【武雄市武内町梅ノ原地区】

歩き、み、ふれる歴史学 現地調査レポート

◎調査担当者 S1−28 1PS99018 尾崎省吾

       S1−28 1PS99009 伊藤美代

 

佐賀県武内町梅ノ原に関する調査報告書

(木曜四限 服部教官>

調査日 H.11.12.26

◎調査協力者 森 謙治さん

S.3生まれ

       武雄市議会議員

       武雄市監査委員

 

武内町梅ノ原に関する調査結果

<しこ名について>

ウメンバア(梅ノ原)

ゲンダ(源田)

ヤナバア(柳原)

シモハタノ(下畑野)

ヤツエ(八枝)

タバル(田原)

ハッタンダ(八反田)

ユイノバア(柚ノ原)

 

<梅ノ原の成立>

武内町は鍋島藩38万石、武雄9万石の中で巴と呼ばれる地域だった。武内は大きく梅野と真手野に分かれていて、真手野の下は東真手野、西真手野、柚ノ木、多々良という大字に分類される。そして、東真手野はさらに梅ノ原、鳥越、馬場、上古賀、赤穂、平木場という、小字に分類される

現在、梅ノ原は東真手野の中心となっているが、戦前までは鳥越の一部であり、人々は鳥越を中心に生活していた。しかし戦後、学校や郵便局、商店などが梅ノ原に建設されると、梅ノ原の人口は増加してきた。そこで、梅ノ原は鳥越から離れて一つの小字として成立したのである。

 

<田んぼの変遷>

戦前、田んぼは何人かの大地主によって占有されていた。しかしながら、戦後S.22年の農地開放(片山内閣)によって、所有できる田んぼは八反歩までに制限され、小作人たちに土地が分け与えられた。これによって、それまで収入のほとんどを大地主に取り上げられていた小作人たちの生活水準はわずかではあるが上昇した。

S.48年には一区画を三反にする圃場整備(三反区画)がすすめられ、それまで入り組んだ形をしていた田んぼを今のような形に整備し作業能率を上げようとした。しかし、若者の減少にともなう農業人口の減少のため、現在では一丁歩区画を計画中である。少ない労力で能率を上げるため大型機械を導入するのである。このように、過疎化とともに田んぼ(農業)の形態も移り変わっているのだ。

 

<家畜>

田畑の耕作や、荷物の運搬用に牛や馬を飼っていた。生活にゆとりのある地主たちはメスを飼い、産まれた子牛や子馬を売ったりしていた。しかし、ゆとりのない小作人たちはオスの子牛や子馬を飼い三年ぐらいすると売りに出してそのお金でまたオスの子を買うということを繰り返した。

当時、旧制中学の授業料が月七円(その他諸経費があり、実質八円)であり、牛一頭は百円であった。このことから、学校に行くことができた人はほとんどいなかったこともうかがわれる。

また、ウメンバア(梅ノ原)は家畜を捨てる土地であったという。

 

<米の収穫量>

武内町は松浦川を中心にして田んぼが広がっている。その中でも、川下の梅野あたりがよくとれたらしい。今回調査した梅ノ原は良くも悪くもなく平均的にとれていた。しかしながら、地主が収穫のほとんどを取り上げてしまうため小作人には実収益はまったくなかった。そのため、貧富の差は広がる一方であった。

 

<肥料の変遷>

昔は馬糞や牛糞、人糞を利用していた。人糞は有田(焼き物で有名な)からとりよせていたが、ただでもらっていたわけではなく、いくらかの米と交換してもらっていたのだ。今では、細菌などの点から、人糞がつかわれなくなり、かわりに、化学肥料が台頭してきた。また、わらを乾燥させて再び田んぼに戻すという、わらの還元も使われている。

 

<旱魃>

H.6年に大旱魃が起こった。いつもは、流れを絶やすことのない松浦川もこの時ばかりは水が一滴もなくなってしまった。この理由は単に雨が降らなかったからというだけではない。H.6年以前にも旱魃はおこっていた。しかし、機械やポンプがなかった時代、水は手で汲んでいたので川の水全てを汲み取ることなどできなかった。つまり、皮肉にも機械の利用が深刻な水不足を生んだのだ。幸いなことに、田んぼの水はいつも必要というわけではなく、穂が出るまで水があればよいので、梅ノ原一帯の収穫量への影響はあまりなかった。だが、他の地域では、まったく米が取れなかったところもあったらしい。

 

<祭り>

祭りは農業に関連しておこなわれる。

・夏祭り(田植えの後などの慰労をかねた祭り)

祇園祭

田祈祷

・秋祭り(豊作を感謝する祭り)

くんち

彼岸ごもり

地元には他に娯楽的なものが少ないのでこのような祭りは人々の楽しみなのだ。

 

<町の発達>

ガス―いまだにひかれていない。ガス会社がガスボンベを定期的に交換に来る。

上水道―10年弱。

電気―大正13年前後から。それまではランプを利用。

 

<若者の遊び>

夜学校と呼ばれる若者の集まりがあり、それが青年クラブというものに発展した。そこは、歌や社会教養などを学ぶ一種の塾のようなものであった。また、男たちの中には娯楽場に女遊びをしに行くものもいた。だが、現在はその男たち自体の数が減少してしまい、このような集まりはなくなってしまった。

 

<戦争>

S2〜8年の間大不況が続き、その後第二次世界大戦に突入した。満州は日本の生命線であり、40円の収入があった。当時、先生の収入が18円だったから大体二倍の収入があったようだ。戦争が終わったあとは大変な食糧不足がおこった。そのとき供米日本一だったのが武内町であった。

 

<これから町は

「もう日本の農村はつぶれるくさ。」

現在、武内町には約700戸あるのだが、小学校の入学者数は16人であった。少子化傾向の上に、過疎化とお嫁不足が重なり、子どもが産まれないのだ。田舎の主婦は経済的にゆとりがないので、女性がゆとりを求めるために職場進出したのが原因であろう。

教育現揚では職員の採用もほとんどなくなるなど、子どもの数の減少はさまざまな問題を呼んでいる。今年、佐賀大学の教育学部では新卒者の採用がなかった。

「農業は収入がともなわん」

米を出荷するとき、100出荷して(多く出荷しているのだが)150万円ぐらいにしかならないそうだ。これは役所勤めの収入の何分の一であろうか。安い上に、減反もあり農家は苦しい一方である。

「大変なんですよ」

日本経済が崩壊して食糧難が起こったときでも、農村には食糧がある。しかしそれも一時凌ぎにしかならず、日本国民に足るだけの食糧を用意することはできないのである。

 

<今の町の様子>

その後、私たちは梅ノ原一帯を散策し、町の様子を歩き、み、ふれることにした。

車の交通量は大変少なく、鳥や動物の声がよく聞こえてくる。町の中心から少し離れると、そこには、店もなくただ農家と思われるような家々が点在している。マンションやアパートではないせいか、犬や猫を飼っている家が多く、中にはニワトリを飼っている家庭もある。

武内ふれあい公園に向かう途中に小学校がある。通りを歩いていた小学生らしき子どもたちが私たちに向かってこんにちはと声をかけてくれた。都市ではなかなか見られないこの光景に、少し心の温もりを感じた。公園には滑り台やブランコなどの遊具はなく、ただ野原にベンチがいくつか置かれているだけであった。ベンチに座って遅い昼食を取っていると先ほどの子どもたちが学校の周りを歩いていた。ただぶらぶらと、時には走りながら何回も歩き回っていた。ゲームセンターなどの娯楽施設のない環境で、子どもたちは自分たちだけの楽しみ方を見出しているのであろう。

町には備え付けのごみ箱というものが存在しない。自分が出したごみは全て持ち帰らなければならないのだ。気のせいか、投げ捨てられているごみや空き缶をまったく見なかった。ごみ箱がいたるところに設置され、ごみが散乱している都市では考えられないことだ。今の私たちにとってコンビニなどのない生活は大変不便であろう。しかしながら、その不便さの中にも、私たちが見習わなければならない精神が潜んでいる、ということに今回気づかされた。