【武雄市武内町赤穂山地区】
歩き、見、触れる歴史学 現地調査レポート
1EC98239長谷川 譲
1EC98237萩原 宗人
調査地区:佐賀県武雄市武内町赤穂山
山口 蓮男さん 74歳 大正15年生まれ
ガンパスダー
ジャードンヒラ(在土平)
ツガネ(津金)
ワチガエー
カリャマシ(背負増)
ゴジョウランバ
シバトリ(芝取)
ハッツギ
ヒョウタンマツ
タデヤマ(田手山)
ウメノキダニ
スサキ(素先)
カクレジョウ(隠城)
シモハ(下原)
タデハ
ナカワチ
フナイシ(舟石)
カタヒラ(片平)
イッポンマツ(一本松)
ホンダニ(本谷)
カリャマシ:
昔は御上萱場で鍋島の将軍様がイノシシ狩りをしていた。その帰りに将軍の部下が、将軍の娘達を背負っていた。そのときに駄賃がもらえることから、この名がついた。
カクレジョウ:
鍋島の将軍が敵の侵入を防ぐためにこの付近に隠れ家の様なものを造ったことからきた。
ゴジョウランバ:
殿様がイノシシ狩りを見物していた場所。
ヒョウタンマツ:
ひょうたんの形をした大きな松の木があったことからきている。
ウメノキダニ:
梅の木が、はえていた谷。
水路や田畑は、区画整理によって当時のかたちを残していない。水路には、主に所有者の名前がついていたようだ。
4、鍋倉峠の由来
当時、武雄市近辺は鍋島氏の領地であった。そのために周りを山にかこまれた田園地帯であった武内町には鍋島氏の米倉が置かれたことから、鍋倉という名前がつけられた。また、武雄市から武内地区にくるためには鍋倉峠をこえてくる方法と、赤穂山トンネルを抜ける方法があったが、赤穂山トンネルには400年前まで円正院がおかれ一般人は通行できなかった。当時のトンネルは防御のために馬から降りないと通れない程狭く小さく作られていたらしい。
武内地区には、多くの水田を抱えることから、数多くのため池がある。そのことから今までにこれといって水不足に悩まされたことはない。普段の生活用水には村を流れる赤穂山川の水が利用された。現在は、水道もある程度整備されたが、まだすべての地区をカバーしているわけではなく、いまでも井戸水が利用されている。
当時はまだ今とちがって、化学肥料がなかったため、主に人糞などを肥料としてもちいていた。それらの肥やしは武雄市まで買いにいっていたが、高かったため、山野の草木なども肥料として用いられた。また昭和にはいると婦人会で藁工品を作りそれらを政府に肥料と交換してもらっていた。
当時村には塩がなかったために村人が伊万里の黒川町まで行って塩焚きをしていた。だいたい1年に1回は行っており、1回の塩焚きで1、2週間はかかったそうだ。
昔、村の若者達は今の公民館がある場所による集まり、集団で寝泊まりしていた。そこでは各自本を読んだり、話をしたりしていた。またこの村の青年達が自警団としての役割も果たしていた。
終戦直後位までは、さまざまな祭りが残っていた。しかし今では、各自が会社にいったりして、個人の時間を持つようになってきたので、祭りも減ってきたようだ。しかし、今でも年に数回は豊作祭りと呼ばれるような祭りが行われている。この時には、午前中草刈りをして、午後から飲み会というのが一般的らしい。
10、供米日本一武内町!!
戦後の日本では外国から引き揚げてきた日本人が多数いたために、深刻な食料不足に悩まされていた。そのために政府は各地区に供米政策を促した。しかし、それぞれの地区も食糧難であったために、なかなか食料を提供することができなかった。そういったなかで、各地区の先陣を切って供米100%を達成したのが武内町であった。武内町が決して食料に恵まれていて余裕があった訳ではなく、自分達も苦しいなか、真に日本のことを考える村民性があったからこそ、達成された偉業であると思う。
このことは、日本全国に広まり、新聞にも大きく取り上げられた。そして当時の食料管理局庁長官であった片柳氏や、内閣総理大臣の片山 哲などから直接感謝の言葉がよせられるほどの偉業であった。この武内町から広まった供米政策が今の日本を築きあげたといっても過言ではないと思う。
11、感想
今回の調査でそれぞれの地区に、いろいろな由来があることが分かり、すごくためになった。今回は佐賀県武雄市武内町の調査であったが、機会があれば、自分の地元についても、調べることができればよいなと思う。また、山口さんに聞かせてもらった、供米日本一の話は、今まで知らなかったし、こういう機会がなければ知ることもなかったと思うのですごく貴重な体験ができたと思う。
最後に小雨がふるなか、丁寧に案内してくださった、山口さんと宮原さんに感謝します。どうもありがとうございました。