【武雄市東川登町西光寺、水上地区】

歩き、み、ふれる歴史学レポート

 

1年9組  1LA99246 三吉礼子

      ILA99274 吉田多愛子

 

訪問した村:西光寺村

      永尾芳政さん(昭和8年生まれ)

 

1、通称<私称>地名(しこ名、呼び名)について

  永尾さんに、昔田んぼがどういうふうに呼ばれていたか、そのしこ名を尋ねたところ、ここの地方では、とくに田につけられた呼び名というものはなかったということだ。調査マニュアルに、しこ名はないといわれても、簡単にひきさがってはいけないと書いてあったので、村の人たちが勝手につけたような、田の名前なんかは、ないかどうかしつこく質問してみたのだが、やはりこの地区にそういったものはなく、田や畑は小字で呼ばれている。堀や堤防も特につけられていた名前はなかった。目印になる木や岩などもこの地区にはなかったということだ。

 

2、水利と水利慣行

 水上溜池は、二王堂、宮園、西光寺、諏訪ノ前、宮本と南田の一部が水を利用している。瓜倉溜池は瓜倉、北長野、そうだ町などが利用している。むかしは水上溜池だけから水を引っ張っていたが、現在では、西川登町のダムから水上溜池に水を引き、それから各地に水を流している。主にその水は農業用水として利用される。

 水の管理者に「水番」がおり、水田に水を張るために水を落とす日を言う役目を果たす。主にそれは田植えの前になされ、東川登町全体で行われた。水番は地区に1名ずつ決められ、いつ堰をはずして水を入れるかを決定する会議に参加しなければならない。水番は農業関係者から選ばれた。

 昔、西光寺村の田は湿田で、水田が用水路より高かったが、今はその逆で「よけ」というものを利用している。大旱魃があった時、水番が田んぼにうまく水を張るように配慮できなかったため、夜中にこっそり自分の田んぼに水を落とすということがあったようだ。

 5年前の旱魃は西光寺村には特に被害を及ぼさなかったらしい。

 米は二王堂、宮本、川満でよくとれ、瓜倉、水上ではあまり取れなかった。その理由は、瓜倉や水上が谷であるということに由来する。

 西光寺では用水路などの圃場整備がなされ、その後、良田を求めるトラブルが起こったため、監置委員で話し合いをし、配分をした。

 

3、昔の暮らしについて

 圃場整備事業が、行われるようになる前にとっていた道について、質問したところ 帰りに車に乗せてもらって、ドライブがてらいろいろな道を案内してくださった。

 旧国道など、雨の中で見にくいめんもあったが、実際に道を見せていただいた。品物の、流入の様子については、後にも説明するとおり、塩や魚などは、武雄市から運び込まれていたというお話だった。

農業以外の昔の現金収入については、家に一頭ずついる牛の他に、たねつけなどをして子供の牛が生まれた場合は、その牛を売ったりすることも行っていたようだ。しかし、そういったものは、あくまで、副業であった。

 私たちがお伺いした方は、お若かったので、もう小さいころにはテレビなどもきていたという、お話しだった。

 

4、村の名前

 大字長野の中に南長野、北長野、内田などが含まれ、その内田の中に西光寺、水上、大山道、千手寺、上、下大野原、上、下大谷、上、下楠峰などが含まれる。

内田には230戸数、西光寺には30戸数、家が含まれる。

 

5、村の農業について

 村の農業について、質問したつもりだったのだが、急に鯉のことについて話しだされたのでびっくりした。途中で、同じグループの別の人たちがお話しを伺った方も永尾さんの家にいらして、お話してくださっていたのだが、その方も同時に鯉の話しをされたので、私たちはその話を楽しく聞かせてもらった。おそらく、私たちの聞き方が悪くて、聞き間違いされたかと思うが、おかげで永尾さんが釣ってきたばかりの、大きな鯉を見せてもらえた。お土産に持ってかえる?と、聞かれみんなで笑った。

 今では村は、ほとんどが兼業農家ということだ。昔は農業の他に、建設会社に出稼ぎに行っていたというおはなしだった。

 現在専業農家は20戸ぐらいである。ほとんどが兼業農家であるようだ。兼業農家は米以外にも、大豆、麦、野菜を休耕田で作っていた。

 

6、村の範囲

 西光寺村は大山路川で区切られる。

*道路圃場整備のため若干地図が違っていた。変更されている分は地図に記す。

 

7、村の耕地

 この村においても、やはり圃場整備以前には米がとれる地区と、とれない地区があったというお話しだ。このような場所による差は、水利に関係していたということだ。圃場整備がなされた後でも、田んぼの場所をわけるのに水利のよい部分をめぐって、問題が起こったということだった。

 肥料としては、化学肥料の入ってくる前、戦前には堆肥が使用されていたということだ。

 

8、村の発達

 村にプロパンガスが来たのは昭和30年ころであり、それ以前は、風呂は五右衛門風呂で、いろいろな大きさのかまどを利用していた。

 

9、村の生活に必要な土地

 私たちが訪れたところは、山に囲まれた村だったので、薪は他の村に買いに行ったりしないで自分たちでとってきていたということだ。また、たたら木などのもらってきた木々を結んでそれをつんで、まとめて売ったりもしていたそうだ。したがってこの地区の人たちは、ガスが普及する以前に使っていた燃料は、自分たちの近くの山でまかなっていた。

 

10、米の保存

 米は農協に出す前の時代は、米の仲買がいて、彼らが渡したり売ったりしていた(27、8年前頃)。地主と小作人の関係は終戦後農地改革まで続き、終戦以前は、小作人が地主に小作料を米で払うということが行われた。青田売りも行われていた。家族で食べる飯米は「保有米」と呼ばれ、ブリキの大きな缶に入れて保存した。ブリキの缶に入れるため、ねずみの被害に遭うことは無かった。

*50年前:終戦のころ、食事における米や麦の割合は5合位であった。芋と米を混ぜた御飯が多く芋の割合のほうが多かった。

 

11、村の動物

 この地区の村には、馬はあまり飼われていなかったが、1家に1頭ずつ牛を飼っていた。雄を飼っている家もあれば、雌を飼っている家もあったということだ。雌牛は、出産1ヵ月前まで使われるそうだ。子どもを産んだ後、その子どもも使われた。それぞれ1家に1頭いる牛は、自分たちで買ったものであり、何頭飼ってもいいが、1頭が普通だった。牛を売り買いする、博労(ばくりゅう)というものもいた。博労は、地区に2、3人いた。どんな人がなっていたか、聞いてみたところ永尾さんのお父さんも昔、博労をやっておられたという、お話しが聞けた。博労は地域で人気があり、馬に関する知識がある人が選ばれた。この、授業のマニュアルを見るかぎりでは、おお昔の職業だというふうに感じていたのに、そのお話しをうかがってから、少し親近感というか、それほど別世界のことでもないのだという気がした。

 

12、村の道

 隣の村に行く道は特には無く、今現在存在する道と同じである。学校道も特に無く、通学用の道路は各地域で決定されていた。「**ノウテ」といった道は無く、長尾さんのお話によると、橘町のほうにあるのではないかということだった。塩や魚は武雄町からやってきた軽トラックに乗った行商人が売っていたようだ。武雄町の行商人は市場で買って売りにきていたようだ。

 

13、祭り

 この地区の祭りに関しては、資料をいただいたので、それを参考にして書きたいと思う。私たちが調査に行った、西光寺の祭りを以下にあげる。まず、「天神祭」について。この祭りは、部落民の健康を祈願して行われるものであり、西光寺を上・中・下の3つに分けて、輪番制で、2月8月12月の25日に近い日曜日に、「お天神さん」と呼ばれる天満宮に、お神酒を挙げて、その後に元方の家に一戸から一人または、全員が集まってお祭り(飲食)が行われるというものである。

 天神や、天満宮という言葉に親近感があった。

 次に挙げるのは、「八日祭」。 2月・8月・12月の8日に上、中、下の各古賀ごとに別れて元方の当番をする。当番は個人の家まわしである。みんなで昼から夕方にかけて飲食をする。

 現在では、公民館が集まりの場となっている。米は部落田を利用している。「土用ごもり」という祭りについて。この祭りは、7月の第3日曜日の午後9時頃から、大人子ども、一緒に数珠をまわし、その後でお神酒を頂き、お酒やお菓子で1日を過ごすというものだ。

 毎月、20日過ぎに婦人会の人が集まるのが、「三夜待」。主にお金集めがある。また、部落内にお嫁さんがきたときには、ここが紹介の場となる。

 次が、「神待ち」。11月30日の夜7時に各家から1人または全員が、天満宮に集まって、部落民の他に区長、各役員も加わって夜12時まで火をたきながらお神酒を頂き四方山話しをしながら、神を待つというものだ。

 毎月初めの土曜日の夕方から行われるのが、「伊勢講」という祭りである。私たちの祖先の代表は、天照皇神「お伊勢さん」といわれる。

 毎月、家廻しの当番は、各家ごとにお金や米を集めて、料理などを準備して、酒を飲みながら夜を過ごす。

 毎月の、伊勢講は、農繁期でも、欠かされたことはなく古賀うちでも顔を合わせる機会の少ない今日において、この伊勢講が情報交換の場でもあり、部落内での親睦の中心になっている。

 次に、8月7日に行われるのが「薬師堂祭」である。よる8時頃に薬師堂に各戸から1人または全員集まって、提灯のもとでお酒とお菓子をいただきながら、健康を祈願する。

 11月15日に近い日曜日に行われるのが、「お日待ち」である。朝からモチをつき、日が出てきたときに、お供えする。後は、夕方5時頃まで自家用車で、見学してまわる(大分まで行くときもある)。

 最後に挙げるのが「お茶講」である。部落を上、中、下の3つに分けて、およそ10戸ずつくらいでその古賀にて行う。

 

14、昔の若者

 テレビも映画もない時代、村の若者たちは夕御飯を済ませたあと、部落の公民館に集まった。村の若者たち(男子)は「青年クラブ」というものを結成しており、部落の公民館がその拠点であった。公民館には布団を作っておいてあったそうだ。「青年クラブ」の若者たちは、体育大会や演劇などを含む文化祭などを催し、村の奉仕活動などにも従事していた。東川登町の青年クラブに参加していた若者は250から260人ほどであった。60キログラムの米俵をかついで力を競い合ったり、干し柿泥棒をしたり、干し柿のない時期には山堀や魚取りなどをして遊んだそうだ。特に干し柿泥棒は盛んだったらしく、家に下げてある干し柿を叩き切って持ち去り、泥で作った火鉢に火を焚いて、その周りで干し柿やみかんを食べたようだ。干し柿を結ぶ紐は藁で作られていた。

 夏祭りになると余所の村の若者がこの村の若い娘を目当てにやってきた。そうしたよそものを村の若い者は妨害したりはせず、余所の若者は酒を持ってきたりすることもなかった。

 恋愛に関しては、青年クラブの若者が好きな女性にラブレターを書き、それを渡すといったことは行われたようだ。青年たちが蚊帳や雨戸が空いている家を覗き、若い娘を覗き見るといったこともしていたようだ。結婚に関しては、厳しい家風の元になかなか自由に結婚できず、見合い結婚が多かった。しかし、好きなもの同士結婚するために親しいものを仲立ちにして結婚する人もいたそうだ。

 

15、村のこれから

 村のこれからについて質問すると、永尾さんは長くお話しをしてくださっているにもかかわらず、しっかりとした口調で答えてくださった。

 この村は、土地が比較的購入しやすいということもあって、移り住んでくる人も多いという。ここで問題になるのは昔からここに住んでいる人と、新しく入ってくる人との、共存の仕方である。村の文化や、伝統、風習といったものは、残しておくべきであるし、残しておきたいものである。しかし、若いい人たちにとってはそれは重荷であるかもしれない。確かに、村の行事に参加するよりは、自分たちの時間を自由に使いたいという意見もあるだろう。ここで、やはり1番大事なのは、昔からいる人と、新しくきた人が、自分たちの意見をとおすことだけを考えずに、お互いに譲りあえるところは譲り合って協力していかなければならない、ということであった。

 祭りの中には、今までは年に3回行われていたものが、1回に減らされたものもあるという。私には、少し残念そうにお話しになっているように感じられたが、そういう方法もお互いを尊重しつつ暮らしていくには、やむをえないことなのかもしれない。

 

16、調査を終えての感想

 当日、予定より2時間近く早く現地に到着した私たちはとりあえず昼食を取るための場所を探していた。バスから降りて少し歩くと古ぼけた神社が近くに見えてきて、私たちはその神社に寄ることにした。その神社を地図で調べてみると、「天満宮」という名前の神社だということが分かった。古ぼけた神社だったのでいったいいつ作られたものであろうかという疑問が湧いたため、少し中を見物することにした。中に入ってみると、古い板が下がっており、そこにはその神社の由来が書いてあった。 どうやらその神社は大宰府天満宮に由来があるらしい。菅原道真公のことが触れてあった。また、外を見渡すと境内に大きな木があった見あげるほどの高さで、その太さも大変なものだった。雨だったので、誰も参詣する人はおらず、境内は非常に静かだった。

 昼の1時に予定していたため、私たちは永尾さんの家を訪ねた。永尾さんのお話で、しこ名が存在しないということを聞いたとき、私たちは非常に驚いた。しかし他にもいろいろな村の様子が聞けたので非常に有意義な時間を過ごしたと思う。

 大変ハードなスケジュールだったが、佐賀県に行き、現地調査をすることによって、調査の大変さが分かった。