歩いて歴史を考える ―塩田町大字谷所山口地区の現地調査を終えて― 1ED99021Y 田島千加 1ED99013Y 斉藤由佳 <塩田町の成り立ち> 塩田町は、元々は長崎県に属していたのだが、明治16年以降、今のように佐賀県に属するようになった。私たちが調査をした山口地区は大字谷所のなかにあり、さらに山口地区を小さく分けると、五本杉、四本杉、桂尾谷、榎、床浪、上北山、下北山とできる。 今回私たちが尋ねたのは、山口地区で区長をしておられる、浜武保之さんと、浜武さんから紹介してもらった、大正5年生まれの宮崎忠孝さん(83)だ。浜武さんは長年教職に就かれていて教育に対して大変関心をもっておられ、物腰の柔らかい方だった。また浜武さんの奥さんも気品のある方で、突然、手土産も持たずに尋ねていった私たちを優しく迎えてくれ、地元に昔から伝わるサツマイモの入った饅頭をつくってくれた。(名前を忘れてしまったが)宮崎さんは昔のことをよくおぼえていらっしゃった。とてもユーモアのある方で、物事に対する探求心を83歳になった今でも持ちつづけておられ、執筆活動もされていた。(自称?)郷土史家らしい。私たちが、「宮崎さんは、やっぱり郷土史家だからいろいろと知っておられるんですね」というと、いつも照れておられた。また、宮崎さん宅は長年住まれていた大きくて趣のある家を取り壊し、新しい家を建てるために、家の整理をされていた。その過程で昔のものが、いろいろと出てきたらしく、それらを示しながら話をしてくれた。地券まで出てきて、なんと私たちにくれた・・・。 @ 田ん中のしこ名 ―田ん中の1つ1つに付けられている通称名のようなものはありませんか? ―そがんかとは、なかなた。自分の家とか位置とかば中心にして、前の田ん中とか、川向こうの田ん中、上の田ん中、西の田ん中とかしか言わんばい。なあ? ―そげんですねえ。 ―そうですか・・・。でも何かないですか? ―うーん・・・なかもんねえ。 A水路、橋、井樋、堤防 ―水路とか橋、井樋、堤防はどうですか? ―そうねえ、五本杉にある、上(かみ)のゴウ井関とか、下北山にある、花田(かだ)井関とかはあるなた。あと、水路は明治前に金持ちの人達が労力ば近所の人に提供してもろて、作りよったばってん、未完成やもんなあ。 B山や谷(沢) ―山や谷についてはどうですか? ―クリ山ちいうとのあるなた。あと、おもしろかとのあるとですよ。イノスダニ(猪の巣谷)とか、イノサコ(猪の坂)、シシガタニ(猪が谷)とか、猪の名前の付くとが多かとですよ。今でも、猪のようでるけん、網ばしてあるですもんねー。 ―共有林はありましたか? ―そりゃ、あったなた。昔は年に1回総出で手入ればしよったばってん、今はしよらんですよ。木が安うなったけん、割に合わんごつなったですもんねえ。 C村の名前 ―村の名前はどうですか?シュウジとも言うのですが。 (地図で示しながら)コウシン(庚申)、ツウヒラヤマ(通平山)、キタヤマ(北山)、イシボトケ(石仏)、サダシゲ(貞重)、イデヒラ(井手平)、テイジン(天神)、カンシン、ナカザト(中里)、マルヤマ(丸山)などがあることを教えてくれた。 D村の水利について ―水利について、また、水をめぐる争いなどはありましたか? ―谷所川や、鹿島川、床浪川などから、用水路ばひいたり、ため池ばつくったりしよった。花田井関、上のゴウ井関は村単独の用水じゃった。圃場整備のできる前は、村の中の上と下で、ようケンカばしよった。山が小さかけん、水量の少なかでしょうが。まさに、これが、我田引水ちゆとやなかですかねー。やっぱ、我が田ん中には水ばいれたかですもんねー。あと、うちの村じゃなかとばってん、村によっては、当番ば作って、勝手に自分の田ん中に水ば流したりもしよったげなですもんねー。昔は個人が、田ん中ば離れた場所に持っとったけん、上から下に1枚1枚水ば落としよったばってん、今じゃ、上なら上の方にまとめて持っとるけん、自分が所に水の入ったら、水ば止めてしもうて、下までいかんもんねえ。 あと、単独とはいえ、ほかの村の人が水ば汲むこともできた。そん時には、年に1回、カケザクちゅう、税のごたつが徴収されよった。土地とか、木、道にも、適用されて、今でも続きようりますもんね。 ―水利に関する慣行などはありましたか? ―1年に1回はミゾサラエばするですもんねえ。あと、彼岸の入りの9月10日には、堤祭りばするですたい。5つの部落の1つ1つが風流(鐘を叩いたり、踊ったり)していきます。各堤に1人の堤役がおります。 E旱魃について ―昔、旱魃とかはありましたか? ―そりゃ、あったなた。100日近く一粒の雨も降らん年のあったそうです。古文書には、「谷所の山伏踊り候」ち書いてあります。 ―そういう時には、どういう風に対処したのですか? ―話し合いばして、みなが公平に水ば手にいれられるように、回し水ちゅうとばしよったとです。あとこげんかともしようりました。川底から桶に水ば汲んで、肩にホコば荷て、何度も稲や野菜等に水やって、働いたり、谷間に1つ1つ石ば積み上げて(高ぢうけし)田ん中ば作ったとです。あと、雨乞いのごたつもしようりました。風流ばして、町ばめぐって、八天さんの神主さんば先頭に、祈願ばしました。凶作の年には、野草ばたべよったごたです。そのなごりかわからんとですが、昔の子どもたちの遊びの中にシーカイカイ(植物)や、蚊帳の中芯ば食べたりするとがありました。昔からの言い伝えで、お盆までに水の入らんやったら、1粒も、米はとれんち言われよった です。 F災害、疫病 ―災害とかはあったのですか? ―そりゃ、洪水、日照り、不作・豊作の繰り返しの歴史ですよ。伝染病とか、災害の供養塔(念仏塔)が村のいたる所にあります。災害として、1番古かとが、享保の飢饉です。昭和42年には、大雪がありまして、電気も水道もだめになって、復旧まで5日かかりました。文明ちゅうもんは、いかに、哀れなもんか、ち思いました。疫病は、1784年の疱瘡、そして、1858年にコレラが流行りました。一家全滅ちいうこともありました。 G村の耕地 ―乾田とか、湿田とかはありましたか? ―今はほとんど乾田だが、昔は、ほとんど湿田やったです。田ば高めてから、排水しようりました。鹿島の湿田あたりは、埋め立ててしもうてから、今じゃ、スーパーマーケットなどが建っとります。1等地ですよ。 H耕作に伴う慣行 ―あぜに大豆とか小豆を植えるようなことはありましたか? ―昔は、あぜ道に大豆ば植えよりました。その大豆から、醤油とか、味噌とか、豆腐とか作りよったなた。何でん、自分がたで作りました。今は、減反政策で、放地になっとります。また今の時代、米だけじゃ生きていかれんでしょうが。米ば作るより、働きに出たほうが、稼げますもん。米ば作るとには、機械やなんやかんやと、金のかかりますでしょ?専業農家は1軒、2軒あるかないかですよ。ここいら辺では、様々な作物ば、土地にあわんごつなれば、次の作物ちいう風にしてきました。例えば、山において、桑 いも、すいか、栗、みかん、キウイフルーツ。しかし、キウイも安い輸入品の影響で価格の暴落しとる。頭のいたかですよ。副業として、日源和尚が伝えた紙すきがあります。 I村の発達 ―電気はいつ頃きましたか? ―大正12年頃です。それまでは、石油ランプとか、ろうそくでした。昔は、暗うなったら、寝て、日が昇ったら起きるちいうごた生活ばしよったけん、別に何とも思わんやったとでしょうねー。 ―ガスはいつ頃きましたか? ―終戦後やなた。それまでは、たきぎとか、わらとか、マッチば使いよった。火ば点けるとに、30分とか、かかっとりました。経済は今のごと、ようはなかったですが、星<どん見ながら、のんびり暮らしとった。あの頃の方がよかった…。 J米の保存 ―米の保存はどのようにされていましたか? ―農協に米ば出すようになったのは、大正になってからです。それまでは、鹿島の米商人と取引きしよりました。また、一時は、長崎の辺りから、米の買出しに来る人もいました。終戦直後は、倉庫で米は保存でした。(田植え後に食べるぶんは、カン袋に。)自家用米は、年間1人3俵(180g)の保有が許可されていました。 K村の動物 ―昔は家で何か動物を飼ったりしていましたか? ―牛はどこの家でも、1頭飼っとった。オスとかメスの区別はなかった。あとは、豚とかにわとりば飼っとた。にわとりは(家の土間の下を指しながら)こがんか所に飼って、祭りとか、お客の来たときに、我が家々でつぶしとった。豚は、育ててから、業者にうりよりましたねー。 ―馬は? ―馬はおらんでした。 L村の道 ―昔の村の道について教えてください。 ―それは、よう覚えとらんが、小学校までは、4km位あって、毎日峠ば越えよったです。茂手の方のちいさな山ば2つですね。寄り道ばようしよった。 ―魚はどこから来ていたんですか? ―昔は、有明海の魚ば、行商の人が持って来よったです。あとは、カワニナばえさにしてから、川魚ば、よう食べよりました。 M祭り ―村の祭りはどんなのがありますか? ―いろいろありますよ。個人的な祭りは10軒前後の単位で行うとですが、虚空蔵祭り、 山の神さん祭り、お伊勢祭り(伊勢参りした記念)、天神祭り、地の神さん祭り、権現さん祭り(部落ごと)とかがあります。公の祭りでは、彼岸祭りや、収穫祭があるな。ほとんどが、秋の収穫の時期から、12月にかけて行われます。 また、村の八天神社は火の神様を祀っていて、昔は祭りのほかに雨乞いなどもした。 N昔の若者 ―昔の若者は、今の若者とはやっぱり違いますか? ―昔は、テレビも、何でんなか時代でしょ?夕飯が終わると皆、道ばたに集まって、星空ば見ながら、とりとめのない話ばしよった。夜はゆっくりと過ぎていった。楽しかった.。 ―恋愛についてはどうですか?結婚相手はどのようにして決めていたのですか? ―あんまり大きか声では言えんとですが、夜ばいですよ。目ばかけた女がとこさん、何人かの友人ば従えて、夜、行きよったとです。 ―女の人の取り合いとかはなかったんですか? ―そりゃあ、あったろうなあ。 ―宮崎さんは奥さんとどのようにして知り合ったのですか。 ―親が決めとって、ある日、「これが、おまえの結婚相手ばい」ち、言われたとです。私は、戦争が終わってインドネシアから、帰ってきたとこで、それまで土人ばっか、見とったですけん、こりゃ、きれいか人ばい、ち思うたとです。今から考えてみても、よかった、ち思います。 ―その他、若者の間で何か流行っていたことはありませんか? ―「エロ歌」ちいうとがありました。農仕事ばしながら歌うとです。体力的にもきつかけんですが、そがんかとば歌いながら、気ばまぎらわしとったとです。 ―その、「エロ歌」について詳しく教えて下さい。 ―それは、恥ずかしうして、いいきらんです。向こうの家のばばさんがようしっとたです。 O村のこれから 昔は農業一本でやっていた家もおおかったが、今ではそういう家は、1、2軒だそうだ。 村から出て行く若者も多くなっている。村の老人の比率は高くなる一方である。 |