【藤津郡塩田町牛間田】

歩き、見、ふれる歴史学 現地調査レポート

1ED99022 辰野  陽子

IED99051 木崎可奈子

村の名前

 牛間田

 

しこ名一覧

田畑  小字 二本松のうちに

……前田、二の角、三の角、四の角、五の角、六の角、七の角、八の角、

九の角、道下(一の角に当たる所が前田と呼ばれていた。)

ほか  小字 二本松、黒木のうちに

……ツカマチ

漢字や由来は全くわからないという事だったので、かなり昔から残っている呼び名ではないかと思われる。

小字南のうちに

……(突っぽがし、突きほがし)

山から流れる雨水と、水路を流れる水がぶつかり土がほげているためこのように呼ばれる。

堰き止め小       字二本松のうちに……九の角の井手、井手

シュウジ  牛間田の中で北から四つに分けられている。

北から上古賀、中通り古賀、南古賀、岩崎

 

村の水利

使用している用水……井手、九の角の井手

川の真ん中に石をたて、その両側に幅約ニメートルの井手板をたて、水を調節していた。横方向には五段のしきりがあった。井手の扱いに慣れた人が井手番として井手を管理しており、部落内での交代制ではなかった。

・水圧の高いとき……大量の水が流れてくる為、一気に板を引き上げるのは無理。横から金を差し込んでそこから水を流しながら水圧を下げ、仕切を利用して徐々に板を上げた。聞いたときはどういうことかよく飲み込めなかったが、板井さんが図に書いたり身振りを交えたりしながら説明してくださったので理解できた。なかなかうまい作りになっているものなのだなと思った。

・水圧の低いとき……水圧があまり低いと今度は逆に板が浮いて流されてしまう恐れがあった。井手板は当時で何百円。

もし、高価だったため流す訳にはいかなかった。

井手番は大雨の時などは合羽を着、ガス灯(提灯)を掩って夜通し管理した。雷雨の中での作業もあり、一歩操作を誤ればどーっと流されることもあったという。大変危険な仕事だったといえる。また、あまりに水圧の強い時には井手板のそばに石を積んで堰を強化した。この堰が機械化、電動式化したのは約20年前である。堰の機械化の際に部落の人々から反対の声など出なかったのか尋ねてみると、その時は補助金が出たため反対は無かったということだった。

 

用水……冬野堤、大谷(オオタン)堤から引水。

冬野、牛間田、下牛開田の三部落で利用。

水利金……冬野:牛間田:下牛間=5:3:2

水不足の際には牛間田、下牛開田の代表者が冬野に出向いて冬野堤から水を流してもらっていたそうだ。「そんとき(冬野側は水を)やらんって言った。」とおっしゃって笑いがでたが、実際に渋々水を提供してもらったということだった。水が無ければ作物に被害が出、生活に大きな影響が出るのはどこも同じであろうから、水不足は上流の村にとっても下流の村にとっても切実な問題だったのだろう。また、堰き止め(井手)が機械化してからはそうでもないが、井手板を使っていた頃は漏水がひどかったという。堰き止められた水に関しては、現在はポンプが整備されているが、昔は「ミズグルマば一生懸命こぎよった(笑)。」ということである。

旱魅

先程述べたように、旱魅の際には冬野まで出向き水を分けてもらっていた。平成六年の大旱魃時には消防用ポンプを導入して水門の水をまいたという。しかし牛間田の耕地が重粘土の潟で水持ちが良かったこともあり、それほどの水稲減には至らなかったそうだ。旱魃というと、どこの田も同じように被害が出るようなイメージがあったが、実際はその土地によって状況が違うということで、意外だった。やはり農業はその土地の土と密接に繋がっているのだと改めて感じた。また平成六年度以前にあった旱魅時(年は不明)には塩田川から水を引いたところ塩分が混じってしまい塩害が出たそうだが、塩害が出たのは後にも先にもその一度きりとのことだった。

雨乞い……

旱魅時に近くの天満神社のお堂さんを持ち出して雨乞いをしたことが一度だけあった。

大水

この地域では旱魅よりも大水になることの方が多いということで、年に度々冠水していた。有明海の満潮と大水が重なると、塩田川を越えて冬野堤まで浸水した。牛間田はちょうど水の溜まり場(寄り水)となり、「蛙がしょんべんしたらここ(牛間田)は水に浸かる」と言われていた。

その場では笑いが出たが、「蛙の〜」と言う灘葉からも非常に頻繁に冠水していたのであろうということがよく分かった。また特にお盆過ぎに大水が出ると、ちょうど稲の穂先が膨らむ頃なので被害が大きくなるらしく、「それが一番きついもんね。」とおっしゃっていた。今ではポンプによる排水の設備が整い水もすぐ引くようになったが、それまでは「手の打ちようがなかった。」ということである。

 

村の耕地

乾田と湿田では湿田の方が多かったが、山際の九の角と井手(四の角)の近くは乾田に近かった。稲作には湿田の方が適しており麦には不向きであったが、小麦も作っていたと言われたので不思議に思い尋ねてみると、それでも作らなければ食糧が不足するため作っていたのだということだった。その際、畝あげして水はけをよくするなどの工夫がこらされていたそうだ。また山の近くにある階段状のタンナカ=あげたでは耕土が浅く、水持ち・肥料持ちが悪かったため、米があまりとれなかった。このお話からも、米作りがその土地の土の質等と密接に関わっていることを伺い知ることができた。当然のことではあるが農業と直接関わりのない私たちにとっては興味のあるお話であった。

害虫対策

農薬が開発される以前は害虫対策として油を利用していた。「油は石油だったんじゃなかろうか。」とおっしゃったので、逆に稲に害が出るのではないだろうかと非常に驚いたが、石油の量は作物に被害が出ない程度にちゃんと調節されていたそうだ。油により直接害虫が死ぬのではなく、水面に浮いた油のために害虫は呼吸が出来ず死んだのではないかということだった。田んなかに油をまいて2・3人で並んで蹴って広げていったそうである。

また、ウンカの害に関しては、火を燃やし虫をおびき寄せて焼き殺していた。まさしく「飛んで火に入る夏の虫」であったとのこと。農薬が開発されてからも依然として害虫の方が強く、時にはウンカにより一晩で一反の田んなかが全滅していたという。ポリドールができてからは害も減り、「本当にポリドール様々だった。」としみじみおしやっていた。

肥料

肥料には人糞や家畜の糞の他に大豆油の絞りかすや鰯のしめかす、貝殻の腐ったものが利用された。

戦後の食糧難の時には鰯のしめかすをまきながら、しょっちゅうこっそりとつまみ喰いをしたというほどで、味もなかなかだったよとおっしゃっており、笑いが出た。しかし逆に腐った貝殻は鼻が利かない者でも嫌になるくらいに大変臭かったということで、「ありゃあ慣れんなあ。」とおっしゃっていた。ところでこの貝は、終戦後、船を持つ人が有明海に船を出して海中に竹竿をさしておき、それに付着した貝を売って回っていたとのことである。

それを買って田んなかにすきこんでいたとのこと。

海の物が田畑で役立つなどとても意外だったが、さすがに土地の特色だと思われた。

 

米の保存

戦後三年ほどはひどい食糧難で、自家製のサツマイモばかりを食べていた程で米の保存どころではなかったらしい。食料用の米が全くなかったわけではないが、「お粥にしたんですか?」とお聞きすると「いや、お粥なんてもんじゃない。」と言われた。もっと薄いものだったそうだ。お話の中でも何度も「食べる物がないのが何よりも一番きついもんね。」とおっしゃっていた。逆に都会の人はどうやって戦後の食糧難を乗り切ったのか、不思議がられていた。食糧難といっても私たちは知識として知るだけで実感はもちろん全くないが、お話をお聞きしていると本当に大変な暮らしだったのだろうと感じられた。田畑の話ではなかったが大変印象にのこぅており、お聞きできて良かったと思っている。

・保有米(自家米)

年齢に関係なく、一人当たり年間約二俵(120kg)が割り当てられていた。(現在は一人当たり年間約80kg)ただし前述の通り、戦後の食糧難下では政府が強制的に買い取っていて、手元に残る米はほとんど無かったそぅだ。その後農協が出来るまでは直接政府田に提供していた。

・ネズミ対策

俵に米を詰めて、それをブリキの缶(カンカン)に5〜10俵入れて保存した。「人間でさえ簡単には穴ほがせんでしょぅ、ネズミは絶対人れんよ。」とのこと。又は山積みにした俵に直接もみ殼を覆い被せておき、ネズミがもぐり込めないようにしていた。

村の動物

牛間田では耕作に使用された動物はほとんどが牛だった。牛は大体一戸につき一頭いたが、まれに貸し借りも行われていた。その際部落の集会で定められただけのお礼が支払われるようになっていた。(田おこし・稲刈りにおいてそれぞれ一反につきいくら、という形で。)

また、牛は薪を取りに行く際にも使用された。終戦前後は牛を引いて二里半の距離を歩き官林(国有林)まで薪を取りに行っていた。冬なら2〜3ヵ月分はそれで食べてゆけたそうである。

祭り

天満神社で年に一度夏祭りが行われていた。(8月25日)冬野・牛間田・下牛間田の三部落が毎年交代で祭りを主催していた。従って一部落については三年に一度ということになった。その年の担当部落の青年団に所属する青年は、祭りのおよそ一ヵ月も前からにわか(芝居)や舞踊等の余興の練習をはじめ、楽しいことは楽しかったがとても大変だったということである。

お話を伺う中でも坂井さんは何度も「もう二度とはせんでよか。」と苦笑がらおっしゃっていた。参加されたのは一度だけということだったので、祭りの準備は本当にかなり大変だったのだと易われる。

今では青年団も自然消滅してしまい余興もなくなり祭りは豊作を祈願する、形式的なものになってしまっているということである。「今の時代じゃ、一ヵ月も前から準備もあるし、こんなことはできんやろうね。」としきりにおっしゃっていた。やはり時代の流れという物が確実にあるのだと感じた。

またこれとは別に、豊作祈願の「お島さん巡り」というものもあり、こちらは年一度決まった日(日にちは不明)に有明海のちょうど真ん中にある小さい岩を訪れた。これは牛間田近辺の部落だけでなく、フクドミ・柳川・荒尾など各地方から人々が集まったそうだ。

2・3隻の船に提灯を付け、行きは引き潮、帰りは満ち潮に乗ってお島さんを巡りに行ったとのこと。ちなみに「お島さん」とは娘さんの名前だったのではないか、と言うお話が出たが、それ以上詳しいことは分からなかった。

 

今回の調査でお宅に伺った坂井さんは、お知り合いの平川さんも自宅に招いて下さっており、坂井さんと奥さんと、三人の方から色々なお話を伺うことが出来て大変有り難かった。また45年の基盤整備以前の古い地図等も用意して下さっていて、調査をよりスムーズに進めることが出来た。今まで聞いたこともなかったしこ名のことをはじめ、昔の農家の様子などを聞くことができ、授業の一環としてだけでなく、色々と興味深いお話を聞くことが出来た。こういう調査でもなければ普段耳にすることの出来ないお話ばかりだった。「こういうことを知っているのは私たちが最後くらいやろうね。」ともおっしゃっていたので、調査を依頼して良かったと思った。また今回の調査と直接は関係しなかったことが残念だが、戦中や特に戦後の食糧難の時代の話を多く聞くことができ、とても為になった。今回この調査に参加して本当に良かったと思う。

 

お話を伺った方

坂井和正さん 昭和12年生まれ

陽子さん

平川正さん 大正12年生まれ

 



戻る