【武雄市武内町福和】 武雄市武内町福和地区現地調査レポート:調査日1999年7月11日 1AG98112 高嶋敦史 1EC98101 塚原康嗣 話をうかがった方 宮原昇さん 65歳
村の現状 世帯数は昔30戸ほどあったが、現在は25戸。ほとんどが兼業農家であり、非農家は5戸ほどである。
村の水利 福和 用水源=長谷(ながたに)川 水利権の問題はなく、水は自由に使える。 湧水が豊富で、1994年の大干ばつの影響もうけなかった。
村の耕地 福和地区は昔、このあたりで最大の温州みかんの産地であった。しかし鹿島に大規模なみかん園ができ、競争に敗れた。福和のみかんは酸味が強く、保存に適していたが、それゆえに甘さが少なかったことが敗因のひとつとなったことは否めない。みかんの木は多数残存しているが、一部では木を切って、夏にはスイカ、秋には大根やイモを生産している。水田は舟石池に流入する小川と、長谷川の川沿いにそれぞれ存在したが、舟石池側の水田は日照確保のために樹木伐採の手聞がかかるため消滅した。肥料は昔は商いで行く武雄の旅館と契約してもらったこやしを用いていたが、今は完全に化学肥料に移行している。農業用機械は昭和30年ごろから導入されはじめた。
村の発達 電気は戦時中にはすでにひかれていた。プロパンガスが導入されるようになったのは昭和35年頃からで、それ以前は近くの森林から切り出された薪を用いていた。
村の動物 農業用機械が導入されはじめた昭和30年頃までは一家に1頭以上は牛がいた。牛は農耕、運搬の両方に使われた。道路が整備された昭和38年から40年をすぎると牛はほとんど飼われなくなった。
村の道 昔は傾斜が45度もあるような道を、牛を連れて武雄まで農作物の商いに行っていた。その道を通って佐世保から鯨の行商がきていたり、こちらから伊万里まで塩たきに行っていたりした。そのなかには地区の境界線を示す里道という道も存在した。
村の祭り 1月7日 鬼火たき 1月14日 もぐらうち 1月18日 お大師さん(観音まつり) *女性の祭り 7月24日 天神さん(祇園まつり) 8月20日 お大師さん 9月23日 穂実祭 12月17、18日 村祭り
福和 しこ名一覧 ゼンビラ、ウウバ(大原)、ウシンサカ(牛ン坂)、コバンハラ(古湯原)、ヤキバシ(焼橋)、アカツッタ(赤ッ田)、オオクボ(大久保)、ハチノクボ、コウジャバタケ、フカタニ(深谷)、ヨコギレ(横切)、ホンダニ(本谷)、ヒガシンホウ(東ン方)、カラツツミ 水田のあたりをさすのが、ゼンビラ、アカツッタ、ホンダニであるが、それが水田そのものをさすのかは不明。
・感想 今回訪れた福和地区は、事前に地図で調べたときには、JR永尾駅から1km強なので歩いても楽に行けるとおもっていたのだが、実際は車1台がやっと通れるような山道を30分ほど歩いて、ようやく今回の訪問先である宮原昇さんのお宅に着いた。福和地区の印象は山に囲まれた静かな農村地帯という感じで、川のせせらぎもきこえてくる心の落ち着く場所だった。 宮原さんはこの地区の昔のすがたをほんとうによく知っておられて、ひとつの質問からそれに関するさまざまなことを教えてくれた。たとえば村の耕地について質問したときは福和のみかんについて詳しく説明してくれた。当時このあたりはみかんといえば福和の名前がまず挙がるような状態だったようで、年末などは正月用に大量に売れていたらしい。しかし調査結果報告書のほうにまとめたように、後に鹿島にできた大規模みかん園でつくられたものや、唐津近辺でつくられる潮風によって甘さを増したものには太刀打ちできなくなったらしい。宮原さんはすこし残念そうだった。 あとこの地区について感じたことがふたつある。ひとつは、水に恵まれているということである。複数の場所から水が湧き出し、その水は絶対にかれないという。かつて福和の人びとは、風呂から洗濯からさらには冷蔵庫がわりの食品の冷却まで、生活の多くをこの湧水にゆだねていたという。そこには昔のむらの自然と共存する姿がうかがえる。そしてもうひとつは人びとのつながりの強さである。宮原さんは地区の人の生活をかなり把握していた。そしてこの地区は全員が仲がいいんだとおしえてくれた。すばらしいことだと思った。 現在都市部に住む人は、この地域に学ぶことが多いと思う。私たちにとってもほんとうにいい経験だった。そして福和の人びとには、その生活のよい点を後世に伝えていってほしい。 |