【武雄市橘町亀屋・二又地区】
歴史の認識現地調査レポート
亀屋・二又
調査者 山田恵子
吉丸里子
聞きとりしたおじいさん、おばあさん 橋口幸雄さん(昭和5年生)
と奥さん(昭和6年生)
1月9日、午前9時。私達は昔の村について調べるため、佐賀県、武雄市の袴野区に向けてバスで出発した。午後1時頃、お話を伺う事になった橋口さんの家に到着。おじいさんもおばあさんもとても素敵な笑顔で出迎えてくれ、いちご(とても美味しかった)やお菓子まで出してくださった。和やかな雰囲気のなか、いよいよ質問を始めた。まずは、失われつつある通称地名について聞く事にした。
1 しこ名等の呼び名について
<村の名前>袴野
<しこ名>イチノマ 一ノ間
ニノマ 二ノ間
サンノマ 三ノ間 城を守る所(戦国時代前)
エノキガワ 榎川
ウラゴウチ 浦川内
フタマタ 二又
<山林>亀屋のうちに カシミネ 樫峯
ジヨウヤマ 城山
ジョウノタニ 城の谷
城山、城の谷はかつて多くの城があったらしい。
二又のうちに ハギワラ 萩原
<橋> タカバエバシ 駄渡瀬橋(タカバヤバシ)の呼び名
―呼び名を聞き終えると、次は村の昔と今の姿について色々な観点から聞く事にした。
2 用水源について
亀屋、二又の用水源について尋ねたところ、現在は亀屋は樫峯溜め池、二又は二又溜め池が主な用水源となっているとおじいさんは話してくれた。昔は生活用水は井戸水や湧き水などに頼っていたらしい。武雄市全土についていえば、平成2年に3つの溜め池(水がめ、ダム)より水をひいている武雄市上水場が設立されたことにより、武雄市は、安定した水源を確保できたということだ。
今から5年前の大干ばつについて、何か特別の水対策をしたかどうかを尋ねたところ、みやげダムなどの安定した水源があったため、特に影響はなかったそうだ。過去に昭和14年と20年に大干ばつがあったらしいが、その時は水路より遠いところは節水をしなければならなかったそうだ。
過去に水争いはあったのかどうかをたずねたところ、大昔にはあったそうだが、今は水当番者がいるから水利をめぐる争いはないということだった。
3 村の耕地について
以下、質問者を(質)、おじいさんを(m)、おばあさんを(f)と表示する。
(質)「どこが湿田で乾田だったかを教えてもらえますか?」
―地図で示してもらう。その後、圃揚整備以前は乾田、湿田はやはり入り交じっていた事を話されたが、米がよくとれる所、逆にあまりとれない所のように場所による差はあまりなかったという事だった。
(質)「戦前の前は肥料とかはどうしてたんですか?」
―(m)「圃場整備ん前はねぇー、家畜(馬や牛)の堆肥をつこうとったねぇ。寒い時でも草を刈ってきて田んぼん中に入れとったとよぉ。反あたり5俵から6俵やったねぇ。圃場整備ん後は反あたり7俵から8俵になったもんねぇ……」
―と話は続き、昔は田植えは手作業で10日間もかかったのに今は農機具の大型化により、いかに簡単になったかをしみじみと語られた。私たちも昔の苦労には驚くばかりだった。
4 村の発達について
(質)「村に電気とかプロパンガスはいつ頃来たんですか?」
―(m)「電気は大正15年頃、プロパンガスは1980年頃やねえ。昭和30年の頃はプロパンガスが入ってなくて、焚き火ばしよらしたとよー。電気も行燈(ランプ)やったですよ。薪は自分家(じぶんち)の山から補給しよったもんねえー。」
―(f)「今は便利になったもんよ。スーパーに行けば何でも簡単にそろうですもんねぇ……。」―と御二人は笑いかけながら話してくれた。私達も思わず笑みがこぼれたが、便利さの一方で何か失ったものがあるのではないか、と語りかけられているようだった。
5 村の生活に必要な土地について
(質)「村共有の山とかあったんですか?」
―(m)「うんにゃぁ…山には1つ1つ個人の持ち主がおったとですよぉ。明治に入って官山が払い下げされて区の山になったとはあったですもんね。」
(私達は、皆がそれぞれの山を所有していた事に驚いた。)
村の人々はみんな金持ちだったんだろうか?などと思った。
6 米の保存について
(質)「米は農協に出す前どうしてたんですか?」
―(m)「今は農協共同組合のだしよっですもんね。戦前は産業組合っちゅうのがありましたですもんね。」
(質)「もっと昔はどうしてたんですか?」
―(m)「米仲買さんていうのがおりましてね、米商人さんが買いに来よんさったですとよ。」
(歴史で習った事のある言葉が出てきて時間の流れを感じる私達であった。)
さらに質問は続く。
(質)「米の保存とかはどうしてたんですか?」
―(f)「もみ倉ってゆうて、板で作ってあるとにもみがらをいれてネズミが入らんようにしよったねぇ。今は貯蔵庫ですとよぉ。おじいちゃんが詳しゅう知っとんさんよー。」とおばあさんはおじいさんの名を呼んだ。
―(m)「昔はぶりきの缶に入れよったねぇ…。5俵ぐらいかね。ぶりき屋に頼むですもんね。ネズミ対策?そいはーどじゃ袋てゆうて和紙(厚紙)の中に入れて、またカマスに入れてさらにもみがらを入れるとですよ。虫のつかんようにですね。今は農協に頼んでただ紙袋にいれるだけですもんね。種籾はかめの中にいれときますもんね。」
(質)「食事における米、麦の割合は昔どうだったんですか?」
―(f)「やっぱり米より麦が多かったねぇ…。盆と正月、8月15日と1月1日だけ白ご飯で。戦時中はかぼちゃご飯、つんきだご(だこじる)、かんころご飯(芋を乾燥させたもの)なんかをたべよったねぇ。ひいじいちゃんの頃は犬の肉も食べよんさったらしかですもんね。ようわからんでしょ?」
―(質)「えー犬の肉をですか?」
(私達は呆気に取られた。)
犬がペットとしてしか扱われていない今の時代、おばあさんが指摘するように、犬を食物(しょくもつ)としていたことは、私達の想像を絶したのである。
(質)「稗や粟は食べてたんですか?」
―(f)「そがんとは食べよらんですね。でも昭和63年の熊本の献上米には稗や粟が含まれとったらしかですよ。」
献上米とはその名のとおり皇太子の方々に奉上する米のことであるが、なんと今回お話を伺った橋口さんの作ったお米も献上米として選ばれていたという。私達は同じ佐賀人として誇りを感じずにはいられなかった。思わず何回も「すごいですねー」と言ってしまった。
7 村の動物について
(質)「村に牛や馬とかはいたんですか?」
―(f)「おったよぉ。牛も馬もどこの家にもおったもんねぇ。だいたい1頭か2頭ぐらいやったねぇ。オスが多かったよ。どの田んぼも馬で田植えしよったもんねぇ。肉牛(にくうし)も今は袴野地区で2、3頭になってしもうたとよ。昔はもっとおったけどねぇ。」
(質)「博労(ばくりゅう)というのはいたんですか?」
―(f)「そうそう、そういう人もおったねぇ。小さか牛ば買いとってね、これば交換する前に肥やして、大きか牛にして売るとよ。」
おばあさんは微笑を浮かべながら話してくれた。馬の交換の媒介人として金もうけしていた人が昔はいたんだと思い、今と違いすぎる事実に驚いた。
8 まつりについて
(質)「ここ周辺の地域では祭りとかどんなものがあるんですか?」
―(f)「毎年9月23日にね、貴船神社で護国豊穣祭りていうとのあってね、それでめんぶりゅうのあるとですよ。子供も大人も住民全員参加でね。子供めんぶりゅうのあってね、女の子は小学生から中学生までの子が参加して金打ちばすっとよ。男の子は小学4年生から中学生までやったかねぇ。これはここ7、8年のことですよ。大人めんぶりゅうはもっと前からあったとですよ。袴野地区は本当に仲のよか地区でね、模範地区て、校長先生も教頭先生も言わすとですよ。子供めんぶりゅうのおかげですよ。」
―(m)「めんぶりゅうはねぇ、明治39年の日露戦争の戦勝祝賀会から始まったとですもんねえ。」
おじいさんもおばあさんも祭りについて本当に楽しそうに話しておられた。特に袴野地区の人々はとても仲がいい、ということが話題になったときは、心から嬉しそうで、誇らしげだった。それをみて、私達までなんだか嬉しい気持ちになった。
9 村の若者について
(質)「テレビも映画もなかった時代、若い人達は何をしてたんですか?」
―(f)「昔は青年クラブっていうのがあったですもん。夕ご飯の後、集会所(今の自治公民館)に集まってねぇ、色々話して泊まって帰るとですよ。男ん人はお嫁さんをとる前相撲の稽古やぎおんだこ、干し柿泥棒なんかやってねえ、悪巧みやもんねえ。」
(質)「夜は特別に仕事とかしてたんですか?」
―(f)「男ん人も女ん人もむしろ機械でむしろ織りばしよったねぇ。ねぇ、おじいちゃん。こもやむしろを機械で編んで、ねっぽく(もみを干すもの)も編みよったよ。」
私達は、少しにやにやしながら思い切って次の質問をした。
(質)「恋とかは、どこで生まれたんですか。」―私達には興味深いことだった。昔も今のように自由気ままに恋愛ができたのだろうか。それとも………。おばあさんは頬を染めながら語ってくれた。やはり恥ずかしいのだろうか。
―(f)「青年クラブやなんかかねー。昔は親戚同士の結婚も多かったとよ。いとこ同士もほんにぃ多かった。今ではなんか変な子どもが生まるって言うですもんね。昔は親が<この人と一緒にならんば>っ言うてねぇ。」
―(質)「えぇぇぇ。親が?恋愛の自由はなかったんですか?」
―(F)「私達の時代はそうでもなかったですけどねぇ。大昔はやっぱり村の事とか関係あったとやなかですかねぇ。」
(質)「ちなみに、御二人は青年クラブで知り合ったんですか?」―私達は調子にのってつい聞いてしまった。
―(f)「いぇいぇー。私達は見合いです。」―とても幸せそうな顔で答えられた。その顔を見て、私達はなんだかほんわりとした気分になった。
楽しい時間はあっという問に過ぎ、いよいよ最後の質問となった。
(質)「村の展望とかありますか?」
―(m)「展望ですか。やっぱり今は農業だけでは食えない時代ですもんね。袴野区の6百戸のうち3戸だけが農業を専業にしとっとですよ。大型機械を買うのがきつかですもんねぇ。でも先祖の財産、土地を大切にしようという意識もやっぱりみんなにあるとですよ。田んぼを作れん人が他の人に頼もうしても、引き受けてくれる人がおらんですもんねぇ。受け皿がなかとですよ。自治長会でも、後継者がおらんで作れば作っほど赤字になるけん田んぼを法人化して、農協とか市役所が職員として雇い田んぼば維持していくべき、って提言しよっとですよ。荒地は今のところなかし、お年寄り言うても65歳でまだ出来るけれど、あと5年後どうなるかは実際方向は定まっとらんとですよ。国民保険だけと、厚生年金をもらうとでは雲泥の差がありますけん、社会保険制度の問題もありますでしょ。」
―と力強く語られた。私達なんかよりずっと真剣に取り組んでおられるし、将来を見据えられている気がした。
午後4時前後、最後におばあさんが出してくれた美味しいコーヒーを飲み終えて、私達はお礼を言いながら御二人の家を後にした。かわいいお孫さん達も手を振りながら見送ってくれた。おじいさんがなんと私達の集合場所まで車で送ってくださった。私達は感謝の気持ちでいっぱいだった。
最後に、話を聞いていて、ぜひ記録に残し、みんなに知って欲しいと思った橋口幸雄さんの功績を留めておきたいと思う。
*橋口幸雄さんの功績
・昭和63年に佐賀県の代表者として天皇陛下へ献上米を差し上げたこと。(田植え式、新嘗祭献穀田抜穂式式典の写真を見せてもらった。それと、お座敷には献上米を差し上げたことへの感謝状などが飾ってあった。)
・幹事任長として、村人の土地の区分を取り決める時に、一人一人の希望をなるべくとりいれるように配慮し、村の団結力を高めたこと。