【武雄市若木町黒岩地区】
歩き、み、ふれる歴史学レポート
ST−3 1TE99576 平川士人
ST−3 1TE99586 松尾泰道
若木町黒岩
古賀賎磨さん S5
溝上政男さん S10
1、学校〜黒岩
12月26日、午前8時45分、正門前集合。遅れたら大変なので2人とも徹夜して予定時刻に学校へ。すでに大勢の学生が集っていて、そろそろ出発しようという雰囲気。これといった遅刻者もおらず、ほぼ予定時刻に出発。学校から黒岩までバスで高速を乗り継いで2時間強かかる。バスの中では初めこそみな騒いでいたが、学校を出てしばらくすると、みな眠り始め静かになる。自分も寝たので憶えていない。気が付くと武雄インターで高速から下り、普通の道路へ入っていた。田んぼと田んぼの間を一直線に伸びている大きな道路を進む。どこかしら、自分の故郷に似ているような気がした。しばらくすると、少し発展した町に入って行った。武雄市の一番発展したところらしい。このときは自分のPHSの電波は3本だったので安心していたが、考えが甘かった。そこを通り抜けると一気に田舎へ入り込んでしまって、あっというまに圏外になってしまった。武内町で初めて人がバスをおりた。けっこうな田舎である。これよりさらに奥へ行くのか、と思った。まもなくすると自分が下りる場所についた。何組かのグループが下りてバスは去っていった。そこはどこがどこだか、さっぱり分からなかった。一緒に下りたグループに知り合いはいなかったが、「どうする?」みたいなことを聞くと、なんといくるかの村の人達が一ヶ所に集ってきてもらえ、その中に僕らの調査する黒岩も含まれているというようなことを聞いた。僕らはその一団と村の人達が集ってもらえる場所へ向かった。僕らが歩いたあたりは、これといった店などはないにしろ、かなり大きい道路が一本通っていて、それなりに開けた場所だった。しかし、周りは田んぼや山ばかりで、僕の祖母の家の近くみたいだったのをよく憶えている。目的地へ向かう途中、キャッチボールをしていた子供たちが自然に「こんにちはー」とあいさつをしてきた。福岡のど真ん中ではなかなか見なれない光景に少し驚いた。その時、時間は11時過ぎで予定開始時刻は1時だったので、ラーメンを食べた後、コンビニなどによったり、川の側を歩いたりして時間をつぶした。1時前にみんなが動き出して、ラーメン屋のすぐ近くの大きな家に入っていった。座敷へと案内されて、一列に横に並んで座っていると、次々とおじいさんたちが入ってきて、僕らと向かい合って座った。僕らの中の1人が少し挨拶をして、それからは村別に分かれて話を聞くことになった。黒岩のおじいさん達はすぐに分かって、話を聞くことになった。
2、調査内容
「しこ名」について…
まず始めに「しこ名」について質問したところ、すぐに答えが返ってきた。黒岩の田んぼは大きく2分割され、東側が「ムカエダ」(迎田)、西側が「フルコ」(古川)と呼ばれているらしかった。マニュアルには20個程度収集したい、というようなことが書かれていたが、それ以上ないような雰囲気だったので次の質問に移った。
「水利と水利慣行」について…
村の水は、僕らもここに来る前に偶然見たのだが、柿ノ瀬橋の近くのとこでせきとめ、そこから取り入れているらしかった。昭和54年頃にそれが完成して以来、ずっとそこから取り入れているらしかった。
過去にあった大旱魃のときには、田を分割して、水を入れる日、入れない日を決めて水の節約などをはかってしのいだらしい。
「昔のくらし」について…
僕らの調査した黒岩あたりは、昔と比べて、広い道ができたものの、大方変わってないらしく、地図も現在とほとんど同じだった。黒岩あたりはけっこうな山の中なので魚や塩の入手方法について尋ねると、今でいう伊万里多久線を通って、伊万里の方から商人が売りに来ていたらしい。昔の主要道路もあの道路だったらしい。
「村の名前」について…
村を部分的に分けて名前をつけ、「小路」(しゅうじ)と呼ぶらしいが、黒岩はあるのか。そこらへんを聞いてみた。すると、昔は東組と西組の二つだったらしいが、現在は、東組、中組、西組の3つに分かれているそうだ。
「村の耕地」について…
米のよくとれる、とれないがあるのは自然なことだが、黒岩はどうなのだろうか、ということを聞いてみたところ、平地の方ではあまり変わりないらしいが、少し山の中に入るとやはり収穫量は減るらしい。地図をみても田んぼの印は少なく、そのことがうかがえる。昔、山の中の田を開墾はしたが、収穫が少ないために、今では昔のようにサラ地になっている所もあるという。一方、平地の方は安定した収穫を上げており、諸々の技術改良などによって収穫量は昔より増えているらしい。昔は一反あたり、5〜6俵程度だったのが、今では8〜9俵もとれるらしい。肥料については、昔は山の草や堆肥であった。戦後は堆肥や人糞を使っていたが、昭和45年あたりから、人糞は全くと言っていいほど使われなくなったらしい。それ以降は、金肥(配合肥料)や、畜産農家から購入した堆肥などを使用していたらしい。
「村の発達」について…
村に電気がついた時期はかなり昔で、プロパンは昭和30年代後半あたりかららしい。その前には山から薪をとってきたりしていたが、それが子供や若者の主な仕事だったらしい。また、薪は「ふったんくぼ」とよばれる入り会い山の奥まで取りに行っていたそうだ。
「米の保存」について…
米の保存・販売は、今はライスセンターから農協へという手順だが、昔は米商人が農家から買っていたらしい。地主と小作人の関係は、昔は少数の大地主と多数の小作人だったが、戦後の農地解放によって、現在は地主が耕作するようになっている。とはいっても少しは小作人もいるそうである。
また、青田売りなどということはなかったそうである。
家族で食べる飯米で福岡では兵糧米といったらしいが、黒岩ではこれといった呼称はない。またその飯米の保存方法だが、今は販売用と変わらず袋の中に入れているが、昔は5俵〜10俵の缶に入れていたそうだ。
種籾の保存は現在は乾燥剤入りのふくろに入れているが、昔は俵につめていた。それにネズミが近づくこともあるので、2階の目に付くところにあげておいて、守ったそうだ。
食事の米・麦の割合については、米:麦=7:3ぐらいで終戦後は、いもや栗が主食だったらしい。今は麦やいもはほとんど食べないらしい。
「村の動物」について…
黒岩では昔は牛がほとんどで、馬はあまりいなかったそうだ。牛は一家に一頭いたほどで、それらはオス・メス関係なく農耕に利用され、川に連れて行って洗ったりしていたそうだ。ばくろう(牛売り)はやはりいたそうだ。
「村の道」について…
隣村への道は県道を利用していたらしい。黒岩に関しては、あまり交通事情は変わりなさそうである。塩や魚は伊万里から馬車や車力にのせてやってくる売人から入手していたそうだが、終戦後、不足の時には車力ではこんでいたそうだ。
「まつり」について…
黒岩では、まつりは年1回12月15日に今年収穫した米をささげ、今年の収穫を感謝し、来年の豊作を祈るそうだ。名称は特にないが、昔からの伝統らしい。
「昔の若者」について…
昔の若者の遊びについては、意外と僕らの小さい頃と同じような感じで、ビー玉遊び、コマ、竹馬、メンコ(黒岩では「ペチャ」と呼ぶらしい)、たこあげなどである。夜の仕事は、男女に関らずむしろ織りをしており、重要な現金収入だったという。
また、夕飯のあとには「青年クラブ」と呼ばれる集まりがあり、公民館の中に寝泊まりし、薪をたいていろりの周りに集り、談笑などをかわしたという。
他の村の人とはあまり遊ばなかったらしい。たまに衝突もあったそうだ。男女の知り合うきっかけについては、唯一村と村の垣根のない夏祭りのときなどに知り合っていたそうだ。
3、村のこれからと変化
(良いこと) 住宅も食事も良化した。
(悪いこと) 祭りには若者はあまり参加しなくなった。若者が都会に出て行って、人口が減っている。
[これから] 戸数が減少し、高齢化がさらに進むのではないか、ということらしい。
[日本農業の展望]
率直に言って、あまり明るくはないそうだ。米の値段は下がる一方だし、若者の村外への流出による跡取り問題や、町に出ていた人が定年を迎えて帰ってくることなども高齢化が急速に進む原因になっているそうだ。