【武雄市西川登町弓野地区】
歩き、み、ふれる歴史学 現地調査レポート
1LA99022 秋山 育美
1LA99005 市川 絵里
お世話になった方
原 守さん 大正15年生まれ
木下 俊昭さん 昭和20年生まれ
弓野は田畑がほとんど存在せず、住宅が立ち並ぶところであった。朝に弓野でバスから降ろしてもらうとすぐに、お世話になる方のところへ電話を入れ、午後から訪ねていくことを再度お知らせした。それから訪ねていく家の場所を確認した後、昼食をとろうかということになったのであるが、雨が降っていて地面が濡れているため、食べる場所が見つからない。いっそ御太師様(おじゃっさま)のほこらで食べようかとも考えたが、それは罰が当たるだろうと思い直し、結局私たちが行き着いたところは駐在所の車庫であった。ちなみに駐在さんはパトロールにいって留守にしていたようであった。私たちは近所の人に怪しいものだと思われて通報されやしないかと内心ビクビクしながらも無事に食事をとることができた。さて、食事を済ませたのはいいが、まだ訪問予定時間まであと一時間も残っている。そこで慎重派の私たちは、地図や質問の最終チェックを行うことにした。しかし前日までにすでに準備は万全に整っていたので、30分も時間を残してチェックは終了してしまった。駐在所の車庫にいることに対する後ろめたさもそろそろ限界に達していたので、ずいぶん早いと思ったが、訪問先を訪ねてみることにした。
訪問先の人はどのような人なのだろうかと不安な気持ちを抱いたまま、私たちはドアのチャイムを押した。「はーい」という元気な声とともにでてこられた方は、古老と呼ぶにはずいぶん早いと思われる方だった。その方(以後木下さん)はとてもいい方で、自分だけではよく分からないと思われたらしく、隣に住むご老人(以後原さん)も呼んでくださっていた。原さんも木下さん同様優しい方で、小字の資料をわざわざ持参してくださっていた。早速田の小字を尋ねたところ、残念ながら弓野では昔から農業は行われておらず、窯業が発展しているため、田の小字など存在しないということだった。
これではいけないと思い、「しゅうじ」を尋ねてみると、(弓野ではこれを古賀内と呼んでいるらしい。)ウチヤシキ(内屋敷)、ニシウラヤマ(西浦山)、ヒガシウラヤマ(東浦山)、タケノシタ(嶽ノ下)、トイガケ(戸井掛)という5つの古賀内が弓野にはあるらしい。また、弓野は窯業の部落だというので、その原材料となる陶土はどこからとれるのですかと尋ねたところ、天草の奥佐山というところだと答えてくださった。
先程も述べたとおり、弓野では農業は行われていない。そのため、村の水をため池や川から引いてくることはなく、ほとんどの家庭では井戸によって生活水を得ていた。ただし風呂水はたくさんいるので、川にくみにいっていたらしい。排水に関しては、現在でもトイレの水をのぞいて川に流しているという。
次に大干ばつについてであるが、弓野では井戸を持っている家庭が多いので、おおよそのことは井戸水でまかなえるそうである。しかし井戸を持っていない家庭は、嬉野、武雄まで水をくみにいっていた。井戸水でもまかなえないときは、これは最近になってのことであるが、給水車が嬉野や武雄から来ていたのだという。
現在とは大きく異なっているものとして、道路があげられる。昔の道を通って武雄からいろいろな品物が運ばれていたと考えられる。また、その道を通って、弓野の人々はよその部落に働きに行っていた。特に女性は女中として働きにいく人が多かった。窯を持っている人はそれで現金収入を得ていたが、そうでない人はやはりよその部落(特に波佐美町)の窯元まで働きに行っていた。その他、現金収入の手段として、大工や木工といった職業や左官という公的な仕事もあげられる。
弓野を歩き回って気がついたことであるが、この周辺には神社がとても多い。聞いてみると、弓野内には天神様、おじゃっさま(御大師様とかく。いわゆる弘法大師様。)、こんぴらさま(琴平良様。普通は金比羅様と書くのに珍しい。)、やまおじゃっさま(山御大師様)、観音様、お地蔵様といった神社があるらしい。そして、この天神様、御太師様のいる神社は部落の人が交代で掃除をし、そこで若者は劇を演じていた。昔の若者は劇を演じることも遊びの一つとしていた。ほかには、川へ泳ぎに行ったり、9月の彼岸には柿、また別の季節には栗、ユズ、大根、芋、なすびといったものを集団で計画的にとって食べたりしていた。さらに、公民館には劇団が公演をしにやってきたり、循環映画が上映されることもあり、それを楽しむこともあった。また、公民館に集まって、青年団活動を行うこともあった。
村の慣習的な行事として一番に思いつくのは、やはり祭りであろう。天満宮にある舞台では、若者が(主に酒飲み仲間で)田舎歌舞伎を演じていた。11/30頃には神社で、火をおこして火の神を呼び、にぎりめしを食べ、お酒を飲んでいたという。7/14の祇園祭や10/21のくんちには、弓野だけでなく、よその部落の人々もやってきた。そのときには、カマスを干した“塩もん”という食べ物や、炊事道具を持参してきていたらしい。また逆に、弓野の人がよその部落の祭りに出かけることもあった。例えば、正月前に破天神宮で催される火の神様の祭りである。おもしろいことに、弓野では窯業が発展していたので、特に火の神を大切にしているのである。そしてこれは今でも続けられていることであるが、お金を部落のみんなで積み立てて、1ヶ月に1回ほどの割合でお酒を飲んでいるのだという。これも行事の一つであると考えられる。
弓野に電気がつくようになったのは大正7年のことであり、プロパンガスが使われるようになったのは今から10年ほど前のことであるという。それまでは、近くの山にまきを取りに行き、それで火をおこしていた。この木の切り方にも決まり事があった。木の幹のある高さ以上からは切っても良いが、それ以下の高さで切ってしまうと、木が育たなくなるので切ってはいけなかったらしい。そしてその決まり事は、共有の林にのみ適用されるものであった。驚くことに、弓野の周辺に林はたくさんあるが、そのほとんどは私有地で国有地はほとんどないのだという。
木下さんの家の近くに、ぴょんぴょん橋という橋がある。これは、よその部落の人が、川の上に並べられた石をぴょんぴょんとわたって弓野にやってきていたことからそのように名付けられた。
農業に従事していない弓野の人々は、食料を現金で購入していた。米や石油や、とっくりに入った酒は、塩田まで買いに行っていたし、魚や塩はそのぎや塩田から売りに来ていた。ご飯における米と麦の割合は、5:5が一般的であり、主食としてヒエや粟、芋を食べることはほとんどなかった。また、牛や馬を個人で飼うことはしなかったが、共同で馬を2頭飼っており、昔から弓野で作られているという人形焼きや酒を馬車に積んでよその部落まで運んでいた。昔の弓野には旅館もあったらしい。
そしてこれは原さんがとても不思議がっていたことであるが、弓野で育った男女が結婚した例は今までないのだという。かといって、働きにでた職場内で結婚することもなかったというから実に不思議だ。
最後に原さんがいったことには、弓野は全体的に悪い方向に変わってしまったのだという。
私たちがお二人から聞いた話は以上である。質問が終わってからバスの時間までまだ1時間ほどあったので、私たちは木下さんに車で西川登町を案内していただくことになった。まず第一に案内してもらったところは、明治時代に建立されたが、今はもう取り壊されてしまったという小学校の跡地である。それからさらに山を登って、田舎歌舞伎が演じられたという天満宮についた。そこにあった石碑には明治三十一年と刻まれていた。さらに車で西川登町を回っていると、なんと私たちがここまで乗ってきたバスを発見した。本来乗るべき所は弓野であり、そこではなかったのだが、今までさんざんお世話になったお二人にこれ以上迷惑はかけられないと思い、そこでバスに乗ることにした。たった数時間とはいえ、とても親切にしていただいたので、お二人と別れるのは後ろ髪を引かれる思いでいっぱいだったが、何度もお礼を言ってお別れした。
実際に弓野にいくまでは、本当にお話を聞くことができるのか、またそれをきちんと理解し、まとめることができるのか不安だったが、やってみると意外にできるものだというのが今回の一番の感想である。木下さん、原さんお二人に親切にしていただいたので、今回の調査は成功したといえるだろう。今日は人の優しさに、もちろん弓野の歴史にもふれることのできた一日だった。結局、今回の調査において一番困ってしまったのは、昼食をとる場所がなかなか見つからなかったということである。