【武雄市東川登町袴野地区】
歩き、み、ふれる歴史学レポート
1LA99087 熊谷正道
1LA99106 佐藤有希
佐賀県武雄氏東川登町 橋口幸雄さん(昭和5年生まれ)と
その奥さん(昭和6年生まれ)
東川登町 オオクボ(大久保)
ハチリュウ(八竜)
タカバヤ(高早)
ヤマンタチ(山立)
タケノシタ(竹の下)
オバヤマ(御葉山)
ワライボ(童尾)
オオヒラ(大平)
田畑 小字一町田のうちに……ハチリュウ、タカバヤ
小字山揚のうちに………ヤマンタチ、タケノシタ、オバヤマ、ワライボ、オオヒラ
山林 小字一町田のうちに……オオクボ
山場溜池と御葉山溜池が村の主な用水
1月9日(日)午前9時、バスに乗って佐賀県武雄市に出発した。当日は雨が降っていて、調査は難航しそうだった。午前11時頃現地に着き、お世話になる袴野区長の橋口幸雄さんの元を訪れようと、コンビニで道を尋ねたところ、「ああ、区長さんの家ね。」と、とても親切に教えていただいた。東川登の人はいい人だと思った。雨の中をしばらく歩き、目指す橋口さんのお宅に到着。いちごとお菓子を出していただき、色々な質問をした。
1(質問)「昔と今の生活用水について教えて下さい」
(答え)「昔は、生活用水は井戸水や汲み水でまかない、汲み水は山から引いてきた。山揚溜池により、山揚の田ん中はうるおった。今は平成2年に武雄市上水道ができてなんとかなっている。5年前に大干ばつがあり大変だったけど、補助水でなんとかなったよ。今はダムで干ばつも解消された。昔は水争いもあって、色々あったけど、水当番とかもあって、なんとかしたよ。」
2(質問)「村の動物はどんなのがいましたか」
(答え)「肉牛を飼う家が袴野地区で三軒ほどあった。馬なんかは、田ん中の作業に使われた。昔は鍬でおこして、まがで土をならしていた。今はトラクターを使っている。“博労”(ばくりゅう)というのがいて、媒介人として金儲けをしていた。初めに小さな牛を買い、そして交換時に牛を肥やして次に大きな牛にして売ってお金を得ていたんだ。昭和に入ってから、農機具が普及したけど、その前は牛や馬を使っていたんだよ。」
3(質問)「古い道はどんなものが運ばれてきて、誰が運んできたのですか。塩や魚はどこから来たのですか」
(答え)「終戦当時は、大村湾とかで海水を煮詰めて塩を得ていた。山口県のみたじりに塩田があり、そこからも購入していた。魚はくじら、いりこ、さばの塩物などを食べていた。塩・魚を運んだ大は・専門の売り子がいて、自転車に乗って魚をかついだんだ。一週間分まとめ買いしていた。刺身なんかなかったね。おくんちでは市立があって、そこでも売っていた。」
4(質問)「昔はどんな遊びをしていましたか」
(答え)「お手玉とかして遊んでいたけど、他に、青年とかはお嫁さんをとる前に、青年クラブに入って、相撲の稽古をしていた。干し柿泥棒とかもいて、ぎおんだご干し柿をとっていたんだ。青年クラブに泊まったときにみんなでおもしろがってとっていたよ(笑)。」
5(質問)「隣町からの通行を妨害することなどはなかったですか」
(答え)「子供めんぶりゅうのおかげで、仲の良い模範地区だったよ。」
6(質問)「長崎街道について教えて下さい」
(答え)「小倉から道が始まり、参勤交代で道がぐりぐり曲がっていた。大正15年頃国道34号線で道がまっすぐになったんだ。」
7(質問)「村に電気とプロパンガスはいつ頃来たんですか。それらが来る前はどんな生活をしていたんですか」
(答え)「プロパンガスが入ってきたのは1980年ぐらいで、電気が入ってきたのは大正15年ぐらいです。ガスが来る前はたき火でかまどをたき、まきも使っていた。まきは山から補給していた。」
8(質問)「米の保存はどうしていたのですか」
(答え)「片はブリキ屋に頼んで、ブリキの缶々に5俵入れていた。もっと昔はどじや袋=わし(厚紙)の中に入れて、そしてかますに入れて、またさらにもみがらの中に入れる。空気が入らないようにして、虫もつかないようにした。」
9(質問)「若者たちが、夕ご飯の後特に集まる所はあったのですか」
(答え)「集会所とかあったよ。月に1、2回火をたいて、たき火の火がなくなるまで世間話をしていたんだ。“お茶こ”というのもあって、月に何度か7、8軒ずつ開いていたんだ。親鸞上人にちなんで、“御正機法要”とかあって、一週間精進料理を食べ続けるのがあったけど、4、5年前に廃止されたんだ。」
10(質開)「貴船神社について教えて下さい」
(答え)「9月23日頃護国豊穣祭りが行われる。住民全員が参加し、“めんぶりゅう”といったものも、明治39年より、日露戦争の戦争祝賀会をかねて行われたんだ。子供めんぶりゅうや大人めんぶりゅうもある。貴船神仕は東川登の氏神で、戦争の時、兵隊が出征する場所でもあったんだ。」
11(質問)「農業の状況について教えて下さい」
(答え)「昭和63年10月23日、天皇陛下へ献上米を持っていった。各県から一人で、佐賀県からは私が選ばれたんだ。(ここで、田植え式、新嘗祭、献国穀川技徳式式典会場の町真を見せていただく)昔は一軒あたり約2000平方メートルの田を、牛を使って1週間から10日で耕していた。今は機械で半日から一日でできるよ。
袴野には106戸の家があって内訳をいうと、亀屋20戸、二又19戸、一町田15戸、山揚23戸、百木29戸で、以上5つの小部落で成り立ってるんだ。初日の出なんかは“こくんぞう”というところで公民館長全員で見るんだ。」
12(質問)「これからの農業経営について教えて下さい」
(答え)「戦時中は、昭和16、17年頃は日本も勝っていて調子が良かったけど、18から24年までは食糧難だった。昭和40年から42、3年頃は農家の一番いい時期だけど、その後落ち込んでいった。輸入米が普及して減反せざるをえない。東川登町では、専業の農家は2、3軒しかいない。後継者不足にも頭を痛めている。お米を作れば作るほど赤字になるんだ。提案としては法人化を進めること。農協など法人組織が農業を行っていくようにすべきだと思う。」
私達は、橋口さんのお話をうかがった後、一緒に写真を取り、お礼を言って、帰った。橘口さんは、親切にも私達をバス停まで車で送ってくれた。
<貴船神社の縁起>
元享元年(1321年)の夏、肥前の国(佐賀県杵島郡)一帯は、数十年も続く空前の大干ばつで、水田にはひびが入り、畑にはかげろうが上っていて、作物という作物は打ちしおれて枯死寸前の状態である。農民達は空を見上げて嘆息をするばかりで人力ではどうにもならない。そこで農民達は潮汲みをして、雨乞いの祈願をして、あらゆる祈祷をしたが、天気は続くばかりであった。そんな時、武雄神社の下宮の祭神蒐明神が夢枕に現れて、このままではまだ干ばつが続きます。 早く山城の国、愛宕郡の貴船神社の神霊を懇請して雨乞いの祈願をしなさい。そうすれば雨が降って万物は蘇生するでしょう、と告げた。そこで領主の光明は神のお告げに従って貴船神社の分霊を奉祀し、雨乞いの御祈願をしたところ、一天にわかにかき曇り、大粒の雨が土砂降りとなって降ってきて干ばつは解消されたと記してあります。