平山

1LA00110R 迫本 由布子  1LA00090E1古賀 奈津子  1LA00084T倉光 早紀

私たち3人は、福市さんのお宅に伺い、福市成信(フクイチシゲノブ)さん(区長)、井手正二(イデショウジ)さん(大正15年・73歳)のお二人から平山地区についてたずねました。区長さんはご丁寧に平山地区の地図も用意してくださり、それ中心にお話を伺うことにしました。

塩田町 平山地区
しこ名一覧
 水田  小字 四本谷のうちに ジョウゴト、ニノカク(二角)
     小字 三本杉のうちに ヒラキ、オンツカ、フカダ(深田)、
                ミッタ、チョウゴロウ
     小字 一本杉のうちに クボ 

補足:ジョウゴト…低地にあるので雨が降ると水がたまる。その様子が由来。
   ニノカク…二毛作もできる。
   ヒラキ…高い土地をきりひらいてできた田。
   フカダ、ミッタ…湿田なので一毛作のみ。
   チョウゴロウ…飛地。補助整備の際、鹿島市の土地と交換した。
 
その他
 溜池  小字 一本杉のうちに ヤマ(ン)ナカタニ(山中谷)
 井戸  小字 四本谷のうちに ボーリング井戸

使用している用水
 カツラオ(桂尾)溜池(大山堤)
 ジョウゾウイゼキ、ゲンロクイゼキ、ウバイデ 

  地域のしこ名については地図3を参照のこと。


1.水田について
 「区画整備されとるからもう昔の姿なんて残っとりゃせんよ。昔は細かいのもありゃ三角のもあったし、いろいろな形しとりました。だからもう詳しいことはあまり覚えとらんです。」とさんはおっしゃりつつもいろいろ教えていただきました。村内で、貧富の差はあったかと尋ねると「区画整備する前は湿田やら乾田やら、あちこちありましたが、湿田だけを持っとる人はおらんかったし、乾田だけという人もおらん。みな同じ割合で持っとったよ。だから貧富の差はなかったねえ。地主も小作人もおらんかったし、ここは米が取れんで困ることがなかった。」と答えてくださりました。また乾田では、二毛作が行われ裏作として小麦などを栽培したそうです。「とにかく昔は村の中での争い事はありゃせんかったよ。むしろ今のほうが衝突が激しいことがあるかもしれんな・・・。」と表情を曇らせておっしゃいました。同和問題にしても、今役人が掘り返してきたため、わだかまりがあるようです.昔はそのようなことはまったく意識していなかったとさびしそうでした。

 次に農薬が普及される以前の害虫対策について伺いました。「そりゃ石油ですよ。」その答えを聞いて私は少々驚き「そんな昔からあったのですか?」と尋ねると「あんた、そんな昔、昔言われても戦前のことですよ。」と笑いながらおっしゃいました。石油を撒く日を決めていたのかと尋ねると「そんな必ずやらんといけんことではないですよ。害虫が発生したときだけちょっとたらしました。家族みんなが一列になって手をつないでねえ、足でパシャーパシャー水をかけとりましたよ。」とうれしそうにおっしゃいました。

 戦前と戦後の収穫量についてうかがうと1俵ほど増えたそうです。肥料が改良されたせいもあるそうですが「昭和30年頃だったか・・・。トラクターの免許を取りましたよ。あのころから牛を飼う者も減りましたね。」昔は村では10軒ほどが牛を飼っていたようです。バクリュウという方々がおり、鹿島のカラク市場で売り買いがされていたそうです。その仕事を専門とされていた方もいれば兼業としていた人もいたそうです。

 次にあぜには何を植えていたのかをたずねると「小豆、大豆を植えとりました。みんなそれぞれ自分の家用につくっとったね。非常食品みたいなものですよ、はい。どんな土地でも利用しとったからねえ。」と答えてくださりました。ほかにも居住区周辺に畑を作ってサツマイモやブドウ、柿,スイカ、ナシなど作ったようです。「畑では今でこそ作っとらんが昔はみかんを作とったねえ。商品用でしたが。」と畑についてもお話くださいました。水田は区画整理で大きく変化したそうですが、畑は今も昔もまったく変わっていないそうです。しかし農道に大きな変化はなく昔あった道を拡張整備したとのことでした。

 また種籾の保存方法についてたずねると「戦後は倉で保存しとります。それより昔は、屋根裏で保存しとりました。」「やはり、屋根裏は湿気対策に適していたのですか?」「そうですね。」「屋根裏では、種籾だけでなく作った米も保存しとりましたよ。」とのことでした。

2.水利について
 私たちは次に水利について伺いました。「水路は今も昔も何の変化はありません。5月、8月に村総出で水路掃除をします。」「それは最近のことなのですか?どのようにやられるのですか?」「もう、大昔からやっとりますよ。土を出したり洗ったり・・・。ジュウゾウ井関・ウバ井関がおおもとですからここから始めますね。」井関の管理者について尋ねると昔のことは覚えていないが、生まれたころからはずっと平山地区の住民による交代制だとのことでした。

 「水路の出発点となる堤はなんと呼ばれていたのですか?」と伺うと「木庭にあるカツラオ(桂尾)溜池のことですね。大山堤と呼んどります。」と答えてくださりました。行事として彼岸の中日に収穫の感謝祭が今も昔も行われているそうです。

 地図を中心にして話を伺うとモデ堤(茂手)は大字モデ、フシハラ(伏原)の人々が管理しているため塩田町にある堤だが現在鹿島市が管理しているとのことでした。また、ウバ井関は平山地区の人が利用し,元禄井関はタンドコロ(谷所),特に鹿島川をはさんで北西側の地区が利用しているそうです。また,井関の近くに同じ名前の橋がかかっていました。

 昔は井関のことをイデといい昭和初期のころはコンクリートでなく,土嚢を積み上げて作っていたそうです。またイデの近くに浅瀬に下る道があり、そこで牛を洗っていたそうです。

 次に溜池について伺いました。「村の山中谷というところにありました。名前ですか?別にないですねえ。150平方ぐらいの大きさでねえ,今は農業には使っとりませんよ。防火水槽みたいなものです。」とのことでした。

 水争いについても伺ってみました。「そのようなことは聞いたことなかですよ。水で困るようなところでありませんから。」とお笑いになり、ちょっとしつこく「村同士で喧嘩らしきものはなかったのですか?」と尋ねるとにこにこしながら「村同士はないです。せいぜい村内の個人の争いですよ。それも特に目立ってなかです。」と答えてくださりました。

3.旱魃について(1)
 1998年の旱魃について伺いました。「井関からの水が減ってそりゃ,困りましたよ。上の堤を管理している人に頼んで少し緩めてもらって井関の水量を増やしましたよ。1づつ田んぼに水を入れて・・・。それでも足りんかったから排水路からポンプで汲みあげて使いました。」「じゃあ,水を循環させて旱魃で足りなかった水を有効利用されたのですね。ポンプは村のものですか?」と質問すると「いえいえ,個人のものですよ。何度も何度も水をまわしましたね。2〜3年前にここにボ〜リング井戸を掘りましたよ。」と地図で指しながらおっしゃいまいた。

 「もし,30年前,例えばポンプが普及されていなかったころに同じような旱魃があったらどのようになさっていましたか?」と質問しました。ちょっとお考えになり「30年前ねえ。・・・イデのたまり水を汲み取りにバケツを持っていきましたよ。リヤカー運んで何度も往復して・・・。特に昭和14年の旱魃はひどかことでした。」とおっしゃいました。「何かそのとき雨乞いをしましたか?」と尋ねると「昔のことだからねえ・・・。」とお答えになりました。「でも昭和14年といったら小学校を卒業されたころぐらいですよね?」井手さんに尋ねると福市さんが「覚えとりますか?」と井手さんに笑いながらおっしゃり,「うーん。大山堤の神様の話を聞いたことがあるけれど・・・。なんか雨乞いをしたと聞いとりますが実際に見たことはなかですねえ。」と井手さんは困りながらもおっしゃいました。

 また、かんかん踏み,時間踏みについても尋ねましたがそのようなことは行っていないとのことでした。

旱魃について(2)
1994年(平成6年)塩田町に大旱魃があった。この時の水のまかない方については、次のようなことを語ってくださった。井関からの水が急激に減少した為、いったん排水路に流れ出た水を個人のポンプで汲み上げて、一つの田ごと順番に何度もまわして利用した。また、上流の堤を少しゆるめてもらって、井関の水量を増加した。しかし、他の村から水を分けてもらう、時間給水を行う、犠牲田を作る、などはしなかったそうである。

その他、それ以前に起きた大旱魃についてもいくつか尋ねてみた。40年くらい前に起きた大旱魃の時には、まだポンプなどが無かったため、井関の溜り水をバケツで汲みリアカーに乗せて何度も往復して運んだそうだ。また、昭和14年の大旱魃の時はまだ御二方とも小さかったので詳しくは覚えておられないそうだが、恐ろしくひどい旱魃で、大山堤(上流の堤)で神様を水に浸けるなどして雨乞いをしたという話を聞いたことがあるそうだ。しかし雨乞いは話に聞くだけで、実際に自分たちで行ったことはないと言っておられた。

4.耕作に伴う慣行
あぜに大豆や小豆を植えることはよくあったらしい。しかしこれらは全て自家用に作られたものである。また終戦前までは養蚕も盛んで、綿を作る家もあったそうだ。「うちのばあちゃんあたりは養蚕をしよったけん、繭から糸を取ってですね、着物を織ってくれよらした。それから綿を作って木綿の着物も。」と懐かしそうに言っておられた。

また農薬のない時代には、虫による被害が発生すると家族全員で横一列に手をつないで、水をたらした石油をぱっぱと蹴って散らして虫除けにしたそうである。

5.村の発達
 平山にはいつごろ電気がきたのですか?と尋ねると、「ここはそがん田舎じゃなか。明治くらいにはきとったんやなかね。」と驚かれた。塩田町は嬉野温泉と近いこともあってか、交通の発達は早かったそうである。嬉野温泉行きのバスもずいぶん前から通っているらしい。

6.村の動物
平山に馬は一頭もいなかったそうだが、牛は10件ほどが所有していたらしい。主に農作業のために飼われ、井手の浅瀬を牛洗い場として使用していた。また、牛は鹿島にある家畜売場で売買し、老牛を売って若い牛を手に入れていたそうだ。子牛を競りに出すこともしばしばだったとか。村の中には(村の外から来ることも多かったそうだが)ばくりゅうと呼ばれる牛の売買を職業とする人たちもいたが、彼らはそれだけを生業としていたわけではなく、農業も行っていたそうだ。しかし昭和30数年ごろからトレーラーの免許を取る人が増えてきて牛は次第に減って行き、今ではその姿を見ることは出来ない。

7.村の祭り
この地域の年中行事として、お彼岸の中日9月23日に行われる大字谷所のため池祭りがある。大字谷所とは、平山地区の水源である大山堤の管理をしている地区である。これは元来収穫を祝うための祭りで、‘えがんぶりゅう’と言うかね舞を踊るそうだ。

また立春から210日目の8月31日には、味島神社で台風が来ないように祈り‘かね舞りゅう’を踊るお祭りがある。味島神社は塩田町の氏神さんで、この辺一帯の人々は味島神社の氏子になるそうだ。おくんち祭りも行われ、昔はその時狂言などが来ていたそうだが、テレビがはやりだした頃からあまり人が行かなくなり、今では役員さんが年中行事としてやる程度だと言う。

8.村の生活
昔の食生活についていくつか伺った。収穫した米は商人さんが買い付けに来ていたそうだ。化学肥料の無い頃の収穫量は、今より一俵くらい少なかったらしい。また平山は海から遠いので、魚は天秤やリヤカーで売りに来ていたものを買っていた。肉は小さい頃はあまり食べた記憶が無いそうだ。戦後はとにかく食べる物が無かったので、さつまいもや麦など何でも食べていたそうだ。食べ物を作ることが何よりも先決だったので、養蚕なども行われなくなった。しかしそれでも手元に食糧がある分しばらくはお百姓さんの方が暮らし向きが良く、町から米と物を交換するために多くの人がやってきたそうである。

農作業の他に副業があったのかを尋ねてみると、昔は‘夕なべ’というのを行っていたと言われた。‘ジンパチ’と呼ばれる笠を作っていたそうで、男性が笠の骨の部分を作り、女性が竹の皮で編んでいったそうである。

また、村の人々の生活水準にいかほど差があったのかについても尋ねた。山はほとんどが鹿島に属しているが、塩田町の人が所有しているものもある。しかしこの平山の辺りに大地主はおらず、寺の権力も強くない上、田に関しても良田悪田の差があまり無かったので、貧富の差は今も昔もそう激しくはないそうだ。同和問題ともほとんど無縁の地域であったので、国がその問題を取り上げるようになるまではあまり意識したことが無かったそうである。別に自分たちは何も意識していなかったのに役場がかえって昔のことを掘り返している、と疑問を抱いておられた。

9.昔の子供、若者の生活
子供の頃はお寺の境内、公民館のお堂の中、墓地などでチャンバラをしたりして遊んでいたそうだ。またみんなで山へ行って山桃を食べたり、よその家の蜜柑や柿、葡萄、スイカなどをこっそり盗んでおやつにしたりしていたとか。

青年期になると、結婚前の青年たち(まれに女性もいたらしい)が寄り集まって公民館に泊まり、いたずらに繰り出したりしていたらしい。この集まりをクラブと呼び、年長者がリーダー的役割を果たしていた。塩田町には谷所クラブ、茂手クラブ、長石クラブの三つのクラブがあり、互いに遊びに行ったりしていたそうだ。しかし鹿島の方のクラブとは学校も氏子も違ったので、やはりいさかいがあったらしい。これは地域根性によるものだと言っておられた。

毎年2月15日には‘花入り’と言う女性だけの集まりもあったらしく、とうきびやもちを煎ってポップコーンのようなものを作り、みんなで食べていたそうだ。

おわりに
 今回の現地調査で、初対面のおじいさんにお話を伺うということでかなり緊張しましたが、福市さんご夫婦や井手さんが快く迎えてくれたのでなんとかレポートを書き上げることができました。なかなか大変だったけど、とても貴重な経験になりました。