【武雄市西川登町神六地区】

歩き、み、ふれる歴史学現地調査レポート

 

武雄市西川登町神六地区

 

1LA99125 武冨陽子

1LA99160 中武裕子

1LA99245 宮本典子

1LA99276 吉見美香

1LA99283 渡邊めぐみ

 

1、しこ名について

 しこ名について尋ねたところ、前田さんは不思議そうな表情をして、「しこ名?」と聞き直した。あまり聞き覚えのない言葉のようだった。「水を入れるとか、草を刈るとかするときに呼ぶ田んぼの呼び名はありませんか?」と聞くと、「田んぼはだいたい小字で呼ぶねえ。私が知っている小字名じゃないしこ名といえば、十兵衛田ん中ぐらいですねぇ。十兵衛は昔の所有者の名前で、冠婚葬祭のときお金を作るために抵当に入れてたんですよ。その他はわたしゃあ聞いたことがないねぇ。他の村にそういうのがあるのは聞いたことはあるけど、神六にはなかとやないかねぇ。そりゃあもっと年長の方に聞いてみらんとわからんね。でもだいぶ年長やけんみんなもう動けんやったり、耳が遠かったりするけんねぇ。」

とおっしゃり、その年長の方に電話して聞いてくださったが、その方も知らないとのことだった。川、橋、井樋、堤防のしこ名、山、谷、山道、岩、大木などの目印につけられた名前もないそうだ。

 草切り場、切り野については草切り場は茅切り場と呼ぶそうで、茅葺き屋根に使うらしい。共同地域。入合林野事業で払い下げとなり、現在はないそうだ。

 小路(シュウジ)の名前については、下古賀(シモコガ)、中通(ナカドオリ)、西の谷(ニシノタニ)、古番所(フルバンショ)、門石(カドイシ)、野田(ノダ)だった。ちなみに前田さんの家は古番所で、「昔番所があった所だからくさ。」とおっしゃっていた。

 

2、村の水利

 水田にかかる水の引水場所は現在は矢筈ダム。持は各谷間の溜め池。水番人を交代で決めて、水が有効にまわっているかの確認をしていた。

 用水の所有権、水争いの有無は、用水は神六村だけのもの。水争いは、ダム建設以前にはあったが、村の中だけで、小競り合い程度。

 1994年(H6)の大干ばつの時には、もう矢筈ダムは出来上がっていたので、何の問題もなかったそうだ。もし、50年前に大干ばつが起こっていたら、どうなっていたかお聞きすると、溜め池は全部干上がっていただろう、とのことだった。

 雨乞いについては、雨乞いをしたことはあるそうだが、その効果の有無については、「そりゃあたまたま降りゃあ効果があったー、ってことになってただろうけど。」と、笑いながらおっしゃっていた。現実的な人だとおもった。

 

3、村の範囲

 境界石や、谷で区切られている。境界石とは、石を積み上げて造った境界線のことらしい。昔は大村藩との境界だったため、境界線辺りでのいざこざが多く、いつもは百姓をしている人々が武士になって、番所に集結して戦っていたそうだ。そのため神六の百姓には名字が許可されていた。「今でも、前田正信さんの隣の神宮さん宅の屋根裏には槍があるもんね。」と、武士の気骨まんまんに語った。

 

4、村の耕地

 米がとれやすい田ととれにくい田については、峡谷はとれにくく、日照などの関係で棚田になっている。前田さんは棚田のことを「タニダ」とおっしゃっていた。戦前は峡谷は出水があって湿田が多く、湿田、乾田に関わらず4俵くらいとれていたが、現在は減反の対象となり、ほとんど植林している。

 平地は乾田が多く、戦前は5、6俵とれていた。

 化学肥料が入った後は、山間では6俵、平地では8俵ぐらいになった。ちなみに戦前の肥料は牛糞、鶏糞、茅などの草などだったそうだ。

 

5、村の発達

 電気は大正時代、プロパンガスは昭和40年ごろから使われていた。これ以前は菜種油のランプや、個人の山からとってくる薪などで生活していた。

 その頃のことを聞いた。

「ソーセージで大わらわ事件」

 ある目、前田次郎さんの友達が学校の弁当に東京みやげのソーセージを持ってきんしゃった。すると当時非常に珍しかったソーセージをみてみたいと校長を始め、学校の者全員が集まった。そこでみんなが「それは何だ?それは何だ?」と騒ぎ立てやむをえずソーセージを細かく切ってみんなで試食したそうだ。今ではありふれたソーセージが昔はそんな騒ぎの元になるのかと思うと笑えてきた。

「ビニールふろしき談義」

 戦後、ビニールふろしきは東京みやげの最高級品だった。ビニールふろしきなど今では使いもしないことから考えると当時の貧しさがうかがえる、と思って心の中で密かに泣いた。

 

6、村の生活に必要な土地

  村の共同の所有としての入り合い山があった。燃料としての薪は個人の山からとって いて、入り合い山から得ていたのは主に茅。(ここで茅葺き屋根の住居について現存する場所を教えられそこへ行ってみることをさかんにすすめられた。)

 

7、米の保存

 農協がない時代にはどうしていたのか、という質問にたいし、米を売って現金収入を得ていたのではなく、米と他の商品を物々交換していた、という答えが返ってきた。たとえば魚が欲しいと思えば、米を自分で担いで海辺の集落まで持ち運びをして、そこで交換をした。米は現金の代わりとしての役割も果たしていて、支払いに米が使われることもあった。そして、米と物だけでなく、米と労働の交換ということもあった。自分のところの米で家族を養えない時は米を分けてもらい、その代価としてその家に働きに行っていた。(これをイイ、と呼ぶ。)地主と小作人の関係もその延長として成り立っていた。(現在では、農家の若い働き手が少なくなったため、田を貸して米を作ってもらう、という形もあるらしい。)

 米の保存に関しては、温度対策、ネズミ対策として、かますの中に米や種もみを入れ、積み上げて囲った後、もみがらを囲いの中に入れて保存していたらしい。前田さんはとても画期的に感じているらしく、熱の入った説明ぶりだった。

 「青田売り」については、ない、とのこと。また、家族で食べる飯米については、飯米もしくは保存米と言う呼び方らしい。

 食事における米と麦の割合を聞いたところ、米:麦(またはそのたの雑穀)=1:9、2:8くらい。麦の他に芋、とうもろこし、粟などを混ぜていて雑穀の方が主だった。雑穀だけのこともあったらしい。お弁当などで他の人とご飯を見比べて「お前のは白かねぇ。」 (米が多い。)などといいあったりしていたのだ、とおっしゃった。

 

8、村の動物

 馬は農耕用にはほとんど使われず、専ら牛だった。雄牛は力が強く、雌牛は子牛を産むため、どちらを飼うかは、目的に応じて分かれていた。馬は馬車用で、神六には2軒(2頭)飼っていた。また、博労はなかった。

 

9、村の道

 隣村まで行く道は?と尋ねたところ、昔からの道がそのまま県道になっているということだった。木戸道という里道が主要な交通手段で、学校に通うのにも木戸道を利用していた。昔は本当に木戸道のみだったらしい。

 …ノウテと呼ばれる道はなかった、ということだった。

 また、道を通じて運ばれるものとしては、物々交換の際、お茶や竹細工(神六はとても竹細工が有名らしい。)が運ばれた。行商が他の地域から来ることはほとんどなく、自分達で交換をしに行って、品物をもらって帰って来る、という形だった。

 

10、まつり

神六大明神のまつりは、毎年12月14日に行われる。前日はお客さんの掃除をし、氏子が旗(バン)をたてる。当日は男の人が裸で川に入り、そこで米をといで、炊いて供える。女の人は“ごっくうさん”と呼ばれる供え物をつくる。

 神六下ではしめ縄を作り、神六上ではごっくうさんをつくる。ごっくうさんとは、干し柿50個、みかん50個、じねんじよ50個、とろろ50個、米粉団子(鼻団子)50個。ハナ団子は、全員、花団子と思っていたら、「鼻」だったので、みんなどっと笑った。

(とろろ談義)

ごっくうさんのはなしをしている時、前田次郎さんが、「とろろはしっとるね。」と聞かれたので、私たちは、「じねんじょのことですよね?」と答えると、「なーん!そら違う!とろろは、もっと細長かですもんな!」と誇らしげにとろろ談義を始めた。いい事を聞いた。

この祭りは、神六住民全員参加の昔ながらのお祭りで、五穀豊穣を願う。

 

もぐらうちの代わりの行事

0から15才までの子どもが、各家の仏壇をお参りする。乳幼児は母親が抱いて行く。その後、お礼に、家の人からお菓子をもらう。つまり、東洋式ハロウィンである。昔は村全体で行われていたが、今では、古番所のみで行われている、と寂しそうに言った。

他に寒祭り、骨火たきがある。

神六大明神の他にも、雑社(上:八天狗 中:天神 下:山王社(日吉神社系列))があり、それぞれの部落で祭られている。

 

11、村の若者

(青年倶楽部)

 夕飯後、村の男達が、今の公民館に集まって、みんなで泊まる。活動としては、自警団のような役割(消防、ボランティアなど)を果たし、何もない時は、人生相談をしながら、若者たちは、青春をそこで有意義に過ごしたらしい。

 女性は家にいたそうだ。

 力だめしとしては、相撲が盛んだった。

 他村に行くには、山越えをしなければならなかったので、他村との交流は、あまりなかった。

 

(恋愛事情)

 出会いは、他村との交流がなかったために、少なかったので、お見合いが主流であったお見合いがほとんどだったため、中には、仲立ち業という職業もあったそうだ。しかし、恋愛は自由だったと、何かを思い出しながら、遠い目をして言った。

 

 当時の他の部落と比較しても、男女差別はあまりなかったらしい。「女だてら」という言葉も、あまり使われていなかった。

 

12、神六の歴史

<西川登村(M22−S28)>

神六村(江戸期―明治22)           |小田志村(同じ)

  生保国絵図57石、天明村村目録57石    | 生102 天102

  天保郷帳 79石、旧高旧領  468石   | 天167 旧なし

                        |

鎮守、、、神六大明神               |、、、小田志の山神社、祇園社

  (寛文6、文化5、文政10、明治31改築) | (皇太神宮碑 宝暦4、

  (石造狛犬1対、、、天和2、前脚竹節(肥前  |  祇園宮石段 嘉永4)

石造物の特徴) )            |

   M7 「取調帳」…枝村―矢筈村      |

               庭木村      |

               高瀬村      |

               神六村      |

                       合併!!

(西川登の地名の由来)

六角川を舟が登る(明治末期まで)

 

調査に協力して下さった方々

 前田正信さん(S12生)

 前田次郎さん(S4生)