【武雄市武内町平古場地区】
歴史の認識現地調査レポート
歩き、み、ふれる歴史学
木曜4限 服部教官
調査区域:佐賀県武雄市武内町平古場
1PS99035 重見亮太
1PS99042 田之頭淳一
古川敏則 昭和24年生
奥山薫 大正12年生
山口清孝 昭和6年生
1日の行動記録
12月26日(日)天気 晴れ
私たちはバスで佐賀県武雄市武内町平古場に向かった。バスを降り立った私たちは、話を聞くために自治公民館長のいる黒牟田焼のかまもとへと歩いた。かまもとへ到着するとその日は老人会で門松を作っていた。その後老人会の集まりが公民館であるということなので、そこへお邪魔することにした。
まず、地図を老人たちに見せてしこ名をたずねてみた。「しこ名」というのでは意味が通じなくて、老人たちはしこ名のことを「あざな」と言っていた。公民館長は50代の人であったが、50代の人ではしこ名のことは知らなかったようだ。最初老人たちに「しこ名」についてたずねると、平古場というところはやきものが有名ならしく、「かまもとヘ行くとおもしろいぞ」などと言って、私たちがかまもとについて調べているのだと思っていたようであった。老人たちの話によると平古場の内田というところは、豊臣秀吉が朝鮮出兵で朝鮮からつれてきた李参平(りさんぺい)という陶磁器作りの職人がひらいたかまもとがあり、有田焼の発祥の地であるそうだ。
しこ名についてもっとたくさん聞こうと思ったのだが、女性の方々が机の上に料理を並べ始め、老人たちが一緒に食べようというのでごいっしょさせていただくことにした。食事は「おでん」と「さといものにっころがし」と「かけあい」であった。「かけあい」というのはさばと大根のあえもののことでなかなかの珍味であった。また地酒もでてきて老人たちがぜひとうながすのでいただくことにした。お酒は2、3杯であったので自分たちは大丈夫であったが、老人たちは顔を赤くして笑いながら話していたので、質問に答えられるのだろうか、いささか心配であった。
このまま、飲んで食べているわけにもいかないので本題に入ることにした。この地域での昔の暮らしや、農業、まつりなどを聞いたが、老人がお互いに昔をなつかしみながら、それに答えてくれた。こういうことは一人の老人に聞くとわからないことも多いかもしれないが、大勢いるとだいたい知っているひとがいるものなのだなと感じた。
次に「しこ名」についてたすねると、先ほどの質問ほどスムーズにでてこなかったが、 「ここはOOと呼んでいた」とだんだんと思い出していた。
最後に村の今後についてたずねたところ、主に米作りについての国の政策への不満、これからの日本農業の不安を熱弁されていた。
こちらの質間がおわるとまだ時間があったので、いろいろと戦時中の話など昔の話を聞いた。
時間がきたので丁重にお礼を言ってその場をあとにした。
しこ名
コンゾボウ
アンノマエ
カミヤシキ
ゼンヤシキ
ハシンタニ
トノコバ
ヒエコバ
ヤマサキ
ショウコダニ
クロムタ
イノコバ
コナコウ(古那甲)
カンバヤシ
スゲタ
シンヤマ
ツツミノウエ
キシノウエ
ズウメキ
ヨシンタニ
ジュソウ(十宗)
タイタニ
マルオ
ハイセンジ
フイヤシキ
クルマダニ
コトウゲ
ハンジョウ
センゴ
カワゴダニ
Q.村でとくに米がよくとれるところ、逆にあまりとれない田があったか?
平古場はよくとれた。内田、黒牟田はあまりとれなかった。今でもあまりとれない。理由は地力、日照関係によるものだそうだ。戦前は牛糞や石灰を肥料にしていた。
Q.電気はいつきたか?プロパンガスはいつきたか?それらが来る前はどんな生活だったか?
電気は大正時代。プロパンガスは昭和30年代前半。それ以前はまきの生活。まきは自分の山からとってきた。
Q.米は農協に出す前の時代は、だれに売ったりしていたか?
小作人が地主に小作料をはらい、地主は米商人に売っていた。めったにないが、青田売りということもあった。家族で食べる米は作米(さくみゃー)とよんでいた。それはかめにいれて保存した。
Q.牛や馬いたか?
牛がだいたいの家に1頭いて、10件に1件くらいに馬がいた。雌牛が多かった。ばくろうという馬を売買するひとがいた。また馬入れ川というのもあった。
Q.昔の隣の村にいく道はどれか?
今と同じ。
Q.村の神様や祭りにはどんなものがあるか?
・弁財天 年2回 春、夏
(田んぼの神様、豊作を願う)
・田祈とう 5月
(豊作を願う)
・彼岸ごもり 秋
(お礼)
・願成就 秋
(お礼)
・御日待ち 11月15日
(収穫を太陽にお礼する)
日の出前からもちをつく。包丁ではなく糸で切る。
以上のまつりは全員参加
・豊作祭り 12月13日
平古場の中でも細かい集落にわけていわう
Q.テレビも映画もなかった時代、とくに夜、若者は何をしていたのか?
男は青年倶楽部というところに集まっていた。おもに警護の役目をはたしていた。
調査を終わっての感想
最初はなにをするのかよくわからなかったが、調査の日が近づくにつれて、だんだん準備をしなければいけないなとあせりはじめた。けっこう楽な調査なのかと思っていたが、プリントを読むと前もっての準備もありかなり大変であった。
それでもなんとか必要な地図もそろえ、調査当日となった。調査の日は多少寒かったが天気もよく調査にはうってつけの日であった。前もって知らせておいたとはいえ、見ず知らずの人たちに対していろいろと質問をするわけであるから少なからず不安であった。
しかし、いざ現地の人たちのところへ行くと非常に親切でほっとしたのをおぼえている。現地の人たちには調査に協力していただいただけでなく、昼ごはんまでごちそうになり非常に感激した。
調査も無事終えあとはまとめるだけと思い軽くふんでいたが、それはまちがいであった。いざやってみるとかなり大変で、とくにパソコンでのレポートは時間がかかり大変であった。
このようにいろいろ大変な調査ではあったが、田舎の人々のやさしさにもふれ、都会での生活では忘れていた人情味を思い出せただけでも価値のある体験であったと思う。