この田に水を送るために、落差を利用して水田から水田に水を送っているそうです。

*サラ井手という用水を使用しており、用水源は松浦川井樋。

*井樋は、もともとは、江戸、明治の時期に、大砲の燃料である俗称エンシュウ、つまり煙硝(火薬)の生成のために水車を回し、石臼硝石を砕くため作られたのではないか、それが今の灌概用水路の利用に役立っているのではないか、と言われているそうです。もともとそのような軍事用に利用するために井樋が作られたため、立派なつくりになっている、と言っていました。この井樋のおかげで、旱魃にも負けない潤沢な土地にこのまわりをさせたそうです。用水路のルートは古老にだいたい示してもらったので、地図に落としてあります。また、必要のない水は松浦川に流していたそうで、落としていた場所もだいたい地図に示してあります。そしてこの用水路は、若木町まで続いている。

*以下、古老からもらった資料(ふるさと武内町再発見誌 西真手野西長寿会)により、ひとつエンシュウについて詳言したいと思います。

天保5年(1834)武雄領では全国に先駆けて洋式大砲を鋳造し、火薬の製造も行った。この時、松浦川から取水して水車を回し、石臼で硝石を紛砕して火薬をつくった。この水車は硝石の粉砕だけでなく、洋式砲を施盤で仕上加工するのにも使われた。武雄領ではダライパン(施盤)もオランダから輸入し、はじめのダライパンは水車で回しているが、胸掛式の水車であったため施盤を連動するには弱く、捨水を再利用したものと推測される。この煙硝屋は初め施盤工場であった。

極秘で洋式砲の加工を行った。平古場で洋式砲の試射も行っている。嘉永5年(1852)には蒸気機関を動力源とするボイラーを輸入して、領主の別邸の東に施盤工場を設けたが、その時、この施盤工場は煙硝屋となったのである。昭和49年圃場整備が行われ水田の地下1.6mの地点に90cm四方の切石で囲い三和土で目張りした堅牢な暗渠が発見され、150mにわたり、松浦川に排水されていたことがわかった。むかしはこの水路で子供たちが中をくぐってコウモリを取っていた。

このような堅牢な暗渠から流したことについては捨水を再利用したと考えられる。

*前述したように、ここでは松浦川と、井樋のおかげで、水に恵まれ、水争いはなかったそうです。水の配分については、米数俵によるものだったそうです。

*柿田代には、ヤマニタ・カキタシロ・キデンコバ・ハヤノハ・イケノヒラなどの字があるらしいが、いまいち聞き取ることができなかったので、カセットテープで参照してもらいたい。ヤマニタとキデンコバ(貴殿古場)については地図におとせたが、ハヤノハがどこかわかりませんでした。

*松浦川を挟んで西を西真手野西、東を西真手野東というそうです。

 

村の発達

電気が来たのは、おおよそ大正10〜12年くらい。その他にも、大正4年や8年といった説もだされたが、ほぼ、大正10〜12年ということで落ち着いた。電気が来る前は、家の明かりは主に石油ランプや種油ランプでまかなわれた。ランプは、家の中のみならず、当時、外にあった風呂の明かりとしても重宝したらしい。風呂の移り変わりでも、村の発達の様子がわかる。当初は、村に石造りの共同風呂があったそうだ。しかし、村全体で使う分、湯はきたなかったし、後の方ではいると、子どもの糞が浮いていたりしていたそうで、古老たちは笑い話で話していたが、実際、そういう風呂には入れるものじゃない。次に、風呂は各家庭が持つようになり、形態は、いわゆる五右衛門風呂である。五右衛門風呂は、基本的に外にあったため、この時期、明かりとしてランプが重宝されたらしい。外にある風呂ということで、やはり私たちは違和感を覚えるが、雪の降りしきる中、風呂に入りながら星を眺めていたなどの話を聞いていると、たいそう趣のあるもので、現在の露天風呂的な感覚なのだろう。そして、やっと、薪や石油によって湯を沸かす屋内の風呂の登場となる。どうして屋内にしたのか聞いたところ娘が年頃になるのに、いつまでも外の風呂には入りたがらんやろ、ということであった。70代の古老の娘が年頃になったくらいということで、時期はおおよそ30年程前くらいと推測できる。ちなみに、ガスが主に使われはじめたのは10年前くらい。20年くらい前からあるにはあったが、まだ、石油の方が主に使われていたそうだ。

 

村の生活に必要な物と子どもの役割

柿田代の家々は、薪や肥料にする雑草は、旧佐賀藩主鍋島家の由からとってきたそうだ。薪をとってきたり、その薪を使って風呂を沸かしたりするのは、もっぱら子どもの仕事であった。小学校5年生ともなると、完全に労働力として認められ、田畑仕事の手伝いから、学校に弟や妹を伴って行くことで子守の仕事もあったし、飲料水やその他生活に必要な水は山の清水や井戸水が主であったので、朝早くから水を汲みに行ったり、風呂を沸かすための水を汲みに行ったりと、多くの仕事があった。勉強はやりたいけれども、周囲の環境、状況のため、それはできなかったそうだ。「親のすねかじりばっかりじゃなかったけんね。勉強できるあんたたちは幸せよ」と皮肉っぽくいわれた。

 

戦争による生活の変化と、現在の農業

戦争を挟むことで、農家は大きく変化した。戦前は大土地制で集落の土地の所有権は全て地主に帰し、地主によって小作者は耕作地を分配され、また地主に徹底的に搾取されていた。地主と小作人のそれぞれの取り分の割合は7:3である。使われていた家畜は馬であり農家2〜3軒に1頭という程度であった。しかし、戦争が始まることによって馬が軍馬として徴収されるようになり、馬による耕作は不可能となった。そこで、徴収される恐れのない牛を家畜として使い始めたのである。軍人の食糧用として牛が徴収されることがなかったのかどうかを聞いたところ、当時の食生活では肉を食べることはあまりなかったそうで、あったとしても豚・うさぎ・鶏くらいのものだったとのこと。うさぎというと、現在、私たちの食生活では考えにくいのだが、アッサリしていておいしかったらしい。また、うさぎは、その皮革にも利用価値があった。戦中、満州等の極寒地へ出征する軍人に防寒具を作ってやるのにも利用されたそうだ。

戦争中は、やはり、農家の働き手である男はほとんど徴兵で戦地へおくられたそうだ。また、徴兵対象となっていなかった者も、結局は志願兵として徴兵されたらしい。それなら志願しなければいいのに、と思ったが、強制的に志願兵試験を受験させられ、試験官が合格させようと解答を教えていたとのことだ。村に残っているものは、体の弱いもの・女・子どもだけであり、戦中はそれだけの労働力で農業を営むほかなかった。

終戦を迎えると、また、生活は一変した。まずは、外地から大量の軍人が帰還し、日本全体が一気に食糧難に陥ったことである。特に都会では食糧難が深刻だったため、政府は農家に対して供出米という徴米を課し、良米は次々に、とられていった。農家では残ったくず米を食べていた。くず米と言えば、戦前は家畜しか食べないような粗末な米だった。この武内町は、供米は全国で唯一100%だしていたところであり、また、それだけ都会の人々に米を供給してあげたという意識は強い。それが現在の農業への政府の扱いに対する不満となっているのである。

現在、農業収入だけで生活していくことはできない。トラクター等の農業機具の費用を賄うのも不可能だそうだ。そういった状況の中で、農家は一方では農業をやりながら、一一方では現金収入を得て生活しているというのが現状である。どうして、そういった採算に合わない農業を続けているかというと、先祖が代々残してくれた土地を子孫の役目として耕していかねばならないという意識があるからである。そういった意味で、収穫や米の質がどうこうといったことが目的ではなく農業をしているのである。しかし、減反や米価の下落といった、農家にしては酷な状況が続く中、戦後、都会の生活を支えた立場の自分たちを今では顧みてくれないということで不満が募っているのである。古老たちはそういったことから、私たちにかえすがえす日本を変えてほしい、すべての生活の基本、国のなりたっている基本である農業を顧みて欲しいということをおっしゃっていた。

 

村の動物

村の動物は先程も述べたとうり、戦前は農家2〜3軒につき馬が1頭、戦中からは馬が軍馬として徴収されたので、徴収される恐れのない牛を各家に1頭は持っていた。牛馬は、牛馬耕という言葉があるように、田畑を耕す際に利用されたが、その外にも、山作業などにも利用されていたらしい。しかし、動物を手に入れるのにも金は必要であったため、村の中で雌馬に種をつけて、子を繁殖させていたとのことだ。また、博労と呼ばれる牛馬商の存在もあったらしい。博労は、やはり口の達者な者が多く、農家の牛馬を鑑定すれば、「もうこの馬(牛)は役に立たん」んなどと、いかにその馬(牛)が悪いかということを話し、また、自分の所有の牛馬に関しては、それが良馬(牛)とは言えないものであっても、いかに良い馬(牛)かということを話して売っていたそうだ。また、セリ等の時使用される、指を何本握るかで売り値を決める方法で、その方法をよく理解していない農家の人をだまして金を巻き上げていたのだそうだ。現在、牛馬が担っていた役割は、トラクター等に受け継がれているため、農協が牛馬商と同じ役割を担っていると言える。

 

昔の農業とそれによる暮らし

戦前はもちろん大土地制が存在していた。地主と小作人が存在し、富める者は富み、貧しい者は働けども働けども貧しいままであった。先程も述べたとうり、地主と小作人の取り分は7:3であった。地主は酒屋や病院が多く、酒屋についての話を聞いた時は、世の中、うまくいく者はうまくいくものだと感じた。酒屋であれば、小作人から納入された米を使って酒を造れるので、原料費は全くゼロで商品を生み、それを売って儲けることができるのだ。また、男にとっては、やはり酒は楽しみの1つで、酒代が払えない場合、その代償に或る田の収穫米全てを奪われたりもしたそうである。こういった状況であるから、やはり、農家の生活は厳しかったと言わざるをえない。ちなみに、あくまでも米が主食であったのだが、水害があって不作だった年などは、他の雑穀も混ぜざるをえない。食事における米と麦の劉合は7:3で、その他粟もちを食うこともあったそうだ。現在では、故意に麦を混ぜて食べたりするが、古老達は麦について一言、「まずい」と。米の保存については、甕の中に入れたり、俵でまとめて保存したり、少し後の世になるとブリキの戸棚で保存したりしていたそうだ。農家は、基本的に自分達が食べる米は自分達で作っているのであるが、現金収入も必要であった。現代では、農協という公的機関が責任を持って買い取ってくれるのだが、当時は、米商人に米を鑑定してもらい、そのまま買い取ってもらっていたのだそうだ。その他、出稼ぎによる現金収入はなかったのかどうかを聞いたところ、出稼ぎはなかったとのこと。まず、働き先がなかったそうで、米売却以外の現金収入は、女性が地主の家などに奉公したりしていた場合にのみ得られるものであったようだ。

また、肥料についても色々な形態があった。入り会い山から取ってきた雑草を焼いて、それを田に踏み込んだり(雑草の主なものはかや)、金肥として油粕を買って使ったりしていたのだそうだ。

その他、食生活について、柿田代は海から遠いけれども、魚や塩はどうやって手に入れていたか聞いたところ、行商人から手に入れていたそうだ。大八車という馬車で行商に来ていた者がいて、塩や魚(ほぼ鰯のみ)を売っていたとのこと。

 

まつり

まつりとしては、11月半ば〜12月くらいに行われる「お日待」と、現在も行われている「開田祭」を聞いた。開田祭は現在、行われてはいるが、若者は誰も参加したがらない。

 

最後に

古老達の不満は、現在の日本全体へ向けられている。それは、農業を保護する気があるのかどうかも疑わしい政府の態度や、自分達とは違った教育を受け、違った考え方をする若者へ向けられているのだろう。

政府への不満は、やはり、戦後、武内は供出米を100%出していたということで、それに対しての仕打ちがこれかというような気持ちが大きいようだ。これについては前述した。

若者への不満は、一番根本的な部分では、農業を継こうとしないということであろう。「農業よりも町に出て就職した方がいい生活を送れるなどと抜かしやがる」というような言葉を数回耳にした。また、大日本帝国の教育で育った古老達には、現在の教育で育った若者の考え方は甘いとうつるらしい。

とにかく、古老達には、戦争をくぐり抜け、復興を土台から支えてきたという意識があるし、誇りともなっている。酒の席で戦時中の話で盛り上がる古老達を見てそう思ったし、また、彼らの大変な憤りも感じられた。私達が退席する時にも言われた言葉は、「日本ば変えないかんぜ。期待しとうけんのう」というものだった。今回の調査を通じて、農家の諸事情・昔の暮らしなど多くのことを学んだが、現在、専業では成り立たなくなってきた農業というものの重要さをもう一度考えてみるべきだと思った。