【武雄市武内町西梅野地区】

歴史の認識 現地調査レポート

 

西梅野におけるレポート

 

調査者:1TE98705 田畑敦圭

1TE98670 内野亮

 

お訪ねした人 山口健吉さん

 

西梅野

田畑

サカイダ (境田)

マエダ  (前田)

フジワラ (藤原)

ソノダ  (園田)

カミクロキ(上黒木)

ほか

セドウ  (瀬道)

ウスクボ (臼久保)

ヤマノウエ(山ノ上)

マツオ  (松尾)

マツオダニ(松尾谷)

 

〜その他の様々な西梅野にまつわる事柄〜

 

・池やため池は、百姓の水利として使われていた。事実、現在でも用水路の水は絶えることなく流れ続けていた。

 

・山口健吉さん宅の以前の住所…大字梅野小字西梅野字瀬道

 

・祭り…(いくつかあったが、特に有名かつ現存しているものを記載)

<弁財天祭り>

1.5月の第1、2の巳の日

2.弁天に豊作を祈る

 ↑

    ↓

しかし、現在、これらの祭りの本質を理解する若者は少なくなってきている。

 

・青年倶楽部…昭和初期、当時テレビなどの娯楽が無い若者における集合体のようなものがあった。

そこで彼(彼女)らは、歌、相撲、武道、そろばん、習字の稽古、祭りの稽古などに夜の時間を過ごしていた。

 

・米を農協に出すという経路ができる以前には、米商人たちがいて、彼らを仲介とすることで農家の人々は生計をたてていた。

 米の保存方法として、わらで作ったかますにいれて長時間保存する。

 

・電気は大正2年に開通。

 それ以前は、油や薪をたいていた。それと同時にその煙を防虫対策としていた。そのため2階には米を保存していた。

 

・食べ物…昭和初期においては、米に麦、さつま芋、里芋、粟などを入れ、主食にしていた。この点に関しては、この時代の人々は、日本全土でこういった食事をとっていたと思う。

 

・動物…生産牛(農耕用)、馬、これらは終戦後まで主に使われていたが、それ以降は農業機械が普及したため、これらは使われなくなった。

 

・平山大明神…<平山弾三郎>を祀っている。明治期に西梅野に多大な貢献をした。具体的にその貢献とは、干ばつの時などに農民に土地や米を寄与していたと言われているらしい。