【武雄市東川登町谷ノ浦地区】

歩き、み、ふれる歴史学レポート

 

○調査者 平木一幸

     平嶋 亮

 

○訪問地 武雄市東川登町谷ノ浦

原 勝政さん(昭和12年生まれ)

山田義美さん(大正11年生まれ)

 

○しこ名  ・ムキタンマエ(麦田前)   ・ミゾイチ

      ・ハイコト(張事)      ・ナガムネ(長宗)

      ・キョウデンタニ(京田谷)  ・ウンズウダニ(運通谷)

      ・テランカミ(寺上)     ・キシンシタ

      ・ゴエソウ          ・モトムラ(元村)←畑

      ・コモダ           ・カマンシリ(鎌尻)

 

○水路   ・ナカミゾ(中溝)→麦田前、鎌尻の北部

      ・谷ノ浦川→ゴエソウ、キシンシタ

      ・運通川→運通谷

      ・張事溜池→張事

      ・寺上の堤→寺上

      ・焼山川→ミソイチ、鎌尻の南部

 

○橋    ・虫川橋、イッドンガワ橋←焼山川

・キド←谷ノ浦川

 

○井堰   ・虫川の井堰

      ・キドの井堰

 

○谷    ・ウンズウダニ(運通谷)  ・ウランタニ(裏谷)

・キョウデンタニ(京田谷) ・テランカミ(寺上)←今はもう無い

 

○山    ・張事山

 

○干し切り場  特になし 畦道の草を切って食わせるくらい

 

○動物   ・昔はどこの家にも牛がいた。各家に牛が1頭ずつ馬は谷の浦で5、6頭くらい。オスは危ないのでメスが多かった。ばくろうはこの辺りにはいなかった。馬捨て場はあった。

 

【会話】

Q干し切り場はありましたか?

A今はここの部落でも牛は飼うてあるところは二軒しかないけんね。昔は家ごとに牛がおったけんね。草切り場って特別には設けてなかったたいね。田んぼの畦道の草を切って食わせるくらい。

Q牛や馬は各家に何頭くらいいたんですか?

A昔は各家に一頭ずつはおったけんね。うちは牛と馬と両方おったけんね。百姓の家には牛が一頭必ずおった。馬は谷ノ浦部落では5、6頭おった。

Qメスかオスかわかりますか?

A牛はほとんどメスが多かったんじゃないか。

Qそれはなんでですか?

Aやっぱりオスの方が危なかけん。オスは気の荒かけんさ。やけん農耕用にはメスが多かったんじゃなか。

Q“ばくろう”っていましたか?

Aここら辺にはおってなかった。牛買いの仲介人たいね。東川登町にはおらしたばってん。永野にはおらっさんかったね。

Q馬の洗い場はありましたか?

A特別には設けとらんかったね。川で洗いよったけん。戦前なんかは馬捨て場とかあって今も地名が残っとるもんね。

Q米は農協ができる前はどうされていたんですか?

Aほとんどね、自家アラカワさんところの水車はあれは米はしよんされんかったね。

Q米は売ったりしていたんですか?

Aだいたい主に農協やね。前は仲介人っておんさった。アキオんちがそうやった。

Q地主と小作人はあったんですか?

Aうん、それはあった。戦前まではずっとあった。戦後農地解放があってからはそれが無くなったばってんね。そう、地主ってたいしたもんやったとよ。

Q家族で食べる米は何と呼んでいましたか?

A今で言えば保有米のことやろ?さくみやあ(作米)て言うたりはんみゃあ(飯米)て言いよった。

Qどうやって保存しましたか?

Aそうねえ、俵のそのままとっとくこともあるしねえ。

Q次の年の種籾はどうしていましたか?

Aそれは自分の家でね、家は甕にとりよったもんね。ねずみ対策のためにね甕に入れて。

Q50年前の米と麦の割合は?

Aわたしは昭和13年に就職して、その時分なんかもねえ、職場に弁当持っていくとに自分のうちは麦ご飯やったけんね。弁当は別に白米で炊いてもらいよった。百姓はほとんど麦飯がおもやったけんね。

Q雑穀なんかは食べていましたか?粟とか?

Aそれはあんまり聞かんごた。私が知る限りじゃ聞かんごた。私の知ってる範囲だったら芋ご飯とかね。

Q燃料の薪とかはどうしていましたか?

Aほとんど山から。ほんな薪だけ。

Q山に共有地はあったんですか?

A共有地て、まあ原野なんかがあるだけでほとんどその他は個人の山やったけんね。入会い原野ってあったけどね。

Q山はみんな持っていたんですか?持っていない人はどうしたんですか?

Aほとんどね、持たん人は薪なんか切るやろ農閑期は百姓はほとんど山切りが仕事やったけんね。薪なんかにした後のしばは自分の山を持たん人なんかがもらいうけたりして一年の燃料の確保しよんさったけんね。だけん、ほらウランタニのなんか競争やったもんね。結局は、山のあんまり険しゅうなかごたる勝手のよか、入ったり、運んだりするとに勝手のよかごたところは競争が多してね。木の大きか所はね、これくらいに切ってからさ武雄の街に売りに行きよった。私がいちばん小さか時分は風呂もそこらの近くのもの3、4軒やったかな共同風呂やったもんね。そやけん、当番で風呂沸かしたり水汲んだりして、ゴエモン風呂たいね。

Qプロパンガスはいつ来たんですか?

A戦後も戦後で遅かよね。40年代ならんせんかね。いや、東京オリンピックが39年でその時はもうあったけん35、6そん頃じゃないかね。

Q電気はどうですか?

A私が小さか頃は各家に一灯だけやったもんね。ここらはそうねえ、電気は私が知る限りではあったけん大正じゃなかかね。

Q乾田とか湿田とかありますか?

A今は無かばってん昔はあった。湿田といえばウンズウダニの半分は湿田やった。湿田は裏作ができんわけたいね。米だけ、テランカミがあった頃はそこもそうやった。

Q裏作で何を作ったんですか?

A麦と菜種(小麦と裸麦)

Qよくとれる田んぼとかありますか?

Aそれは今でもある。よく取れるというのはムキタンマエであるでしょう。ここがよくとれる。

Q戦前の化学肥料が入る前は一反あたりどれくらい取れてたんですか?

Aそうねえ、よく取れるところで5、6俵。取れないところで2、3俵。

Q今はどれくらい取れるんですか?

A豊作のときで7から9俵。

Q戦前の化学肥料は何を使っていましたか?

A金肥はもう経済的になんせん、やったけん、原野で草を刈ってきて全部埋め込んでね。それを田んぼにかけてね。それと自分のところの牛や馬のたい肥ね。

Q干鰯とか使いましたか?

A今は鰯とか高級品になっとるばってん、元は各農家にほとんど養蚕があのしよらんとこはなかごと。蚕さんたいね。そえけん、桑の木の畑の中には全部鰯なんかを半分くさりかけたごた鰯ば買うてきたり、わけてもろたりしてね、畑ん中に入れて肥料代わりに。

Q塩はどこから買ってきましたか?

A塩はねここの部落ではヤマダヒロヒサ君あそこが昔から塩屋という名前でよびよったごと専売品やったけんね。そこが地主やったけんね。高利貸しまがいの金貸しもしよらしたけんね。

Q学校はどこを通っていきましたか?

A虫川橋渡って永野橋渡って国道通って4kmくらい。

Q祭りはありますか?

A祭りは今もある。全員参加。

Q昔の若者の生活は?

A我々の青年時代は働いてまあ楽しみといえば、4月の花見3日3晩泊まりこんでね。それと11月15日のおひまちちゅうてね、それも泊まりこんで15日の朝餅ついてついた餅を各戸に配ってまわりよったがの。それから、はねき神社と隆信寺の夏祭りがあったいね。この部落でする夏祭りというのが7月14日のはねき神社と7月19日があきばだいごんげんと8月17日のお寺の17夜さんと3つ。それと、竹切ってしよったろうが1月7日の。今は無かもん。そして炭火を各家に持っていって子どもクラブでぜんざいなんかしてそれを「鬼火だき」って言いよったもんね。今は子どもも少なかばってんそげん行事も無くなってしもうたね。「もぐら打ち」1月14日の晩にしよったもんね。

Q他の村との交流はありましたか?

A夏祭りが当番でね。7月14日のが4部落で当番でしよったったい。行き来は制限は無かよ。

Q夕ご飯の後に集まったりしましたか?

A青年なんかは各部落の今の公民館にいたねぇ。元は青年の寝泊まりする場所になったけんね。夕ご飯食べてからさ今は公民館の昔は青年クラブつて言いよったたい。そこにね寝泊まりしよった。毎日毎晩。

Q何歳くらいまでですか?

Aもう結婚するまでたい。青年団に入ってから学校卒業してから青年時代は自分の家で寝たこと無かったもん。そこに寝泊まりしよったけん。そえけん、新参の者は小つかいでね(笑)。干し柿盗んでこいて言われて盗みに行ってそれで鶏食べたかて言われて「はい」ってそれは。すいか取ってこいて先輩から言われてよその畑行ってすいかかっぱらってきてさ。昔は先輩後輩の規律はぴしっと守ってしとったもん。今はそれがなかもんね。

Q男女の知り合う機会はどこですか?

Aそれはやっぱりね。青年団入っとる以上はね、月に一回青年団の総会ってしよったさ。4部落合同で。その時に知り合う者は知り合うて。

Q女性の仕事は何でしたか?

A青年団でするていえばね一年間寝泊まりするけんその布団の洗濯とかしよった。普通の生活では炊事洗濯やろうな。

Q男は夜は仕事をしていたんですか?

A盆正月前なんかはもう「夕なべ」ちゅうてね。夜間作業ほとんどの家でしよったとよ。むしろ織ったりなんかしてさ。それから農作業なんかのね。わらでくくるやつね「むすで」て言いよるばってんね。むすで作りてもうほとんど私どんの小学校のあんどまでもう、「いくら作れ」て割り当てて親父からやられよったけんが。やけん、自分達が小さかときはね、もうここの永野の普通「ちゃば」ていうばってんね、そこには一晩中私ほんとに小さかときはまだ足踏みの脱穀機の入ってきたばかりやったけんね。そえけんがそのまえは千歯たいね。親父につれられて朝3時4時から足踏みの機械ばこう踏んでかせせなんやったとさ。ちょうちん持って行きよったやろう。そえけんもう早か人は2時からで3時からでんする。今度は遅くまでも12時まで田んぼにおるやろう。やけん一晩中ちょうど稲刈りでんなんでんのときは田んぼにはどげなっとちょうちんの火の見えんことはなかごとしよったちゃん。そえけんセキグチのばあちゃんどんが朝4時5時に起きて炊事の用意ばして田んぼさまっすぐ持ってきて田んぼでご飯食べて学校行きよったけんね。夜中に足踏みのかせばして、夜の明けてからつめたかおにぎりば食べるとうまかったばいのう。あの味今でも忘れんよ。

Qこのあたりの姿は昔と変わりましたか?

Aそこのあきば山のが元は永野富士て言うごとほんにきれいな山やったたいね。それがちょうどじょうたい寺の寺のとこから張事山めがけて鍋島が大砲の試射ばしよったちゃもんね。その山が採石で採ってしもうてから無くなってしもうたたいね。コンクリートで使う石。それで景観が全部変わってしまったもんね。

Q家や道路はどうですか?

A戦前の麦藁家なんかがもう無くなってしまったけんね。今でも2、3軒は残っとるばってん。道路ももちろん舗装されとるし車の通るごとなってから道幅も全然違うけんね。車社会なってから昔の里道は歩かんたいね。小さな道いっぱいあるとばってんさ里道があれてしもうて。

Qこれからどう変わっていきますか?

Aさあ、この部落はあまり変わらせんと思うばってんね(笑)。これ以上はちょっと変わらんと思う。ばってんね、よほどほら大きな工場なんかができればばってん。おそらく今のままではちょっと。

Q高速道路ができてからどうですか?うるさいとかはないですか?

Aたしかに、うるさかとはいくらかうるさか。便利になったとかは無かもんね。武雄北方まで行かな乗り入れられんし、こんどはむこう西のほうは嬉野インターまで行かな乗り入れられんしね。

Q水利ってありますか?

Aそりゃあ、ここら辺で水利権といやあ本流だけよ。あとは特別なかね。水利権てどうこう争ったこともなかねえ。昔はここは持ちつ持たれつで、よっぽど干ばつの年じゃなか限りね。確かに干ばつの年はありよった。「主流からお互い水ばひいとるやろう。おまえ達ここねて。ここから水とってなかろうがてこっから上ばとらんばじゃか。(川の水面側をさして)おまえ、ここから(川底をさして)とりよったて」

Q干ばつの時の対策はされてましたか?

Aもう南永野の行事としてあの「雨降れ、雨降れ」の祈願たいね。そっぐらいのもんじゃなかろか。

Q効果はありましたか?

Aさあ(笑)。どうやろか。あったかもわからんな(笑)。

Q他の作物に変えたことはありますか?

Aここら辺ではなかったな。

 

おわり

 

日本最初の砲声

天保6年茂義のころ武雄で製造したモルチール砲が浄泰寺の台場から張事山に向かって発射。少し南のほうの羽根木神社からは、ポンペン砲(野戦砲)の試射も行われた。日本最初の砲声だった。張事山から発掘された砲弾が今なお近隣の農家に保存されている。私達が伺った原さんのお宅にも砲弾があったそうだが今はどこにあるのかわからないそうだ。今でもまだ持っているお宅は近所にあるらしい。