塩田町長谷
調査日:2001年6月24日(曇りのち快晴)

文学部人文学科 2年
1LT00011E 石田 利恵
1LT00047K 片山 裕美

現地調査に協力してくださった方々
 福田政喜さん;大正11年生まれ
西田國一さん;大正8年生まれ
 西田さんの奥さん;大正9年生まれ


しこ名一覧
(今も昔も地名の呼び名がほとんど変わらないという長谷であるが、その中でやっと集めることができた呼び名である。)
田畑                
   小字茅場のうちに ―イチゴウワラ
   小字臼ノ塔のうちに―ヘイクロウ
その他
   小字黒木のうちに ―ツウジャア(水源)
   小字大平のうちに ―ハナキレ(峠)
   小字臼ノ塔のうちに―カワラヤ(野村さん)         
            ―ウラミチ(西田さんの家の裏の福田さん)
   場所がよくわからないものとして―オショウコウダニ(峠)        

外部から来た人には呼ぶのが難しいと思える地名の呼び方一覧
   黒木―クロオギイ
   臼ノ塔―ウスントウ
大平―ウーヒラ
一ノ坂―イチンサカ












 現地調査を実行しようとした前日は、大雨洪水警報が発令されるほどの大雨で、TVには土砂崩れの様子がしきりに放映されていた。私たちは無事に現地にたどり着けるのだろうかという一抹の不安を抱えながら、当日を待った。
 出発の六月二十四日の朝、福岡は雨だった。私たちは、やはりあちらも雨なのだろうか、せっかく訪れるのなら晴れた中で長谷を見たかったと、少し意気消沈しながらも長谷へ旅立った。
 しかし、高速を西にひた走りだんだんと塩田町に近付くにつれ、天気は回復してきた。そこには、美しい山と水田の緑が太陽の光できらきら輝く、懐かしい光景が広がっていた。ところどころに「有田焼」の看板が見受けられ、私たちの行く場所が陶器にも関係の深い土地だという事前に調べたことを思い出していた。ちなみに、私たちが行く長谷とは、現塩田町の西端、塩田川の北側にあり、町ができるまでは北大草野村という村の一部だったという。
 武雄JCTから一般道に降りられないというアクシデントも起こったが、運転手とナビゲーターの機転で、約束通りの時間に福田政光さんのお宅を伺うことができた。
 おうちの中にいた方に「先日、お手紙を差し上げた九州大学の者です。」と名乗ると笑顔で「中へどうぞ。」と言ってくださった。この方は、今回お話を伺った福田政喜さんの奥さんだった。政喜さんは手紙を送った政光さんのお父さんで、とても元気な方だった。
 私達は簡単な自己紹介の後、和やかな雰囲気の中、早速本題に入った。まずは長谷の境界を確認することから取りかかった。見ると私達の用意していた10000分の1の地図でかなり小さな区分だということが判明した。ここからは住宅地図が大活躍した。
「長谷の地名で、今とは違う呼び名のところや地図には載っていないあだ名みたいなものはありますか?」
「いやいや、それはなか。昔からと一緒たい。甲乙丙で呼んどる。」
 私たちの目的は開始5分でもろくも崩れ去った。しかし、授業で先生があきらめるなと言っていたのを思い出し、気をとり直して他の話題から尋ねる事にした。
「では、この長谷橋に他の名前とかはありませんでしたか。」
「それはもう昔から長谷橋、元は木の橋ばってん、今はコンクリートたい。」
「では、先程地図でこの辺には地図に描かれていない小さな道がたくさんあるとおっしゃっていましたが、その名前を教えていただけませんか。」
「川はゆうばってん、道はどこの道とか何とかはなかったもんね。」
「では、川の名前を教えてください。」
「地名の名前からとっちょうもんね。『カヤバタンゴウ』とか。」
『タンゴウ』とは『谷川』のことだった。つまり、『川』イコール『ゴウ』である。
 福田さんが、住宅地図を見ながら、「ため池はなかかね。」とおっしゃった。私たちが地図の上でそれを示すと、それは『カンノンダニツツミ』であると教えてくださった。そして、昔は家の裏を『カンノンダニツツミ』からの『ヨウハシリュウ(用水路)』が流れていて、それを『カンノンダニ水路』と言っていたと教えてくださった。今では家が立ち並び、田が1・2枚しかないこの近所も、昔は全部田んぼで30枚くらいあったそうだ。
 田んぼの話が再び出たので、私達は再度地名についてアタックした。しかし、やはり福田さんの答えは昔から変化なしという事であった。
 福田さんは水利に詳しいようで、次は茅場のため池の話になった。お話によると地図には一つのように描かれている茅場ため池であるが、実は真ん中が仕切ってあり二つなのだという。私たちは、外部から来た人(ここでは地図を書いた人)と内部にいる人の間には微妙な地形認識の差があるという興味深い事実に触れることができた。
 田の水をどのようにして引いていたかを尋ねると、観音谷堤が地形的に高い位置にあることから、北大草野の田んぼはほとんどがこの観音谷堤の水で潤されていたようだ。他にも5つの水源を北大草野5部落で共有したそうだ。水車はなく、土俵で堰を作って余った水を堰き止めては低いところに水を送るという方法がとられていたそうだ。田に水を入れるのは上と下で日にちが違う。そのため、けんかをしてお互いにカーッとなって鎌で人を切り殺した人もいるそうだ。ため池の管理人は堤(つみ)の番といい、下のほうに田んぼがあって関係のある人がこまめにするため任されたようだ。
 長谷は圃場整備後、「今んごと長四角とか四角」の乾田になったが、それ以前は「ぐりぐりぐりぐりしとる」湿田で「馬・牛で耕」していたそうだ。馬や牛は「農耕用にほとんどどこでも、おらんとこはなかった」そうで、福田さんも若い頃、鋤を使っていたそうだ。
 田の消毒などは共同作業で行っていたそうだ。福田さんは「たせに行ったり、たせを受けたり。昔は隣が少しでも遅れとんなさったら、たせに近所同士で行ったり来たり。」と日本の村の古い姿を懐かしんでいる様子だった。
 昔は、肥料として明朝のくさ野草を緑肥として用いたり灰を使ったりしていた。福田さんの子供の頃『しきしま』という化学肥料が「人気のようし」たそうだ。
 今は田んぼごとにあまり差のない米の量であるが、昔も戸ごとにそんなに差はなくどの田も8俵くらいであり、万作年には10俵くらいだったそうだ。台風の時には、不作だったこともあるが、年ごとにそんなに差はなかったそうだ。そんな米も半分以上は地主に取られ,残りが小作人に労働料として渡されたそうだ。
 福田さんは雨乞いのことを1・2回あったと記憶している。近くの高い山『ジョウゴダケ』にみんなで登って笛・太鼓をドンチャンならし、祈願かたわら「きょうかあしたかあめのふう」と言ったそうだ。
 昔の衣食住については「わたしなんかもランプ掃除をしようたったい」という福田さんが電気を使うようになったのは昭和5〜6年の頃で,小学校3、4年生だったそうだ。プロパンガスが入ってきたのはかなり後になってからだと言う。その代わりにまきを使っていたそうだ。木材利用のことを『木材うろう』といって個人個人で山を持っていてそこからまきやたきぎをとっていたそうだが、山を持たない人はやましさんから木を切った残りとか枝とかを買っていたそうだ。昔は、生活程度が低かったから麦の割合が高いご飯を食べて、塩はわらで編んだかますに入れて運ばれてきたそうだ。遊びとしては、ぺちゃ(めんこ)やこま回しをやっていて、夜は家の人と世間話をしていたそうだ。今の時期には、山に行って木苺、『どらんすいちご』やくわの実を採って食べていたそうだ。
若い頃、同じくらいの年の人との交流は「青年クラブ、青年団、っちゅうて夜寝泊まりするとこがあったけんね。各部落に。そこで寝泊まりして遊んだ。遊ぶというても何もなかったけどね。」と笑いながら話してくださった。福田さんの話をまとめると、青年クラブは長谷の30何戸で構成されており、青年クラブには入れるのは高等小学校2年を卒業してからである。会員数は10数人で、奥さんを持つと青年クラブ住まいは『やむ』そうだ。そして他の部落の青年クラブとの交流はなかったそうだ。
現金収入としては、炭焼きを商売にする人が北大草野に2、3人いたそうだ。また馬を7〜8軒飼っていて荷を請け負ってカマヤキさんにまきを運搬する人もいたそうだ。博労さんがいたかと尋ねると、奥さんは笑いながら「ばくりゅうさん、おったんですよ。」とおっしゃっていた。
馬を洗う場所も川の下のほうにあったそうだ。死んだ馬や牛を食べることもあったのかと尋ねたところ、「食べよった人もおったかもね。」と答えてくださった。また、終戦の頃は連合軍に没収されるのが嫌だから茅場の堤で殺して、部落の人で分けて食べたそうだ。
福田さんに貴重なお話を聞かせていただいた後、長谷について詳しい方が他にいないか尋ねたところ、「まんまそこに向こうに見えとろ、あそこん人がまだ私より3つか大きかもんね。うちがゆったけんって行ってよか。」と教えてくださった。
福田さんのお宅を出た時すでに時計は12時を回っており、この時刻に紹介していただいた西田さんのお宅を訪問するのは失礼だと判断し、昼食をとることに決めた。外は、朝の天気が嘘のように、ここ数日見なかったほど晴れ上がっており、太陽の日差しがきつかった。
1時前に西田さんのお宅を訪ねた。お家の中にいらっしゃった方に「すいません。九州大学の者ですが、福田政喜さんのご紹介を受けてお訪ねしたのですが、長谷の昔のことについて教えていただけますか。」と言ったところ、突然の訪問にも関わらず、「どうぞ、家へ入ってください。」とこころよく迎えてくださった。先程訪ねた福田さんにしても何でこんなに親切で感じがよいのだろうと心の中で感嘆しながら、お宅にお邪魔した。
西田國一さんは、おじさんが歴史に詳しかったそうだ。また私たちがインタビューに慣れてきたこともあり、私たちは長谷の古くから伝わる地名にたどりつくことができた。おじさんは寛永(嘉永か)2年の生まれで村会議員や区長を勤めた村の有力者で、西田さんが17才の時亡くなられたそうだ。
地図には描かれていない、村の人があだ名のような名前で呼んでいる場所はありますかと訪ねる私達に、西田さんが一番最初に教えてくださったのは、『ツウジャア』だった。長谷で一番よい水が採れるところで、「ツウジャアの水を飲んで死にたか」という言葉も残っている。
先程のおじさんが教えてくれたことだそうだが、今の西田さんの家の裏あたりには、江戸時代には長崎街道が通っていたそうだ。また、西田さんが兵隊に言った前後で、三坂の位置が移動したそうだ。三坂周辺は昔は10軒ほどしかなかったが、今では200軒以上もあると感慨深げに話されていた。また、昔旧道があったところの峠は罪人の首打ちを行ったことから、『オショウコウダニ』と呼ばれていた。昔の旧道には田の中に杭を打って印をしていたそうだ。国道ができたのは明治27年だそうだ。竹林を作ったのも同じ年だそうだ。茅場の小さい溜池のところには『イチゴウワラ』という地名があったそうだ。黒木は『クロオギイ』と読むそうだ。昔は、黒木の観音谷はすべてが田であったそうだ。山には地形の影響で鼻が切れそうなほどの強い風が吹くことから『ハナキレ』とよばれている峠もある。大平は『ウーヒラ』と呼ぶそうだ。また、おばあさんのお話から、『ヘイクロウ』という地名を知ることができた。西田さんのお父さんの名前から『ヘイ』、西田さんから『ク』、弟さんから『ロウ』を取って名づけたそうだ。川は『コタジ(小田志)川』といい、嬉野と長谷の境だそうだ。
話は、続いて田や農作業のことになった。肥料として、牛糞や鶏糞を用いていたそうで、草木灰も使っていたようだ。他には、『いお(魚)』が使われていたようで、奥さんは「魚ばね干したとばね、そいばこもなしてそがんとかを売ったりしよりなさった」と教えてくださった。西田さんは、魚はたもに入れて海から運ばれてきたが、早く田に入れないと腐って、ものすごい臭いを発したそうだ。しかし、腐るからこそ肥料になっていたのだろうとおっしゃっていた。農薬としては、油を使っていたそうで、竹を一節ずつ切ってそれに油を入れ、下のほうに小さな穴をあけて油が出るようにした器具を、水の中に入れて足で水を蹴って循環させ、田のすみずみまで行き届かせ、稲についている虫を落として殺したそうだ。道具としては、すき、まがを使っていたそうだ。また、水車は小田志川のそばにある田に水を汲み上げるために使っていたところもあるそうだ。しかし、それ以外のところにある田は、福田さんもおっしゃっていたように、堰を作って水を入れていたそうだ。
青年クラブのことを訪ねると、青年団クラブだと教えていただいた。このおかげで、先程から疑問に思っていたことが消えた。青年クラブ(写真参照)は、西田さんいわく「たおるばっかしてたっとう」が、80年くらい前の不景気時代に先輩達がみんなでお金を出して買い、青年宿と言ったそうだ。その後、茅場堤に土地を寄付する人が現れたので青年クラブを新築したのだそうだ。それが、今では公民館となっているそうだ。青年クラブの活動としては、集まって部落のよいかた(町会)をしたそうだ。また火事などの時に『カセ』をしたそうだ。「お助けば願う一番よかとこ」だったそうだ。また、話し合いなどもやったそうだが、『わっかもん(若年者)』と『年寄り(先輩)』の上下関係は厳しく、他人に迷惑をかけることなどはなかったそうだ。
西田さんの家は、おかかえ馬車だったそうで、馬車を使い波佐見町の陶器工場に薪を運んだそうだ。このように荷物を運ぶ人だけが馬車を持っていたので、馬を持つ家は7・8軒だったそうだ。また、水車を使い土を粉にして、こして粘土にしたものも運んでいたそうだ。牛は田ん中だけで使われた。嬉野には、山から木を運ぶため、背中に20くらい木を乗せた『つけや牛』が「きばあ(働い)」ていたそうだ。木の売買は独特で、勘定はすぐにせず、「通い帳」に木を運んだ方が記録していたらしい。牛を洗う川は小田志川で、『ウマアリーガワ』と呼んでいたそうだ。死んだ馬は村中かかって山に埋めたそうだ。
福田さんがおっしゃっていたように、長谷にはお祭りのような行事はなかったそうだ。けれど、昭和14年頃、富永さんという方が「きばあて、きんまんになりなさって(一生懸命働いて、お金持ちになって)」、先祖の墓を作ろうとした時、ついでに長谷部落のために立派な観音様のお堂を作ってくださったそうだ。そこで、長谷の人は田を作った後に、当番を決めて用意をし、お祭りだといって集まった時期もあったそうだ。
長谷ではあまりなかったそうだが、共同作業は『イイ』と言ったそうだ。気のあった人と「ひとりじゃさばくうなか」仕事を「今日はうちんきて、あしたはあそこんちで」とやったそうだ。奥さんの出身地の嬉野では、共同作業の時、それぞれの家から野菜を平等になるように帳面につけて持ちより、肉・魚は買って、共同炊事をしたそうだ。共同炊事はごちそうを作って食べるため、お金がかかったそうだが、楽しい行事だったようで、長谷に来た時、あまりにも何もないことに驚いたそうだ。
西田さんの記憶によると、お兄さんが戦死した昭和14年に大旱魃があったそうだ。みんなでジョウゴダケにのぼり、風りゅうという鐘を一晩中交代で叩き続け、神主さんが来てお祈りをしたそうだ。奥さんは、笑いながら今の人は迷信だと言うかもしれないけれど、村のみんなのいらだった気持ちを抑える意味もあったのだと言っていた。しかし、水のあるところもあり、そのようなところにある田は豊作だったそうだ。その年、西田さんの家では8反の田を作ったが取れた米は18俵ほどだったという。けれど、その大旱魃の年にお兄さんの戦死が重なり、その戦死が大草野で3人目という戦死で珍しかったため、『米ゴウ』で米を20俵ほどもらったそうだ。その米もお兄さんの『トリ(通夜)』でほとんど使ってしまったので、また別に食べる分は買ったそうだ。
山に囲まれた長谷で物品を手に入れるのは大変だったのではないかと思い、戦前は生活必需品をどのように手に入れていたのか尋ねた。今ではもうないが昔、家の前に店があり、そこで何でも手に入れられたそうだ。そこでは、かますに入った塩も売っていたそうだ。また、行商の女の人が有明の魚などを売っていて、千綿から来るので『ちわたやさん』と言っていたそうだ。
話も終盤に差しかかった頃、息子さんが部屋に入ってこられた。息子さんは、歴史に興味があるそうで、地図に落とした地名の確認や長崎街道の位置の確認をお願いした。そして、長崎街道をシーボルトが通ったことや、一ノ坂は『イチンサカ』と呼ぶこと、近所の野村さんは『カワラヤ』と呼ばれていること、西田さんの家の裏側に在る福田さん(先ほどの福田政喜さんとは異なる)は家の裏の道にあることから『ウラミチ』と呼ばれていることを教えてくださった。
現地調査も無事終わり、帰途に着きながら、ぼんやりと窓の外を見つめていると、ふと私の地元のことを思い出した。長谷と同じような景色が広がる故郷。同じ日本でありながらも、その地方ごとに風景が変わると言う。けれど、こころのなかに広がる故郷は同じなのかもしれない。そんなことを考えながら、朝、きた道を引き返していった。
 今回、とても有意義な調査ができ、楽しく和やかにお話を聞けたのは、福田さん、西田さん両ご家族のおかげだ。最後に感謝の意を述べさせていただき、このレポートを締めくくろうと思う。