南下、南上、調査レポート 1EC99104P西尾裕介 1EC99076Y瀬戸貴博 聞き取りをした相手 田口浩さん 55才 諸岡鮮さん 68才
私達は7月28日に現地調査を実施した。場所は佐賀県塩田町の南下(ミナミシモ)、南上(ミナミカミ)である。のどかな田園風景が続く場所であり、村の北側には塩田川が通っている。始めて地図を見た時、南下のほうが南上よりも地理的に北の位置にあるのが不思議であったが、現地についてみるとすぐ疑問は解けた。二つの村にまたがっている塩田川の上流に位置しているのが南上で、下流に位置しているのが南下なのである。人々の生活の基盤が、大切な水を供給してくれる塩田川であることを、このことから容易に想像できる。 私達が話を聞くことになっていた人は、南下に住んでいらっしゃる田口浩さんである。田口さんは石材店を営んでおられる。まだまだ現役で、55才とは思えない非常に太い腕をしていて、まさに職人と言う感じの雰囲気を漂わせていた。田口さんのお宅に伺うと、「俺はようわからんから組合長さんのところにいこう。」ということになって、すぐ近くに住んでいる諸岡さんのお宅に行く事になった。68才の諸岡さんは、独自にこの村の歴史のことを調べているそうで、説明するに当たって自分で調べた資料を見せてくださった。諸岡さんは非常に詳しく調べられており、私達が調査する上で有益な情報を多く与えてくださった。以下より、田口さんと諸岡さんから聞いた話である。 まずこの辺りの土地のことについて説明をしてくださった。南上と南下は昔からわかれているのではなく、もともと南(みなみ)といって一つだったそうである。昔は、今の地図の様な区切りではなく、地図上で言うと式浪二区のあたりまで南の範囲であった様だ。式浪二区のあたりにも、今の南に住んでいる人達の畑があったそうである。しかし、あまりにも広いために、そこの田畑に行くだけでかなりの時間がかかり、他の田まで手が回らなくなってしまうので、最近になり、式浪二区と南はわかれたそうである。同じく南だけでも広過ぎる為に、南上と南下にわかれたのだ。今の南の範囲は、山の中心から山を囲む様にぐるりと広がっており、ちょうど塩田川がまでがそうである。南上と南下は蛍橋を境界としている。ただし、今ある螢橋のことではなく、作りかえられる前の旧螢橋が基準である。今の螢橋よりも少し下流側に位置している。 南上も南下もいくつかの「班」にわかれているようだ。南上は玉橋班、平山班、原班、里班、山の神班の五つに分かれている。一方、南下は庄ヤ班、宿(シュク)班、前平班、橋山班の四つである。班がある場所は道沿いの、人が集中している場所である。南下の、庄ヤ班の名称の理由は、昔その辺りに庄屋さんがいたためだ。また、宿班は昔その辺りに宿場があったからだ。残念ながら、残りの名前の由来は分からなかった。宿場があったということは、以前この地がとても栄えた場所だったと考えられる。失礼だが、今ではまったくその面影がない。なぜここに宿場があり、それほど栄えていたかということは、のちにわかったのだが、それはまた別の時に触れる。 班というのは最初よく分からなかったのだが、どうやら町内会みたいなもののようだ。班があった頃は、ほとんどのことを班単位で行っていたらしい。いまではもう班はないということなのだが、わずかではあるが班での活動は残っている。例えば祭りなどである。南下では班単位で祭りが行われている。それぞれの地域で祭る神様も違い、祭りの時期も違うそうだ。例えば、前平班は丹生神社を祭り、宿班は塞神社を祭るというようなぐあいである。お二人は特に塞神社について話してくれた。ここは、いわゆる子宝の神様で、安産祈願などに効果があるそうだ。いまでも妊婦さんが安産祈願に結構来るらしい。この話をしてくれたとき、田口さんが佐賀弁で、しかも早口で「サヤん神様んたい!!」と塞神社のことを説明されたので、最初は何のことかさっぱりわからなかった。あまりにも方言が強いために、わかっている振りをしてうなずくのが精一杯だった。話の前後から察して、子宝の神様のことだろうということがわかったのである。やはり佐賀弁はむずかしい。 注意しておかなければらならいことがある。ここでいう祭りとは、私達が一般に思い浮かべる屋台などが建ち並んでいる祭りではなく、本当に神様を祭る、神事としての祭りのことをさしている。例えば、一つの神社の「祭り」を例に取ると、8人くらいで神社の田を耕し、収穫物を奉納する、その後夜になってから灯篭掛けをするというようなものである。昔はメンブリュ−(面をつけて踊る祭りの行事。漢字は面浮立か)ということも行われていたそうだが、今は行われていないそうだ。 ここは地図を見てもわかるように田畑が多い、典型的な農業地帯であるので農業の事についても聞いてみた。ここには村北部に塩田川が流れている。塩田川とは、武動山から流れてくる川である。当然田の水はこの塩田川からひいている。水量も豊富であり、水源からそれほど遠くないので水には困らないらしい。二人の記憶の限りでは、旱魃で困ったことは1度もないらしい。塩田川はむしろ水害を起こしてしまうような川である。塩田川のことをインターネットで調べてみると、戦後だけでも10回以上の洪水にみまわれているということがわかった。ただし、このまちでは旱魃も洪水も関係ないようである。非常に立地条件がよいようだ。 今でこそ田畑を耕すのは機械であるが、その昔は人の力と、家畜の力だった。昔はどこの家でも牛を飼っていて、すきなどを利用していたらしい。いまでは家畜を利用する家はなく、隣町で食用としてわずかに飼っているだけになったそうだ。 「害虫の駆除などはどの様にしていたのですか?」と質問してみた。 「つまり、農薬を使いだす前のことやろ?」と田口さん。そうです、と答えると、思いもよらない答えが帰ってきた。 「昔は石油に油を混ぜて使いよったよ。」 これには正直驚いた。石油をまくと、それこそ害虫どころか稲まで全部だめにしてしまいそうなものであるが、大丈夫なものらしい。とにかく石油を使っていたそうだ。石油に油を混ぜたものを田畑にまき、稲についている害虫を叩き落す為に、そこら中をけってまわるらしい。しかし本当の大丈夫だったのだろうか。今そんなことしたら、すぐにテレビが大騒ぎしそうな感じがするのだが。昔は豪快なことをするなあ、と思ってしまった。私の母方の田舎では、農薬を使う以前は地道に回りの草を引き抜いていくだけだったらしいのだが、地域によってずいぶん違うものだなあと思った。 農協ができる前には、米の扱いはどの様にしていたかぜひ聞きたかったのだが、お二人ともそれほど年というわけではないので記憶にはなかった。少し残念である。ただ、そのかわり戦時中の話を少ししてくれた。戦時中には、ヤミ米としていくらか売っていたという話をしてくれた。直接売ると、値段が3倍から4倍になる。かなりの差だ。 話しは変わって子供の頃の話を聞かせてもらった。子供のころどの様にして遊んでいたかということを聞くと、ビーダマ遊びや独楽、ペチャ(いわゆるメンコ)などで遊んでいたということを聞かせてもらった。そういう遊びは私達もしたことがある。私達の世代では、テレビゲームばかりしているような感じがあるが、やはりそれ以外で外で遊ぶとなると、昔から伝わってきたもので遊ぶものだということを二人の話を聞いて実感した。いつの時代も子供は変わらないものであるらしい。ただ違うことは、昔の子供達は今の子供達より親の手伝いをよくしていたということである。 「やはり親の手伝いをしていましたか?」という質問をすると「そりゃ今の子達よりはしとるよ。」といって手伝いの話をしてくれた。子供達の手伝いは、畑仕事はもちろん、そのほかには風呂などを沸かすために(その当時はまだガスはきておらず薪で湯を沸かしていた)山に行って薪を拾ってくるなどさまざまだったようである。大きな山があるので、薪を探すのが難しいということはなかったそうだ。今私達に、毎日それをやれと言われると少し辛い。 話の合間あいまで「長崎街道」という言葉が何度も出てきた。地図にはそういう記載はされていないので、その長崎街道という名はどこかということを聞くと「この目の前の道たい。」と言われた。 目の前の道は道と言っても、車2台がやっと通れるくらいの非常に狭い道である。裏道と言ってもいいくらいである。これには正直ビックリした。こんな狭い道が街道でいいのだろうか? なんでも明治以前は、この道を通って長崎にいっていたそうで、多くの旅行者はここにあった宿場に泊まっていく、大変栄えた場所であったそうだ。(前述した、南下に宿と言う班が残っているのはこういう理由による。)2人は昭和7年までは鉄道が通っていたということを教えてくれた。鉄道が敷かれていたことからも、昔のこの辺りは栄えていたのだと言うことがわかる。交通網が発達するに連れて、ここにとどまる必要がなくなり、徐々に宿もなくなっていったのではなかろうか。ついでながら長崎街道について触れておく。長崎街道は、小倉から長崎までをつなぐ57里のみちのりである。江戸時代、鎖国政策のために外国と貿易できる窓口は、唯一長崎だけだった。その為、商人や学問を志す者や外国文化を伝える者など、非常にこの街道は需要が高かった。江戸へ参勤交代にいく大名行列も、この街道を使っていたとのことだから、かなりの大きさだったと言える。南(ミナミ)は地理的に長崎県のすぐ隣なので、佐賀県での最後の宿場だった。しかし、いまではもうその面影はない。いまメインとなっている道は、塩田川に沿って敷かれた県道鹿児島嬉野線である。ここが昭和2年に敷かれたということは、諸岡さんが持っていた資料からわかった。 確かに、地図を見なおしてみると、県道の沿線には余り民家が集中していないにもかかわらず、今となってはもう裏道といえる長崎街道の沿線は多くの民家が集中している。きっと、多くの家は先祖代々この道を村の中心として使って暮らしてきたのであろう。 以上が田口さん、諸岡さんから聞いた話である。一見すると、ただの農業地帯としか思えない場所もよくよく調べてみると、歴史があるということが分かって非常に面白かった。調査に協力してくれたお二方は、突然のお願いにもかかわらず非常に快く引き受けてくださって、本当にいくら感謝しても。足りないくらいである。 |