【武雄市東川登町大山路地区】

歩き、み、ふれる歴史学レポート

 

1LA99233 松木剛宏

1TE99448 渡部純二

 

しこ名 コヤマジ(小山路)、アンコダニ(アンコ谷)、サラヤ(皿屋)、イデダニ(井出谷)

    ヤマソエ(山副)、スエヒロ(末広)、カンノモト(観の元)、ナカタ(中田)

    ロクタンダ(六反田)、オイマツ(老松)、オツダ(乙田)、ヒロタ(広田)

    ナガタ(永田)、タカミ(高見)、フチノオ(渕ノ尾)、マツノモト(松ノ元)

    ハッタンダ(八反田)、ガンミョウヤマ(元明山)、チョウコンダニ(長コン谷)

    タカテンツウ、フチドノバル(渕殿原)

 

しこ名の山来 八反田、六反田は田の耕地面積が直接、名称に影響している。

       アンコ谷、長コン谷は人名から発生したものである。

       老松、松ノ元は松の本に関連がある地に付けられている。

       高見は少々高い位置にあるため、単に見晴らしが良かったのか。

       もしくは物見的な役目を担っていたのか、判断のつかないところではあるがおそらくは前者であるだろう。

       カンノモトは「観音様のおわしますところ」という意味である。

       皿屋は秀吉の朝鮮征伐に端を発している。征伐の際に捕らえた陶工の技術者達を、帰還の際に強制的に日本へ連れ帰った。その技術者達がこの地に住まわされたことから、この地がそう呼ばれるようになったのである。

       大山路における陶工の歴史は古く、1600年代から小山路の窯で数多くの陶器が作成されていた。

 

水利について 基本的には人力で干ばつ等の異常気象に対抗するわけだが、昭和14年、42年の大干ばつのときは、村人がバケツなどを使ってため池から自分の田畑まで水を運んでいたようだ。しかし、干ばつが更に厳しくなってくると村の中でも貧富の差により自分の田畑に水を入れられるかどうか差が出るようになった。

 

夜間の時間使用について

 夜間に自由に動き回れる者はいない。なぜならば夕なべ(副業)に人手を取られてしまうからである。縄を結うことが最も基本中の基本となっていたようである。また、現金収入のために、わらじを武雄市の中央あたりまで持っていき売っていたとのこと。

当時、障子に今のような紙を使用する替わりに、こうぞ(木の皮)をはいで、川にさらして紙のようなものを作っていた。このようにして作った紙は、米の保存等にも用いられていた。どのようにしていたかというと、かめの中に米を保存するときにかめの内側にこうぞをはりめぐらせ、その中へ入れる。俵に入れるときも虫よけの効果があるらしく、しぶ柿の汁を塗って使用したりする。にんにくの切れ端を入れることも防虫に効果を発揮する。

 

魚  魚といえば、塩クジラ、塩サバを物々交換で手に入れていたようだ。川でとれる魚は、スモークしたりして長期保存にも耐えられるように加工した。

 

牛馬の飼育  当時はどの家庭でも飼育していたのだが、その飼料は毎朝ご飯前に自分の田なり、畑なりから刈り取って用意していた。そのときに自分の田畑と他人の山などが接していた場合は、日表三間、日裏五間と言われている部分の草を相手の土地ではあるけれども、暗黙の了解として刈ることができた。

 

燃料問題  基本的には、牛馬とかわらない扱いとなる。半年、もしくは一年をサイクルとして木を切り出してくる。個人所有、山師の場合は木を買う。牛馬の餌について付け加えるが、墓地などの清掃によってでる草、ため池の周辺などは競りのやり方で購入者を決める。

 

祭事

川の神(水神)祭り 八月一日

 川の神に感謝の意を示して、水の大切さを再認識させるという祭りであるが、現代は上水道の整備は行き届いているため伝統の保持はなかなか難しいところである。

 

なます祭り 十二月十一日

 享禄二年、島原の有馬仙岩の大軍を後藤純明か背水の陣で打ち破ったのち、追撃していくともはや敵の姿は無くなっていた。そこで、農民達は急いで大根のなますを用意して鬼へごで箸を作った。これが起源となっている。

 

社日(シャニチ) 二月

 ぜんざいやもちを作り、作物等の収穫を祝う祭り。一年の始まりとしての意味も含んでいるために、その年の抱負なども語り合う。

 

大山路のみなさん

 中山雅弘さん 61才

 三川文一さん

 吉岡さん 53才

 中尾政次さん(区長) 81才

 

“あとがき”

 電球もしくはガメ(=ヒューズ)がきれたときは西川登まで買いに行っていた。しかも、在庫が無いので予約制といった感じだったらしい。とても親切な方達ばかりで運がよかったと思った。たいへん面白かったので、また行けたらいいと思う。