【武雄市東川登町宇土手地区】

歴史の認識 現地調査レポート

 

東川登町宇土手区現地調査レポート

 調査日時 平成12年1月9日雨

1PS99056 荻田 陽子

1PS99069 松原 智子

1PS99062 福原 直香

1PS99072 満江さやか

 

しこ名について(由来、いわれなど)

 

フロノモト(風呂の元)…昔、風呂がなかった時代に人々が水遊び、水浴びをしていた川がある。六角川上流。

普通は「フロンモト」と発音していた。

ミョウケン(妙見)…田の神様がいるといういわれがある。今は山が切り開かれて全て田になっている。

カワクボ(川久保)…久保(小字名)の中でも、特に川に沿った地域。

クボヤマ(久保山)…川久保と同様にして、特に墓地や山がある地域。

ミセコガ(店古賀)…ずっと昔(江戸くらい)から店があり、いつしか人々が「店」をつけて呼ぶようになった。

 

通称名について

 ギオンサン(祇園さん)…遺跡。古くからさるすべりの木があり、圃場整備の時もそれだけは残されていたが、去年枯れてしまった。

 メガネバシ(眼鏡橋)…長崎にあるものと同じような橋があったが、道路補装のため、今はない。

 オチウドノハカ(落人墓)…落武者の墓とされているが、墓らしい墓はなく、大きな榊の木があっただけ。今は何もない。

 

水利

小字 古田溜池    しこ名 ヨシノダニ

六角川の下流      シオミ

 

*同名の溜池にもそれぞれ“上”“下”の2つの溜池が存在する。

*昔と今では地名もしこ名もほとんどかわりがないが、圃場整備後に区切りが変わった。

*私道が県道になって広くなり、観光バスも通るようになった。

*昔は信号がなかったが、そっちの方が逆によかったとおっしゃっていた。

 

祭りについて

 宇土手区一帯の一大イベントとなっているのが毎年9月23日に行われる風願成就(カザガンジョウジュ)である。

 6月25〜31日の間の日曜日に行われる田祈祷(タキト)が、その年の豊作を祈る祈念祭であり、その感謝祭として男は荒踊(アラオドリ)、女は綾踊(アヤオドリ)を正一位神社に奉納する。

 (私たちは“奉納”ときけば物をお供えすることしか思い浮かばず、「何を奉納するんですか?」と聞いたら笑われた。)

 

子供(小5〜中3)は毎年、大人は一年おきに踊りに参加する。笛や歌を大人が子供たちに教えるが、その役目は代々継承されている。

 ちなみに、話を聞いた方は笛を教える役目の人らしく、うれしそうに笛を見せてくれた。

 荒踊は国の重要無形文化財に指定されており、市の要請で他の地域に踊りに行くことや、調べにくる人が遠くから来ることもある。

 しかし、何もいいことばかりではないらしい。昔はたくさんいた子供も今は減り、踊りが困難になってきた。また、何よりもお金の調達が大変らしい。「一番頭痛むっと」とおっしゃっていた。

 祭りの後は宴会があり、それが村中の人々の楽しみである。とにかく、この風願成就は昔から区民あげての大行事である。

 

●風日祭(8月31日夜、椿原区民のみ)

 二百十日の台風の害を最小にくいとどめることや、家内安全、豊作を祈祷した。昔は若者たち大勢が当番の家で酒盛りをして一晩すごし、それは若者の楽しみだった。今はもう行われていない。

 

●土用ごもい(7月24日、椿原)

 きゅうりなますを毘沙門様(田の神様)のお堂に供える。

 きゅうりを求めた後に死んだカワウソの民話が由来している。

 

●毘沙門さん灯篭かけ(8月2日)

 灯篭を灯し、美人豆を供える。美大豆とは、この武雄にだけ昔からある砂糖をまぶし固めた豆菓子の呼び名。

 

●お火たき

 6部落に毎年当番を回して6年に一度回ってくる。

 風日祭と同様に昔は青年団が夜を徹して行ったが、今はない。

 それどころか、青年団すらない。

 

○村の発達

 電気がきたのは大正14年。同じ時期にメタンガス(生ごみから発生させたもの)も発達した。

 

○村の生活に必要な土地

 山が周りに十分にあるのでまきをとっていた。10年前くらいまではまきが中心だった。今でも風呂にまきを使う人がいる。

 

○水利について

 5年前の大かんばつの時は、ダムや溜池のおかげで影響はなかった。

 昔からこの地方はかんばつを受けることはなかったが、逆に六角川があふれて洪水で浸水することが多かった。そのため、水をわけてもらったり、時間給水をしたり、犠牲田を作ったりする必要はなかった。従って雨乞いもなかった。

 武雄市が水道を整備したため、10年程前に水道をひかねばならなくなったので、ひいてはいるが、昔から井戸水を使っている。村の人は、水道水はカルキ臭いなどの理由のため嫌う人が多いので、話を聞いた方の家では水道水は自動車の洗浄のみに利用している。 日常生活においては全て井戸水を使用している。

 

○村の耕地

 肥料は、今は農協の化学肥料で、昔はわらや山からとってきたしばを埋め込んで使っていた。裏作は麦と大豆で、裏作による収入は全て個人に入る。

 

○米の保存

 かめに入れて保存していた。1つのかめが5俵分で2つくらい。

 今は農協による生産調整のため、米作りは毎年担当者が決まっている。米作りのみを専業にしている農家はない。担当者以外の農家の収入は減反奨励金として農協(政府)から給付される。

 米と並ぶ二大作物はお茶。

 

○村の動物

 豚、やぎ、牛を飼っていた。14〜15年前、やぎは乳を得るため、牛は機械のかわりと食用のために飼われていた。

 馬は荷馬車用のみで、まきや陶土を運んでいた。

 

○村の道

 ノウテは平野地にあるもので、この地方は山村地域なのでない。

 塩や魚は遠方から定期的に運ばれ市がたつので買いだめをしていた。

 魚は全て干物だった。

 

○昔の若者

 若者は昔はほとんど家にいて、家の仕事(農業など)をしていたが、今ではほとんど家を出て働きに行っている。

 20代の若者はほとんどいない。(小学一年生は今年24人)

 隣の部落との争いなどもあった。話を聞いた方は、若いころ、六角川の下流付近で西川登町の人たちと石を投げ合ったりしていたらしい。とてもなつかしそうに話してくださった。

 昔は見合い結婚が多かったが、今は就職先などで知り合った人との恋愛結婚が多い。

 今の若者は村を出ていく者も多いが、定年退職後、戻ってくる人もいる。

 

○村のこれから

 この村も圃場整備や道路整備がすすみ、私たちは発達していくのだろうと思いながら話を聞いていたが、この方の話では、どんどん荒れていくだろうということだった。若者がいなくなって、田畑が荒れてしまうかもしれない。

 

お話をしてくださった方

 御厨佐久馬さん 大正2年生まれ