【武雄市東川登町千手寺、大谷地区】

歩き、み、ふれる歴史学レポート

訪問した村の名前:佐賀県武雄市東川登町 千手寺(せんじょうじ)、大谷

訪問した方の紹介:野口 正治さん(大正13生まれ)

         この地区の区長さんを4期(8年)も務められた。

*村の範囲は別紙の地図を参照してください*

 

【しこ名一覧表】

村の名前

 

しこ名

(漢字)

@ 薬師前

薬師前のこと

ヤクサン

ヤクサンノマエ

薬さん

薬さんの前

A 皿谷

後谷溜池

サラヤイケ

皿谷池

B(井竜の南東)

ヒヤサカ

這坂

C

田ん中

カッキダ

株田

D 山ノ木

田ん中

ゴンゲンサンノ

タンナカ

権現さんの

田ん中

E 鶴島

田ん中

ミッタ

水田

 

1、いろいろな呼び名

 「しこ名って言っても、あんまりなかごたあねぇ」と言いながら答えて下さった。田ん

中については、だいたいその字で呼ぶそうだ。

@「薬師前(やくしのまえ)」という小字の地域があるが、そこには、「薬師堂」というお堂があるため、地元の人は「薬さん」だとか、「薬さんの前」といった呼び方をする。

A後谷溜池のことを、地元の人はふつう「皿谷池」と呼ぶ。

B井竜の南東にある丘は、昔、兵士が命からがらに這うようにして戻ってきたことから、  這う坂→ヒヤサカという名前が付いたそうだ。

C昔、谷を埋め、その埋めたところを田ん中にして耕作したときに、埋めた木が根っこを出していたため、「カキ(方言で切り株の「株」のこと)ダ」→「カッキダ」と呼ぶようになったそうだ。

D山ノ木のところには、昔「山ノ木権現さん」という人がいたため、このあたりは「(山

ノ木)権現さんの田ん中」と呼げれていた。

E近くの鶴島という地域には、年がら年中水がたまっている田ん中のことを「水田」と書いて「ミッタ」と呼ぶのだそうだ。

 

2、村の耕地

 圃場整備が行われる以前は、国道や村の里道(リアカーが通れるくらいの細い道)が、田ん中よりも2〜2.5メートルくらい高かったので、雨などが降ると、水は全部田ん中へ流れ落ちてしまうので、田ん中を乾燥させる必要のある裏作の小麦などは作ることができなかった。また、田ん中の土が軟らかすぎるため、耕耘機が埋まってしまって動かないこともあったそうだ、(現在→圃場整備の時に田ん中の高さを1メートルくらい上げ、排水路をつくったので、2毛作も行えるようになった)

 

3、米の売買

 農協ができる以前の米の売買について尋ねてみると、昔は小作料の「カチキマイ」というものがあって、それをいったん地主に納め、地主がまとめて酒屋に納めていたそうだ。しかしその割合は収穫高の半分と決まっていて、たとえば6俵とれたら3俵を納めなければならなかった。「何日まで」とあらかじめ決められていて、その期限までに地主の大きな蔵に納めていたそうだ。

 戦後は、進駐軍がやってきて、「強制キョウシツ」というものをつくった。これははじめから納める量が決まっていて、たとえば、サツマイモは一つの畑につき200kg、畑を3つもっていれば600kg出さなければならなかった。自分の家に保有しておく分を引くと、残りは全部出さないといけないようなものだった、何日間も一ヵ所によりあって、保有米とか、出資量を引いた分を計算していた。不作の人は、自分の保有米にくい込んで出さなけれげならなかったそうだ。

 野口さんは、「それから考えれば、今は米もあり余ってねえ。」と、ぽつりとおっしゃった。(現在→農協は出したい量だけ出せばいい。)

 

4、村の動物

 昭和30年前後までは、各農家に牛や馬が1頭ずついたが、それから後は耕耘機の時代になった。馬もいることはいたが、やはり牛の方が多かったということだ。

 

5、村の祭り

【大谷】

○もぐら打ち(1月4日頃)

 「もぐら」は農家の畑の上をボコボコと盛り上げて悪さをする動物で、目は見えないが耳がよく聞こえることから、農家では追い払って豊作を順う「もぐら打ち」という習わしがある。もともと、地中にこもる悪霊を追っ払って、幸せをもとめる信仰から来たものらしい。

 子どもたちはおじいさんやお父さんに「もぐら打ち」という道具(竹の棒に25〜30cmわらを巻き付けたもの)をつくってもらい、14日の夜頃かたまって農家の門先を訪れた。家の前に立って、「こんばんは、もぐら打ちに来ました。」と挨拶をし、家の者が出てこられたら声高々と「こなたの家の栄ゆっごともぐら打ち、鶴は千年、亀は万年、浦島太郎は八千年、こなたのお嫁さんの尻の早う太うなんさあごともぐら打ち、もぐら打ち、こなたの家の柿の木は、手のとどくとけえ成れ、よそん柿の木は高っかとけえ成れ、餅やぁよごうでも太かとばもぐら打ち祝あ申そうもぐら打ち。」と唱えて、地面を打って回った。新婚さんの家の前では、早く子どもが授かるようにという意味の文句も唱えるという。

 

○権現さん祭り(12月5日頃)

 山ノ木権現様の祭田に稲を植えて、古賀(上、中、下)を回して行う。部落全員が楽しく集まり、共同炊事でごちそうをつくり、酒を飲み、懇親を深める。

 

○神待ち(カンマチ)(12月1日)

 一年に一度出雲大社に全国の神様が集まっておられたが、お帰りになるということで、青年が主になって、氏神様の前庭で夜通し火をたいて酒盛りをして待っていた。

 神様は柿の木の馬に乗って帰られるというので、10月から2ヶ月間は、柿の木は燃料として使わなかった。

 

【千手寺】

○日吉さん祭り(9月1日灯籠かけ、12月13日祭)

 部落住民の無病息災を祈念する千手寺部落全戸で行っている祭り。このお祭りは、大正の初め頃の出来事に由来する。

 その出来事とは、内田地区内に散在していた諸々の神殿や石像を、天満宮境内の一隅に集め、合祀した。ところがその後、内田地区の各所に原因不明のはやり病が発生し、それはそれは大変な目にあった、誰云うとなく、これは各所の守り神を合祀したのが災いしているということになり、こりゃいかん、と内田区の世話係が相集い、相計らい、集めた神体をもとの場所に戻し、各部落でお祭りすることとなった。

 その後は病気もなくなり、平穏な部落に戻ったことから、12月13日を日吉権現様のお祭り日と決めた。祭はお茶講古賀(4戸位)で当番を決め、大人から子どもまで全員揃って夕食をともにしてにぎやかなものであったそうだ。そのとき使う米は、日吉さんの西にあった水田でとれたお米を各お茶講古賀に配っていた。料理は、まぜご飯、鯖を使ったかけあえ、みそ汁、漬け物など、田舎では昔からのなじみ深い料理である。日吉さんには祠の中に小さなご神体?(長さ2〜3cmくらい)があって、時々行方不明になっては、近くの畑や田ん中から発見されて戻されていた。「家をでてねぇ、なかなか帰ってきんされん人のことをね、日吉さんのごたあ、っていいよるもんねぇ」と野口さん。

 お話を聞いた後、日吉さんの祠に連れていってもらったが、あいにく行方不明で、留守中だった。

 

○土用ごもい(夏の土用の入り)

 千手寺を上古賀、下古賀に分け、交互に当番となりお観音さんに集まり、各戸よりそれぞれ料理を持ち寄うて、酒を酌み交わしながら部落のことや世間話をして、相互の親睦を図るそうだ。(現在は、料理は部落で準備して行っているそうだ。)

 

★このような話をして下さりながら、野口さんは、

 「ここらへんも、若い人が増えてねえ、昔からの古いしきたりやら、ほとんどなくなってしまったもんねぇ」と、寂しそうにしておられた。

★野口さんのお友達で、野口さんを私たちに紹介して下さった永尾さんは、

 「昔の人は、古い習慣っていいますか、伝統を残したかっていいんさあわけですよ、けど若い人たちは、あんがいそういうのは面どくさからしかですもんね。で、うちの部落ではそういう古い習慣をなくそうっていう話し合いがあったとですよ、それで、今まで年三回しよった天神さん祭を、年に一回にしたとです。それに、もうそんなお祭りをしてもなかなか寄らんとですよ、今は。若い人は来んされんですもんね。他のところへ遊びに行きんさあもんね。一回でも残していけばいいとじゃないかと思いますけどねえ。」と、新しい考えともうまくやっていかないと、というようなことを言われた。

 

6、村の子どもたち

 「昔はどんなことをして遊んでいたのですか?」という質問に対して、そうねえ、と言いながら答えてくださったのだが、昔は、コマやむくろ(はねつきの羽の先についている黒い玉、今で言えばビー玉のようなもの)をはじいて遊んだり、田ん中に行って木をといだり、魚を捕ったりしたそうだ。

 家の手伝いなどはどうだったのか聞くと、家の手伝いと言うよりは、高校の授業料の約20円を払うために、わらでムシロを織っていたとの返事。機織り機に似た機械で、結構たくさん織って、やっと20円になるくらいだったそうだ。

 「今は、ほんとにそんなことあったんだろうかなぁと思うけどねぇ。」と言われ、みんなで笑った。

 

7、村のこれから

 最近このあたりでは、農業をする人がどんどん減ってきているそうだ。若い人は町を出ていく人が多いし、今まで農業をしていた人もだんだん年をとって続けるのが困難な状況になってきているらしい。人に田畑を貸して、小作する人もいるようだが、借りる方もなかなかいないので、荒れ田が増えているのが現状だ。

 このあたりの上地は10a=10万円前後とかなり安い。しかし、圃場整備をした土地は、ある決められた期間は宅地にできないのだそうだ。田畑を買って農業をしようという人はそうざらにいないし、しかも、田畑を買えば、圃場整備代に、毎年10haにつき25000円払わなければならない。農機具もトラクターなど300万円ほどするし、ちょっと農業をやってみようかな、くらいの気持ちじゃとてもやっていけないとのこと。そういう問題を解決するためにも、これから、農機具の共同購入など対策を考えていかなければならないだろう。

 野口さん宅を訪問するときに見えた後ろの山も、昔はみかんがたくさん植わっていたそうだが、あまり売れないこともあって、今ではほんのちょっとしか作られなくなってしまった。そのかわりに、杉やひのきなどを植えられたが、手入れをする人もいないし、木々を山から切り出すのにもかなりの人件費がかかるので、どうしようもないそうだ。野口さんのお宅を最近建て替えられた時にも、柱になるような木は裏の山から取ってきて使ったが、後は市場などで購入したそうだ。

 「自分がたの山を切るよりか、市場やらで買った方が安いけんねぇ」と、野口さん。

 地方の過疎化現象は、前ほどではなくなったとは言え、農業、古い習慣、しきたり、祭などは、今、非常に苦しい状態に立たされているようだ。

 

8、調査を終えての感想

 このレポートを作成するにあたって、千手寺や大谷の村の今と昔を知る機会に恵まれ、めったにできない体験をすることができたと思います。少しずつ昔の伝統や風習が忘れられつつある今、よい伝統は自分たちで残そうと努力していかなければ風化してしまいます。村のほんの一部にすぎなくても、こうして私たちが村の歴史を知り、それについて考える機会をもつことは、とても大切なことだと思いました。最後になりましたが、私たちの質問に快く答えて下さり、心のこもった暖かいご飯まで出して下さった野口さんと永尾さんに、心から感謝したいと思います。

 

《補足》

野口さんより紹介していただいた、この地域の出来事についてまとめておく。

 

昭和4年7月 見せていただいた小字図台帳ができあがる。

昭和13年  ものすごい干ばつで、新替地域の田畑は焼けるように枯れ、鶴島地域の田ん中は、もともとは畑だったのを田ん中に変えていたため、特に乾燥し、すべて枯れてしまった。その時に、これからのこのような干ばつに備えようと東川登小学佼の北側に牛鬼谷(ウシオンダニ)上池と、下池の2つの溜池を作った。

昭和28年  国道は、川や田ん中よりも2メートル以上高くなっているのに、国道あたりまで、白く水が流れるようなものすごい洪水があった。(28水)