【武雄市西川登町弓野地区】

歩き、み、ふれる歴史学レポート

 

1LA99017 池田真理

1LA99047 大久保佳代

 

 私たちは武雄市弓野に調査に行った。弓野は武雄市の他の部落と違い、窯業で栄えた場所である。具体的には弓野焼や弓野人形といった焼物が古くから作られており、現在でも弓野人形は全国的に有名である。弓野では農業が盛んではなかったため、昔の人々は、田よりも窯に親しみを持っていた。従って、今回の調査では水田、畑、山林などのしこ名はほとんど収集することはできなかったが、そのかわりに弓野の昔の窯のある暮らしや、そこに暮らした人々の生活について話を聞かせてもらい、また、現在の窯の跡地の様子を見て歩くなど、貴重な体験をすることができた。

 私たちはまず手紙を出した坂口さんの御紹介で、学校の先生をしておられた山下さんという83歳のおじいさんの家を訪ねた。山下さんは大変優しくユニークな方で、弓野焼のことや、弓野で過ごした子供時代について懐かしそうに話して下さった。

 弓野で焼き物が焼かれ始めたのはかなり歴史が古いが、茶碗などの食器や白地が焼かれるようになったのは明治に入ってからのことである。私たちは山下さんのお宅にあった約400年前の焼き物を見せていただいた。(写真1)※写真省略(入力者)

写真ではよく分かりにくいが、表面に「弓野山」とかいてあった。私たちは花瓶かなにかだと思っていたが尋ねると酒のとっくりであるとわかった。さらに分厚い本を広げて、1841年ごろ作られた「松絵の水瓶」の写真を見せていただいた。これは大変有名なものであるらしい。弓野で大量に作られていたものは、弁当箱と朝鮮どんぶりだったと山下さんはおっしゃった。弁当箱は鉄道のマークがついた3段式のもので、1段目にごはん、2段目におかず、そしてふたがついているらしいが、「もう今はさすがに持っていませんよ。」と笑って山下さんはおっしゃった。朝鮮どんぶりは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の後に作られるようになったそうだ。

 弓野で最も有名なものはやはり弓野人形であり、現在でも作られている。この弓野人形についてはあとで詳しく述べるが、山下さんのお話によると、弓野人形をあるTV番組で鑑定してもらったら、10万円の値がついたそうである。山下さんのお宅にあったものを見せていただいたが、どれも素朴なかわいらしさがあり、中でもグリコ人形は特別きにいった。(写真2)※写真省略(入力者)

山下さんが子どものころのことを私たちは聞くことにした。すると山下さんはとてもいきいきとたくさんのことを話してくださった。山下さんが子供の頃家の近くはいくつもの窯があったそうだ。(地図参照)そのため窯は子供達の遊び場でもあり、寒くなると窯の近くで暖まったり、煙で焼きいもを作って遊んでいたらしい。この土地ならではの遊び方だなあと、とてもうらやましく思った。また、子供達は大きなむくの木でもよく遊んでいた。実際に見に行くと想像していた以上に大きく、どっしりとそびえ立っていた。(写真3)※写真省略(入力者)

この山下さんの思い出のむくの木には事件も多かったらしい。昔木から落ちた子供がいたため登るのを禁止されていたが、木の実を取って食べようとみんな登るのをやめなかったそうだ。しかしある時、山下さんは木から飛び降りた時、転んで窯のふちでおでこを切ってしまい、それ以来むくの木に登らなくなったそうだ。「ガキ大将やった。」と自分のことを話す山下さんがとても印象的だった。

 弓野は先にも述べたように農業中心の村ではなかったため、牛はほとんどおらず、馬が運搬用に飼われているくらいであった。坂口さんの家の裏の細い道は当時馬車が日本一多く通る道であったという話にはとても驚いた。馬車はわらや薪、土を運び、20cmほどのわだちの跡ができてしまっていたので山下さんたちは川から砂利を運んできてその溝を埋め、大変ほめられ表彰されたそうである。また毎年7月14日にはぎおん祭りがあり、馬車に飾りをしたり劇やおどりが行われている。10月21日には備日(くんち)という祭りがあり、その細い道がたくさんの出店で埋め尽くされるほどにぎわったらしい。しかしこれらはあまり長く続かず、最近になって復活させようという動きが出始め、皆で劇をしたりして盛りあげているそうである。

 弓野に電気がきたのは、山下さんが5歳くらいだった大正10年頃だったらしい。その前はランプを使っており「ほや」というランプのかさをよく掃除させたれたそうだ。プロパンガスが来たのは、もっと後での今から10年ほど前で、水道が来たのはつい最近の平成7年くらいだと教えられた。水道が来る前はだいたい各家に1つずつ井戸を掘り、夏の水不足の時には井戸をもう1つふやしたり、貯めておいて使ったり隣の村から水を運んだりと苦労したのだと坂口さんの奥さんからお聞きした。また、印象的だったのは、弓野には本当は鉄道が通るはずだったという話しである。もう75年以上も前のことであるが、有力者が「みそのくさ」と言って反対したために、別のところに作られることになったそうだ。「みそのくさ」というのは「味噌がくさる」という意味らしいがもし本当に弓野に鉄道が通っていたのなら、現在の弓野はどんな様子だったのだろうと思う。

 次に弓野人形についてだが、弓野人形は明治15年に作られた。博多人形師藤原清重に弟子入りしていた原田亀次郎は、弟子入りして5年ほどすると、博多人形の作られた美にあきたらなさを覚え、九州の各地を修行していた。亀次郎は若者のロマン探求の旅として、長崎を妻と共に目指していた。その途中嬉野町の吉田山にやってきた。ここで彼らが泊まっていた茶屋の主人である松岡辰兵衛のすすめできすだというぎち(粘土)のでる田に行き、そこの黒灰色の粘土に触れた瞬間亀次郎の創作意欲が生まれ、弓野人形が誕生した。当初の作品は仏像や床置きが中心であったが、明治30年頃には、とてっぽっぽ(鳩笛)や貯金箱も作られた。そして、昭和になると馬乗り人形、鳥のり人形など動的なものも作られた。戦後3代目勇三郎は行商人のすすめで、えびす大黒の面に力を入れ始めた。実際に見学させていただくと、いろいろな人形がありとても驚いた。

 この研修で、今まで見たことのなかった窯を見せていただきとても貴重な体験をさせていただいた。弓野人形もいただき、今までで最高の思い出となった。