『佐賀県小津郡塩田町での現地調査; 調査場所:鳥越、永石、(塩吹)』 L2−2 1LT00080 志牟田 礼 1LT00081 下枝 青樹 1LT00103M 徳永 軍樹 行動記録 T、現地調査前日 僕達は今回「歩き、み、ふれる歴史学」の授業の一環として、佐賀県、塩田町の地名の歴史について、特にしこ名等やその地域独特の歴史的風習や歴史的事件について調査をしにいくことになった。当初、話を聞きに行くだけだとたかくくっていたのだが、実際前々日まで準備にかかりっきりになり、正直、現地に行くのを中止にしなければならないかと思ったほどだ。というのも、最初に紹介してもらった組合長の富永さんと杉谷さんが僕達の行く予定にしていた6月30日は無理と言う返事がきたのだ。それでは、ということで都合の良い日を尋ねようと思い先方にお電話したところその日というのではなく、話を伺いに行く事それ自体が無理といわれ、僕達もなんとか話を伺えないものかと、今のうちに歴史的な地名を記録に残しておきたい云々と説得を試みたが「もぅ、ほんに知らんもんねぇ…」と静かに何回も何回も言われてしまい、それ以上は言えず、「代わりにどなたか歴史を詳しく知ってらっしゃる方ごぞんじないですか」と聞いてみたところ、富永さん、杉谷さんどちらとも新たに一人ずつ紹介してくれたのである。しかし、多分無理だろうみたいな事も言われたが、30日までもうそこまで日にちがないことから不信がられたりもあるかと思ったが、その二人のお宅に電話で直接電話して頼む事にした。トゥルルルル…電話の呼び鈴がとても緊張させた。電話口に出た方はとても優しい感じの方だったが、返事は良いものではなかった。話しながらも我々は途方にくれてきたのだが、「がんばってね」と言う一言で少しは気分が晴れた。地図も塩田町への行き方も全て揃っているのに肝心のインタヴューする相手がいないなんて…もうこうなったら当日に賭けるしかないと思った。 U、調査当日 @)塩吹まで 当日は連日の雨が奇跡的に上がり、向かう先の空は晴れ渡っていたのだが車中での我々は、うまく行くのか不安でどんよりと曇っているようだった。当日の目的はただひとつ。地元の人でしか知らない話を聞くこと、そのためにはなんとか地元の歴史に詳しい人を見つけねばならないのだ。そこで目的地を塩田町役場にした。事前の下調べでは近くに歴史記念もあったし駐車場もあると思ったからだ。高速に乗り、武雄市から塩田町へ、だが、やはりついても、どこに行けば良いか皆目見当がつかない。塩田中学校の歴史の先生に話を聞きに行こうか、和泉式部記念公園に行ってみようか、といろいろ案を練ってみたがどれも今一つ。時計を見ると12:30、そこで昼食でも買おうと、塩田町役場近くの一町田のセブンイレブンに行った。この事が今回最大の幸運にして最高の出来事だった。パンを買ってなにも期待せず何気なく「このあたりで昔の地名とか歴史に詳しい方とかいらっしゃいますか?」と聞いたところ、なんと、「森先生いう人がくわしいよ。少し行ったとこにディスカウントストアあるけそこで聞いてみたら?」と、思いもよらぬ返事が!急いで車に乗りこみ車を飛ばした。途中、まさに透明と言う言葉がふさわしいような川の側を通り、外に下りると鰻の蒲焼のいい匂いがしていた。そうして、ディスカウントストアへ行くと「ん〜森しぇんしぇい?わからんねぇ。隣りの小学校の先生かなぁ。」とのこと。次いでその隣りの大草野小学校に行ってみると、まず驚いたのがそこの男の子達の礼儀正しさと、元気良さであった。つい最近あんな凄惨な事件が小学校であったばかりだというのにも関わらず、不審者とも見られかねない僕達に元気良く「こんにちは!」と挨拶してきてくれたのである。学校に入るといきなり先生が黒板消しを叩いているところに出くわし、これ幸いと早速質問をする。すると、その先生はなんと校長先生であった。「福岡の九州大学から…」というとその場に居合わせた他の人からも「おぉ〜…」とざわめきに唸り声。二、三年生くらいの男の子までもが「おお、九大」と言ったのには逆にこっちが驚いた。これはイケルと直感し、先ほどの森先生の話をすると、この小学校のもと校長先生という事が判明、家までの略地図を書いてくださるというのでありがたく書いてもらうことにし、校長室へ。中には、歴代校長の写真がずらりと飾ってあった。初代はなんと明治38年!写真とかあったのか、と違う事に感心している間に先ほどの校長先生が地図を書き上げてくれた。また、その校長室にあった塩田町史も見せていただいたのだが、そこの編纂者のところにはこれから行く森さんの名前もあり、大変役立った。校長先生に御礼を言って、その親切と子供達の純心性に感動しながら学校を後にし、この勢いをここで終わらせてなるものか、と車を飛ばし先ほど頂いた地図を見ながら一路森さん宅へ。僕達は期待に異様なテンションだったが、忘れてはならないのが森さんには前もってアポを取ってないということである。その点に一抹の不安を感じながらも目的地付近に到着した。ここで私達は、酒屋さんに森さん宅の場所を聞いた。酒屋なら区域内の家に配達しているかもしれないと考えたからだ。案の定、酒屋さんは森さんのお宅を知っており、いざ森さん邸へ。すると、近所のおばさんが、ちょうど森さんの所に何か贈り物を持ってきているところで、自分達の目的を告げるとそのおばさんが森さんに「ほーぅら〜しぇんせい。九大から学生さんが歴史について聞きたいてきとるよー」と紹介してくれたせいか、僕達はすんなり森さん宅にはいることができたのである。ここで、課せられた調査地域とは異なるが、隣り村の事や塩田町一帯についての事を伺ぅことができたので特別に記録にしておく事にする。 A) 森 敏治さん(7?才)の話 a:塩吹村の成立と塩田町近辺の歴史 江戸時代…鍋島家、蓮(之)池藩の下、現在の塩吹の範囲で村を形成。 当時、満潮時は河口付近から中流域の塩田橋まで海が満ちた為、 塩田は内陸部の農業地帯の米と船で運ばれた積荷の上げ下ろしや取引が容易にでき 一大商業圏として栄える。 明治・大正時代…隣りの鹿島市に鉄道が開通。塩田に変わり鹿島発展。 輸送の主流が海→陸へ 昭和時代…昭和9年、長崎道(旧国道)が武雄市にできる。武雄−嬉野間の発展。 ※ 商業圏の推移 塩田(船)→鹿島(鉄道・陸上輸送への移行)→武雄(自動車・現在では高速道路も走っている) こうして、森さんの話を聞いていると、森さんの奥さんが「ほんに、こげなところまで暑いのによぅ来なさったねぇ。」と僕達を気遣ってくれて、麦茶と自家製梅ゼリーを出してくださった。正直あちこち動き回った後で暑かったところに、冷たいものがとても有難かった。程よい甘さの梅ゼリーは、僕達の喉も心も潤した。また、森さんは僕達が事前に入手していた物よりさらに拡大された、塩田町の細かい地図も下さった。森さんに鳥越と永石の地名についてお尋ねしてみたところ、「ん〜、そういうしこ名とかはそこに住んどる人が・・・小さい、その土地の人しか使わんもんやけん、わからんねぇ…」とのこと。そこで、森さんに誰か紹介して頂けないかと頼んだところ、森さんは「ちょっと待ってね。」と言い、立ちあがり、電話とタウンぺージを持ってきて、どなたかに電話をかけ始めた。「うん、そう、九大から学生さんがきとるんよ。そう…」と僕達に代わって交渉してくださった。こうして、僕達は鳥越の尾形さんを紹介していただいた。しかも、森さんは尾形さんに、次に永石の歴史に詳しい人も僕達が訪問した時に紹介してくれるよう話してくれ、大変良くして頂いた。帰る間際にも何かレポート書いていてわからなくなったらと、FAX番号まで教えてくださった。こうして僕達は森さん宅から尾形さんのところへ向かう事にした。 余談だが、森さんの奥さんにも、この当りの土地のことについて聞いてみたところ、塩田町は、五町田(鳥越、永石辺り。あざなは「タンドコロ」)と「コマ」、そして塩田という三つの地域がひとつになってできた地域だということを教えていただいた。森さん夫婦はとても親しみやすい方々で、正直、初対面とは思えないほど和気藹々とした雰囲気でお話を伺うことができ、おかげで僕達はこの現地調査に対して、がぜんやる気が出てきたのであった。 B)塩吹から鳥越へ 気がつけば空は少し灰色がかった雲に覆われている。森さんからいただいた尾形さん宅までの地図をもとに、車で鳥越へ向かう。窓の外をいくつもの田んぼが駆けぬけて行く。行けども行けども、はじめての土地であることもあって、どこもかしこも同じような景色に見え、尾形さん宅がどこなのか、なかなか分からず道を二度尋ねた。一人目はおばあちゃんに、その後しばらく行って近くの川で遊んでいた女の子に聞いてようやく辿り着いた。そこで分かったのだがこの辺りには「オガタ」という姓がとても多く、尾形さん宅はどちらですかと聞いても、下の名前を出さないと決して分からないのだ。 尾形さんの家は山のふもとにあり、古い趣のある、伝統的な日本家屋であった。「なんもわからんけど・・・まあお上がり下さい」そういって尾形さんは僕達を家にいれて下さった。玄関が土間のようになっていて、そこから一段高くなっている部屋にお邪魔した。和風の好きなメンバーの一人は多少の感激を覚えた。尾形さんは座るなり、まず「ごめんねぇ、来てもらって。私もあんまり知らんけん、この地域の区長に電話したんだけど、区の用事で留守でねぇ・・・私も100%は知らんわけですよ」と申し訳なさそうに謝られたので、「いえ、こちらこそ突然お邪魔して申し訳ありません」と自分達も突然の非礼を詫びた。尾形さんは16〜20歳の間に大村などに特攻隊員として戦争にも出兵していたそうで、若い時は大変苦労したらしい。真面目な感じの方で、突然学生に質問されるということで、少し緊張しておられるようすだった。ご自分の、研究ノートを持ってきてくださった。また、森さんに引き続き、尾形さんもお茶とお菓子を出して下さった。 「失礼ですが・・・こんなこと聞いて何するとですか?」非難するとか疑うとか、そういう口調ではなく、純粋に不思議そうに、尾形さんは、こう僕達に尋ねられた。無理もないことだ。「しこ名」は昔から農家の方に、口伝で伝えられている土地や田畑の名前、いわば土地のニックネームであって、何気なく使っていた農家の方々にとってみれば、調べるほどの価値があるのかと疑問に思うのも当然だろう。 「それはですね、しこ名を残しておくためです。最近しこ名は余り使われないようなので・・・廃れてしまう前に、記録しておこうというわけです」と答えると、尾形さんは「はあー・・・あんたらえらかですねぇー・・・」としみじみ感心なされた。過大評価していただいたようで、なんだか恐縮した。 C)尾形 英邦さん(77歳)の話 a:しこ名一覧 鳥越 田畑; 小字永谷のうち…ナガタン(永谷) 野副のうち…イズムノ(泉野) 本谷のうち…ハッタラ 一本松のうち…イチノタン 大山谷のうち…シンコペタン 「漢字分からんもんですから・・・・ふつう使わんもんで・・・」と、尾形さんは申し訳なさそうにしておられた。こちらとしては教えていただけるだけで充分です。 使用している用水; ◎◎ 用水源;谷所(タンドコロ)川。唐泉山から流れてくる河。一番きれいらしい。 共有している村;下流を下のほうの部落が使う。尾形さんの話振りからして水をめぐった争いというのはなさそうだった。 b:鳥越の地名 虚山を中心にその北が永谷村、この山尾頂上に虚空蔵(コクンゾウ)菩薩(全ての恩恵に対する崇拝の対象)が祭られておりその下の山の中腹を「シンコベタン」、さらにその下の山の下部分を「トンノコバ」、山を降りてすそのの部分を「イチノダン」と呼びここが山口村との境である。山口村に入ったところを「コウシンダン」という。 c:鳥越の成立 645〜654年 「鳥越」成立 ↓ 鎌倉時代 鳥越村人口が増えだす ↓ 1688年〜 鳥越の農地開拓進む 鳥越という地域は起源が古く、約1400年前に遡るがこの地域が開拓され出すのは江戸時代に入ってからだという。伝説によると大化元年(645年)〜白雄5年(654年)の孝徳天皇時代の間にこの地域に「鳥越」という名称がついたという。この地域は孝徳朝期に大早魃にみまわれ、政府は、高麗から来た僧に命じて雨乞いの祈祷をさせた。彼は唐泉山の頂上に行き、そこで37日間(別の資料によれば3×7=21日間)祈祷をし、その後大雨が振り出して民は助かったので、村人全員で白雄4年(653年)に唐泉山の頂上の祈祷が行われた場所に社を建てて、その僧の功績を称えたらしい。これが八天神社の由来だという(この話しは後、永石の小森さんからもうかがう)。しかし、僧が帰ってからは唐泉山に大蛇が現れるようになり、しまいに大蛇は唐泉山に住みつき村人が通る道を往来し出した。村人は何度かその蛇をどうにかして追い出そうとしたが、皆やられてついに人々は山に近づく事さえ無くなり、その為頂上の社はみるも無残に荒れ果てたという。そうした中、ただ鳥のみが山を越えていったので、この唐泉山周辺の地域を「鳥越」と呼ぶようになったが、長い間、人々は大蛇になやまされたらしい。鎌倉時代中頃の1223年、修験行者がこの地に訪れた時、600年という長い間生きた大蛇を退治し、唐泉山を元通りに改修した。このため、この山を通る人々の流れができ鳥越の人口も増加し、村としてまとまり出したという。時代は下って江戸時代、1688〜1703年の間に多久庄(現在の佐賀県内)から多くの農民が移住してきた。彼らは佐賀の圧政に税金が払えなくなり、堪えかねて一族で非難してきたのであるが、その彼らの苗字は「富永」、「森」、「小森」、そして「尾形」等であった。彼らを総称して「鳥越切開百姓元祖」と呼ぶらしく、この名称と他の苗字が彫ってある石碑が鳥越村と隣りの山口村の境にあるそうだ。私達はこの話を伺った時、鳥越に来る時に感じた「オガタ」姓の多さが納得できた。その後、彼らは鳥越の野を開拓していき、鳥越は江戸よりずっと農業中心の暮らしであるという。この、農業中心という暮しが、水や火(特に火事等)に大きな影響を受けるからか、この二つを鳥越の住人は神として崇めて、祭りもそれにちなんだ独特なものがあった。 「この辺りの、鳥越特有の祭りというのは何かありますか?」と聞くと尾形さんは、少し考えて、 「この部落だけの祭り・・・・・まあ、『八天祭り』ちゅうのがありますね」 「それはどういう・・・?」 「家事にならんようにちゅう願いを込めてやるんですよ、火の神さんの祭りですね」 「それは、あの・・・やっぱり、家事の多い冬にやるんですか?」 「うんそうですね、12月ですね――この辺りでは小さい山火事が一回ありましたが、それ以外、民家の家事とかは一回もありません」尾形さんはきっぱりとそうおっしゃった。そして続けて、 「私らは・・・それはやっぱり、神さんのおかげかなぁちおもとります」と照れくさそうに笑いながらおっしゃった。若い僕達の前で神様という言葉を出すのが照れくさかったようだ。しかし僕達は、なぜかその言葉にほんのりしたと感動を覚えた。 「ほかに祭りは何かありますか?」 「あぁ、あと、『瀧祭り』ちゅうのがあります。それは旱魃にならんようにって、水が流れますように、水が枯れませんようにってやるんですよ」 「その、瀧祭りはいつごろに・・・?」「九月ですね」 瀧祭りは、一説によると文化甲子(1804年)頃から行なわれているという伝統ある祭りで、八天祭りもかなり古くからある、歴史ある祭りらしい。八天祭りの主神は「香具土神」と「武速須之男命」だそうだ。 「旱魃の話がでましたけど・・・この辺りで、水害はありましたか?」「水害はあっとらんです」すばやく、きっぱりとお答えになった。 「それは、あの、一度も・・・?」「一度もあっとらんです」これまた、すばやくきっぱりとお答えになった。続いて、古い堤防はどこにあったか訪ねると、「堤防は、タンドコロ川の端にありました。・・・昔はあの、泥でできとったですが、何年か前・・・何年じゃったろか・・・まあ、何年か前にブロックになったとです。何年前やったか・・・」と首をひねりながらお答えになられた。つい最近まで堤防を泥で作っていたことや、水害の、絶えてなかったことを考えると、ここ鳥越は、水に関連することで、特別被害をこうむったことは、ほとんどまったくといってよいほどなかったようだ。これは瀧祭りのおかげなのだろうか。水害も火事もないことは、八天祭りや瀧祭りによって、知らず知らずの内に鳥越の人々の心に防災への意識が根付いていたことの証拠なのかもしれない。 続いて、質問を農業関係に移す。 「このあたりは、その、農業が中心なんですよね?」 「そうです。ずぅーっと農業ばっかりです。農業以外はもう、ちょっとないばってんね。何もできんとですよ、発展的なとこじゃなかとですよ」 「このあたりで、農作業をやる時の、特別な慣行っていうのはありますか?」「ないですね」「それじゃあ、共同作業なんかは・・・?」「特別やっとらんです。このあたりは、広広した水田がなかったですから」どうやら、一つ一つの水田がそれほど大きくなかったため、個々の農家で充分仕事ができ、共同で作業をする必要がなかったようだ。質問を続ける。 「牛耕はやっていますか?」「やっとらんですね」「以前はどうでしたか?」「ああ、昔はやっとリました。だいたい・・・昭和のはじめ頃から・・・第二次大戦頃までですね。今はなんも家畜をこうとるとこはなかですよ・・・ゴホッ、ゴッホゴホ・・・」話を聞き始めてしばらくしてから、尾形さんは断続的に咳き込んでいた。どこか体調が悪いのだろうか。体調が悪いのに、無理をして、招かれざる客である僕らに話を聞かせてくれていたようだ。申し訳ない。話も一通り聞いたので、これ以上尾形さんの体調が悪くならないように、僕達はお礼の言葉を述べ、尾形さん邸を後にすることにした。 D)永石へ 尾形さんの話をひととおり伺った僕達は、永石の歴史に詳しい人を紹介してもらおうと思って尋ねたところ、一番詳しい人は「法事がある」との事、別の、同じくらい詳しい人も「体が悪く病院に行く」という事で、他に思い当たる人はいないらしい。僕達は尾形さん邸を後にして、ひとまず永石まで行くことにした。最後に尾形さんにお礼を言うと「せっかくこげな遠くまで来てもらったのにあんましらんですいません。お役に立ちませんで…」と申し訳なさそうにおっしゃった。滅相もない。突然やってきた若僧に、体調が悪いなかここまで親切にしてくださったのに・・・・・・謝るのはこっちの方である。「いえ、充分参考になりました。本当にどうもありがとうございました、お体にお気をつけ下さい」と僕達は重ねてお礼を述べた。尾形さんは、後日、もっと歴史に詳しいという区長さんに、しこ名についてたずねて、それを送ってくださるとの事。僕達はこの尾形さんの親切にはとても感謝した。その感謝を胸に、鳥越から山口村を通って永石に行く。途中、山口裏と鳥越の境界線にあるといわれた石碑を見つけた。五町田小学校の分校をすぎると永石である。鳥越とは、地図で見るよりずっと近く感じた。早速、この土地に長年住んでいそうな農家を訪ねてみるが「なんも知らん、しらん」の一言。2件、3件と聞き込みに回っても同じ言葉の繰り返しで、少し途方にくれかけていたが、とあるいえの庭の農園にいるおばあさんに尋ねてみたところ、 「あんた達はどこん学校ね?」とたずねられたので、 「福岡の九州大学と言うところです。」 そう答えて学生証を見せると、おばあさんは「うちん娘も九大よ」といい、「おじいさ〜ん」とご主人を呼んでくれた。そこで今度はおじいさんの方に聞くと「小森さんち言う歴史にくわしか人がおる。」と家も教えてくれた。お礼を述べ小森さん宅に向かう。「青いトタンのある家」、それを手がかりに小森さん邸にたどり着く。そこはちょっと高台で家の作りもしっかりした立派なお宅だった。小森さんはなんと、先程尾形さんが話していた、病院に行くからと言って連絡がとれなかった人だったのだ。尾形さんは僕達が尾形さんのお宅につく前と、そして帰った後もこの小森さんに電話を掛けてくれて、「そっちに九大の3人おとこんこの学生さんが行くかもしれない」と紹介してくれていたのである。おかげですんなりと僕達の調べている事の趣旨を分かって頂けて、すぐに本題に移ることができた。「なんもわからんですよ・・・」そう言って小森さんはにっこりと微笑まれた。小森さんのお宅でも、奥さんが冷たい麦茶をだしてくださった。奥さんはまた、扇風機も出してくださった。 E)小森 勇さん(76歳)の話 a:しこ名一覧 永石 田畑; 小字永石のうち…ハクドウダイラ(白堂平)、ウバンツクラ(婆懐)、ナカシマ(中島) カギダ、カワラダ(川良(原)田)、 使用している用水;桂尾下堤と上堤 用水源;溜め池(左記)。水田に水を引くのには苦労したらしい。 共有している村;谷所(タンドコロ)全体が使用していた。 b:永石の成立 永石と呼ばれる地域には村というまとまりは無かったらしい。この辺りは中世まで遡る事ができ、もともとは「鳥坂郷」という、荘園の一部であった。これにはかろうじて文字資料が残っており、『八天人社文書』(全17巻)がその由来であるらしい。 c:永石周辺のしこ名とその由来 @ 川良田(または川原田) 今は流れが変わってしまったが、昔、この地域の右側に川が通っていた事に由来。 A 中島(ナカシマ) 川良田の北にあり、川と川の間にあった事に由来。 B 百堂庵 塩田町にある本堂庵の末寺 C 浅浦越え 由来不明。小森さんの家の窓からはっきりと見える。らくだのこぶのような形。 D ぶくいわ谷 この岩のまんまるのぶくっとした感じの形と、「福」の字の読みとかけて「ぶくいわ」とよびなわらした。現在は「ながし谷」と呼ぶ。 E 観音山 五町田にある「コウケイ寺」の末寺である、「観音寺」の名前に由来。 頂上には石塔があり、「ダイジョウミョウテンゼンブイッセイノトウ」と彫られている。 言い伝えでは享保11年建立。 F 烏帽子岩 昔ここで祈祷が行われていたらしい。刻印されている字が梵字であることから当初キリシタンに関係あると思われていたが、現在では修験行者と関係ありと言われている。 G 殿谷(トンノタニ、トンタン) 由来は昔の殿様で多久調所守(たくずしょのかみ)重富。1600年ごろ多久義康のもとへ養子に行くが、44歳の時に離縁され、鍋島氏の松田に蟄居。1630年、島原の乱が起こると幕府方に参戦しその戦功により鍋島勝重から許しを得、鳥坂に移ってきた。1650年頃、この鳥坂の地で病没した。その時8人の家来が殉死したため、その地に石碑を建てて霊を弔った。殿谷にはその石碑があり、多久重富の法名「久山幽エイ」がほられており、そのまわりに8個の石が置かれている。 H ウバンツクラ 「ウバ」は「乳母」で、「ツクラ」は「ふところ」という意味。つまり、「ウバンツクラ」は「乳母の懐」ということになる。 I イシクサン J イワハエダン 小森さんは一つ一つ、真剣な面持ちで、しかも積極的に話してくださる。時々、「これはこのごろ年いれて調べゆうですけど、わかりませんねぇ・・・」といってお笑いになられる。小森さんは地元の風土や歴史に関心があるらしく、ご自分の研究ノート『谷所の治水・利水』を持ってきてくださり、それを使っても説明してくださった。それは原稿用紙何十枚とあり、論文のように文章を書いてあるなかに、時折写真や図表が入っていた。写真は桂尾下、上堤などのものであった。 d:永石の水害 永石は昔から農業中心であり、そのために水はとても大事なものであり、また同時に生活を脅かすものでもあった。その為、古くから堤防を建設してきた。ほとんどは安政年間に建設された。昭和14,15年に大かんばつがあったために、その対策として昭和16年、皇紀2000年記念日に永谷堤を建設した。最近では、昭和34年7月8日の水害以来、大きい水害は無い。 e:永石の祭り 天神さん(テイジンサン)…天神、つまり菅原道真を祭る祭り。25日の道真の命日にちなんで 7/25に灯篭明かしが行われる。これは子供だけの参加になるが、 12/10に近い日曜に行われる天神祭りは、大人も全員参加できる。 天神さんは、以前は「天神川」側にあったが、明治維新後の廃仏毀釈 の時に現在の公民館に移転。 ここ永石は、鳥越と近く、環境も似ていることから、農業についても鳥越と同じような状況なのであろうか。質問してみる。 「この地域は昔から農業中心なんですか?」「そうですね、若い人も、やっぱり田畑で働く人が多かったです」「他にどんな仕事がありましたか?」「後は――山仕事ですね、木を切ったりとか」「それは、林業、ということですか?」「いやいや、林業ちゅうもんでもないです。山仕事ですね、木や石を切り出して・・・他には職人が多かったですね」「職人というと・・・・・・どんな職人ですか?」「まあ大工ですね、戦争の時は軍事工場に働きに出たりしてました」 「農業をするときに、その、共同作業というのはしていましたか?」と聞くと、 「共同作業ちゅうのはとくに・・・」と、してなさそうな感じであったが、「あの、『ゆい』とか・・・」と言い直すと、「ああ、ゆいはしてましたよ」「どんな事をしていたんですか?」「まあ、ゆいちゅうても・・・・・・田植えとか、畑仕事を手伝ってもらって、それで今度はお返しにこっちが手伝いにいくとか・・・・・・まあそんなもんですね」僕達はこの話しを聞いて、どうやら「共同作業」という言葉と「ゆい」という言葉とでは、農家の人にとっては微妙にニュアンスが異なるのではないか、と思った。おそらく前者はみんなで力を合わせてひとつのものに取り組もう、みたい感じがあるのではないだろうか。一方、後者は、農業における農家同士の助け合い、その連帯そのものを指すような意味合いが含まれているのではなかろうか。ゆいは昭和40年代くらいまであったらしい。次に僕達は農業共同組合についての質問をした。 「お米とかを、収穫しますよね・・・・・・それは、農協に出すんですよね?」 「ええそうですね、農家は農協の組合員でしたから」 「それ以前はどんな風に・・・・・?」とたずねてみる。 「それ以前は産業組合でしたね」 「なるほど・・・・・・さらにそれより以前はどうでしたか?」とさらにたずねてみる。 「その時は、米屋が買いに来よったですよ、一俵・・・5円くらいでしたね」 「その、一俵5円と言うのは安いんですか?」と聞くと、 「やすいですよー、そうですねぇ・・・・・わたしらが中学の時の、あれぁなんちゅうんですかね、月謝・・・・・ああ、授業料ですか、それが・・・まあ、月単位ですけどね、それがだいたい一月5円でしたからね」一俵というと、キログラムに換算すると、かなりのものであろう。それが中学(現在の高校に値するか)の一月の授業料と考えると、具体的にはわからないが、なんとなく安いというのが納得できる。しかしやはり、現代でいうと具体的にどのくらいの金額になるのか知りたくなり、 「その、一俵5円というのは、現代のお金に換算するといくらくらいになるんですか?」と聞いたら、小森さんは、首をひねって、 「・・・いくらくらい・・・・・・・・・うぅーん・・・」と苦笑なされた。やはり少し質問内容が突っ込みすぎたようであった。 小森さんに話を聞き始めてからもう既に一時間以上すぎている。僕達は小森さんが疲れていないかと少し気になったが、小森さんは全く疲れているようには見えず、変わらず真剣な面持ちで話しを続けてくださったので、もう少し質問を続ける事にした。 「村に電気はいつ頃から入りましたか?」と尋ねると小森さんは、 「電気は・・・」と少しにが笑いなさって「電気は・・・そうですねぇ、私らが生まれた頃にはもうあったと思いますよ」 ほか、「もやいぶろ」という共同風呂の存在の事を聞いた。充分質問を終え、また時間が遅くなった事もあり、話を聞かせていただいた事のお礼をして、帰路につく事にした。 F)おわりに 帰る頃にはもう時計は五時をさすほど。車の中で、僕達はまだレポートを書き終わったわけではないと知りつつも、それでも一種の達成感を感じずにはいられなかった。いままで、歴史の勉強というと、僕達は、大きな、歴史の大人物と呼ばれるような人を中心とした歴史の大まかな流れしか学んでこなかったといえる。また、学ぶといっても、大学などの教育機関に頼ってきたということも否定できない。しかし、今回話を伺った、森さん、尾形さん、小森さんのように、学校を終えても、自分達の住んでいる小さな地域を治水の面から村を守ろうと、また、知的好奇心のために学びつづけている事を知って、学問を志すということの意味を改めて考えさせられ、少なからず感動と希望を覚えた。そういう事も、この現地調査で得た収穫のひとつに数えられるであろう。こうして話を伺ってみるとやはり、その地域独特のもの、個性とも言うべきものが、目立たないが確かに多く残っており、また、残していこうと勤めてきた方々も、少ないが確かにいる。同時に、同じくらい多くのものが忘れられていっているなぁ、というのも実感せざるを得ない。唯でさえ、この日本という国は伝統を捨て去りつつある国なのだ。僕達は、歴史の土台を作ってきた人々の文化を忘れてはならない。 そして、今回僕が最も身にしみて感じたのは、現地の方の優しさ、人情である。楽で傷つかない摩擦の少ないコミュニケ―ションにばかり頼る、人間関係のアナログ化が問題とされる現代において、塩田町であった人々はみんな信じられないくらい親しみやすい、良い人たちばかりであった。廃れて行く歴史や文化を守っていくことも大事である。しかしそれ以上に守り抜いていかなければ行けないもの、廃れては行けないものは、この人情、人間関係における「ゆとり」のようなものではないだろうか。21世紀を迎えた現代だからこそ、しみじみそう思わされた。 今回の現地調査は、僕達の頭にとっても心にとっても、すばらしい糧になることを僕達は確信している。 |