塩田町茂手
L2−14 1EC99255G  森 英夫
1EC99262Y  山本 晋也

調査させてくださった方
蒲原良之さん(67)  塩田町大字谷所乙1349番地
吉武喜八郎さん(60)
伊藤信達さん(56)
久我尊義さん(60)

@しこ名について
茂手のしこ名は語尾に谷(ダン)がつくことが多い。つまり谷ごとに住人の人達はしこ名をつけていたようである。

茂手のしこ名一覧
茂手・・・コンゲンダン  サコンダン ナベダン(鍋谷) ワカミヤダン(若宮谷)
三本杉・・・ウマジョウダン ウマンツクダ

A村の水利について
 茂手の田は村の西側にある茂手堤にためている水を利用している。水の問題で茂手堤は塩田町にあるが鹿島市の飛び地として鹿島市の所有地となっている。今現在は入漁料を入札して権利を得て魚を入れて育てることもできる。
 平成2年の旱魃のときは水争いが起きた。そのときの反省として下流の四本谷ではボーリング工事をやって地下水をくみ上げることにした。いまもそれを使用している。ちなみにそのときにかかった費用は四千万円で深さ200m,1時間に800トン湧き出している。
 もともと9月20日の彼岸の日であったが現在は農業をやる人が減少して他の仕事をする人が増えたので9月23日の勤労感謝の日に毎年弁財祭りをおこなっている。この祭りでは5つの地区の人たちが1年ずつ交代で笛やかねをならして奉納している。あと12月には、宮産祭りというのがおこなわれている。この祭りでは昔は村の所有する田でできた米で炊いた昼ご飯を食べていた。当時は白米が非常に貴重で話を聞いた方々が子供だった頃は何日も前からとても楽しみにしていたそうだ。しかし今は世の中が豊かになって食べるものもたくさんあり子供たちはあまり祭りを楽しみにしなくなってしまった。村の伝統を守るため大人だけで集まっておこなっているそうだ。今では村の田は売られてしまっていてそのお金の利子で祭りをおこなっている。
 川には昔から田により多くの水を引き入れるために堰をつくっていた。昔は長老が堰番をして夜中に見張っていたが今では若い人たちによって行れわている。しかし基本的には水が多いときにはほとんど行われていないが少ないときは必ず行っているそうである。

B平成6年の旱魃について
 茂手に人たちはほとんど自分で米を作っているので自分の保有米があったおかげで他人に売る米が少なくなっただけで都会の人ほどの影響はなかった。
 役員たちが集まって不平等にならないように水の配分を行いまわし水も利用した。水をかってに夜中のうちにとめて自分の田に引く人もいて水けんかが発生した。50年前にこのような旱魃が起こっていたらまず対応することはほとんどできなかったそうだ。つまり米ができないのでイモ・カボチャなどを食べていただろうということだった。
  昭和37年のときは今みたいに川がコンクリートできれいに整ってなく蛇行していたので堤防が決壊して辺り一面水びたしになった。
  地区に1つずつ守護神さまがいるのでそこで昔は雨乞いをしていたそうだが今はほとんどやっていないそうだ。
 茂手の田は今では水がきちんと来るのでほとんど湿田と乾田というはっきりした区別をすることはできない。あえていうなら昔四本谷と三本谷の境は湿田として有名だったそうだ。そこで湿田には足がうまってたいへんなので田の中に丸太などを入れて田植えをやっていたそうである。あと湿田のほうが乾田より米の量が多く取れていたのでなかなかみんな湿田を手離そうとしなかった。

C耕作にともなう慣行
 耕地を有効利用するために大豆・小豆を植えていた昔は農薬がなかったため菜種油と石油を混ぜたやつを田に入れて朝学校に行く前に家族で四隅から蹴って散らしていた。

D村の発達
 電気はすでに生まれたころには存在していたのでいつごろ村に引かれたかは不明である。プロパンガスもきちんとした年はわからなかったがかなり昔から存在していたそうだ。村に来る前は山からまきやわらを取って使用していた。あと自分で山を持っていない人々は小枝などを拾って代用していた。のこくずを固めて代用している人もいた。

E村の生活に必要な土地
 今も入り合いの山は存在している。10年くらい前までは木の枝うちなどをしていたが今は燃料がまきなどからプロパンガスにかわったのでほとんど関係なくなりみんなほったらかしにしている。F米の保存
 戦前は地主さんがいて、その人の土地で農耕をしていたが、そこで獲れた作物を地主が独占するようなことはなかった。自分たちの分の米は備蓄米として確保できていた。しかし戦争中は政府米として国にほとんどもって行かれていた。
 種籾には絶対手をつけず大切にとっておいた。米倉の中などにしまっていたがネズミなどに食べられないように木の箱の中にブリキの板をはったりして工夫していた。
 食事は白米ではなく米の裏作でつくった麦を米といっしょに炊いて食べていた。おかずは有明海で取れた魚やくじらなど。あと年に数回家で飼っていたにわとりをしめて食べたりもした。しかしこんなものは贅沢でおかずがあるだけいい方だった。

G村の動物
 まず牛や豚を農耕用としてほとんどの家庭で飼っていた。オスの場合は去勢していた。理由は家畜が雑種となり弱くなってしまうのを防ぐためである。もし子牛がほしい場合は村の近くの種付け場にいっていた。また食用としてニワトリやヤギなどをかっている家もあった。

H村の道
 となりの村とかに行く場合、田んぼのあぜ道などを通っていたが、押し車やリヤカーは主要な大通りを通っていた。また山の中の小さな道にはワナをしかけてイノシシやタヌキ、ウサギなどをつかまえたりしていた。

I村の若者
 夜は青年団などに集まってみんなでワイワイやっていた。規律はあまりきびしくないが上下関係はとてもきびしかった。そこで年上の人からいいこともわるいこともおそわった。青年団の間での団結力は強く、他の青年団とけんかをしたりすることもあった。
 またある程度の年齢になると村の消防団にはいらせられた。
 しかしこういう集まりがあったからこそ地域の団結が深まり、近所の人ともたすけあって楽しく生活できていたと思う。