【藤津郡塩田町新村地区】 歴史の認識(火曜4限)現地調査レポート
塩田町新村の歴史について
1EC01212 坂本博昭 1EC01250 松元大和
僕達二人は塩田町の新村という地域を調査することになった。その新村の話を聴くために伺ったのが西明彦さん宅だった。西さんの家を探し出すことは住宅地図を用意していたおかげで簡単だったけれど、ちょっと不安だった。 そして僕達二人は隣町の三ヶ崎を調査することになっているグループと一緒に西さん宅の呼び鈴を鳴らした。その瞬間私(松元)ははっと息をのんだ。そして、その場には一瞬、張り詰めた空気が流れた。しばらくして玄関の扉が開いて、西さんらしい人と奥さんみたいな人が出てきたので、代表の坂本君が「先日連絡をさしあげた九州大学の坂本ですけど‥・」と、どことなく頼りない声で話かけると、西さんが「寒かったろー、はよあがらんね。」と言って、さっきまでの張り詰めた空気から僕達は解放された。「それにしても、どがんしてからここまできたとね。」と、尋ねられたので、「九州大学からバスで近くまで送ってもらって、そこから歩いてきました。」と答えると、「そーねー、遠かったろー。」と温かく迎えてくれた。すると、西さんの奥さんが「子どもたちの部屋で悪かけど、良かね?」と言いながら、その場所へと案内してくれた。そしたら西さんが「ほら、寒かけん、こたつん中はいらんね。」と言ってくれた。僕達はお言葉に甘えてこたつの中に入り、これまでのいきさつを詳しく説明した。すると、西さんもだいだい理解してくれたみたいで、さっそく僕達は事前に用意しておいた質問の紙を取り出して、西さんに話をしてもらうことにした。
質問の内容は以下の通りである。 1、西さんのお生まれになった年(西暦ではなく、昭和20年、のようにお願いします。) 2、新村周辺に残っている「しこ名(あざな)」。地域の方全員が知っているものでなくても構いません。この辺りはこう呼んでいたな、程度のもので構いませんので、できる限り多くのしこ名をお教えください。地図を添えておきますので、そちらにご記入ください。 3、水田にかかる水はどこから引水されているか、用水源は川か、ため池か、そして何という井堰(井樋、いかり)から取り入れるのか、その用水はその村がすべて使うことができたのか(村単独の用水であったのか)、それとも他の村と共有だったのか、共有の場合、受益する村はいくっで、何という村だったのか、配分に関して特別なルールはあったのか、それはどんな内容だったのか(例:下流の村に少し水を流すためコンクリートにはできない、昔はむしろを当ててはいけなかった等)、特別に水利が強い村はあったのか、過去に水争いはあったのか、それは村の中での争いだったのか、または他の村との争いだったのか。どこの村と争ったのか、ため池をめぐる行事などはあったのか、などを細かくわかる範囲で教えて下さい。 4、村の範囲はどこからどこまでか、どの道や水路、ホリが境界かを教えて下さい。 5、耕作に関して、化学肥料が入る前と入った後ではどのように変わったか、入る前はどのような肥料を用いていたのかを教えて下さい。 6、耕作に伴った慣行があった場合はその内容を教えて下さい。 7、共同田植えはいつ頃まであったのか、また、田植えの後のさなぶり(早苗振)とは何か、それは誰が費用を出していたのか、稲刈りの後は何をするのかを教え下さい。 8、農作業は楽しみですか、また、楽しみがあるとしたらどのようなものだったのか、逆に苦痛は何かを教えて下さい。 9、入り会い山(村の共有の山林)はあったのか、あったとすればどこにあったのかを教えて下さい。 10、米は農協に出す前は、いつ誰に渡したり、売ったりしていたのか、地主と小作人との関係はどのようなものだったのか、くず米(質の悪い米)があった場合どうしていたのかを教えて下さい。 11、福岡ではひょうろう(兵糧)米と言いますが、家族で食べる飯米は何と言ったかを教えて下さい。 12、牛や馬はいたのか、オスの場合は去勢をしていたか、博労(馬喰、ばくろう、ばくりゅう)はいたのか、いたとしたら博労は牛や馬を交換してもうけていたから口がうまかったと聞きましたが本当ですか。また、馬洗い場や馬捨て場はどこにあったのか教えて下さい。 13、村の神様の祭りには一年を通じてどんなものがあるのか、どんな組織で行うのか、全員参加か、そうでなければどういう人たちが参加できるのか教えて下さい。 14、テレビも映画もなかった時代、とくに夜、若者は何をしていたのか、男女はそれぞれどのような仕事をしていたのか、どのように遊んでいたのか、力石(力試しの石)はあったのか教えて下さい。 15、若者達が夕飯の後特に集まる場所があったとしたら、そこはなんとよんでいたのか、また、よその村の若者が遊びに来ることはあったのか教えて下さい。 16、若者達はどんなふうに男女が出会い、恋をしたのか、恋愛の自由はあったのか教えて下さい。 17、「夜這い」の風習はあったのか教えて下さい。(多少プライバシーに関わってくる質問なので、ご気分を害されるかもしれませんが、もしこの風習があったとしたら、それを知っておられる世代の方はあまりいらっしゃらないので、話せる範囲で結構ですので教えて下さい。
西さんはこの質問の書かれた紙を手にとると、僕達に向かって「これに答えればよかとね?」と言いながら、さっそく1問目の質問に答えだした。「私は昭和11年生まれで65才んなります。」とはきはきした口調で答えて下さった。 次にしこ名について聴いてみると、顔に複雑な表情をうかべて「このしこ名ちゅうのがようわからんねー。」と僕達はいきなり一番恐れていた状況に立だされた。ここでおとなしく引き下がるわけにはいかないので、僕達はしこ名について必死に説明をした。しこ名というのはあざなとも言って、例えば、昔はこの田んぼのことをこんな風に呼んでいたとか、家の人たちの間や、村の人たちの間では通用するような名前とかはなかったですか?」と言うと、西さんは昔の記憶を手繰り寄せているかのように険しい顔をして、地図を見ながら口を開いた。「そういえば、ここら辺(五木柳の近く)ば‘ゴカ’ち呼びよったもんねー。」と絶望的な状況に立だされた僕達のもとに一筋の光が差し込んできた。 それから僕達は「しこ名は20個集めないといけない。」という何だかノルマ的なものを感じていたからか、「他には何かありませんか。」と焦るように尋ねてみた。すると西さんは地図に指をさしながら「それから、ここら辺(四本柳の近く)は確か‘シードー’ちみんな村のもんは言いよったですもんねー。」と何だかとても懐かしそうに話してくれた。 僕達はプリントにも書いてあったように、今からしこ名がきっと芋ずる式に出てくるんだろうなという期待に満ち溢れていたけれども、そんな期待とは裏腹に西さんは「私はよう知らんからですねー。」と口ずさみながら、複雑な表情を顔に浮かべ昔の記憶を呼び起こそうとしていた。この時の空気は、私(松元)にはとても居心地が悪く感じられた。 そして、しばらくして西さんが口を開いた。「私も何となくしか覚えとらんとですけど、ここら辺(一本柳の近く)は確がサンジュウロク(三十六)ち呼びよったごたですもんねー。」とちょっと自信なさそうな感じで教えてくれた。「あーそうなんですか。」と僕達が返事をすると、西さんは「こんくらいしか心当たりがなかですねー。」と言って、またさっきのあの言葉を口ずさんだ。「私はよう知らんからですねー。」 僕達がその言葉を聞いて意気消沈していると、西さんが僕達に思いもよらないようなことを教えてくれた。「この近くに小国政吉さんちゅう私よいか年上の人かおるけんが、後で訪ねてみるとよか。小国さんは私よいかはここら辺(新村)のことばよー知っとるけん。」僕達はその話を聴いてさっそく住宅地図を開いてみた。すると、西さんの言う通り小国さん宅は西さん宅の近くにあったので、僕達は後で小国さん宅を訪ねてみることに決めた。しこ名のことに関してはまだ納得してはいないけれど、一つの活路を見出すことができたので、しこ名のことはひとまず置いといて3問目の質問へと駒を進めることにした。 3問目の質問内容である新村の水利のことについて尋ねてみると、「新村ん近くは鹿島川ちゅうのが流れとったけど、鹿島川は水量が少なかったけん、一本柳んにきは塩田川から水ばもらいよったもんねー。そん代わりにもらい賃として酒ば8升と米は5俵やいよったもんねー。そいで、ため池にためた水を用水路に流してからポンプアップして水を使いよったです。そーやけん、用水は村単独のもんで、他の村と水争いとかはあいよらんやったごたっです。でも個人個人じゃあいよったこともあったです。それから、ため池をめぐる行事は五本柳んとこで水神様祭りちゅうのがあいよったですもんねー。まー別に特別なことはしよらんやったけど、村のもんが集まって周りの除草作業とかはやいよったですねー。そんくらいかなー。」とさっきまでとは打って変わって得意げに話してくれた。 この流れに乗ってすかさず4問目の質問を投げかけた。「村の範囲はどこからどこまでか、どの道や水路、ホリが境界なんですかねー。」すると、西さんが「何か色ペンなかですか。」と言ってきたのですかさず色ペンを渡すと、地図に線を描きながら「だいたいこんな感じかなー。山んところの境界は難しかですもんねー。」と言いながら新村の範囲を教えてくれた。それから、地図を指差しながら「こがん風に田んぼの上でかくかくなっとる境界部分は人為的な境界やんねー。村のもんが勝手っていったらいかんけど、ここば境界にしようっていってから決めたとですよ。」と分かりやすく教えてくれた。 続いて5問目。耕作に関する質問をすると、「化学肥料の入ってくる前は鶏とか牛、馬、豚の糞や人糞も使いよったです。それとか、のりつちっていってから家ん畳の下に稲を刈ったあとの土を1年ぐらいねかせた肥料をまた田んぼに戻して使いよったです。」 6問目の質問について聴いてみたけれども、特にこれというものはやっていなかったそうだ。 気を取り直して7問目。西さんが言うことには「私か小さかった時、親戚同士で一緒に田植えばすることはあったけど、その隣近所の人と共同してから田植えばすることはなかったですねー。それと稲刈りの後は麦ば作いよったです。つまり二毛作ですねー。だけど、今は専業農家は少なくなったけんが、麦はあんまい蒔かんくなりましたねー。蒔くとこもあいますけどね。」ということだった。しかし、さなぶり(早苗振)のことは伺えなかった。 質問もだいぶペースをつかんできて8問目にさしかかったところで、西さんの奥さんがお茶とお菓子を持ってきてくれた。僕達はそれぞれお礼を言い、頂いたお茶を口にしてから、「農作業をするのは楽しみですか?」と単刀直入に聴いてみた。すると、西さんはにやっと笑いながら「農作業はきつかですよ。力仕事は年をとるにつれて難しくなりますもんねー。農作業ば楽しかて思う人はおらんと思いますよ。今だから便利な機械があいますけど、その機械も例えばトラクターは4・500万しますし、稲を刈るコンバインも3・400万しますしねー。他にも稲植え機とかもあるからですねー、だいたい1000万以上お金がかかいますよ。」というのを聴いて、僕達は皆びっくりした顔を見せた。 次に入り会い山(村の共有の山林)のことについて聴いてみると、西さんは地図に目をやりながら「確かここら辺(大谷から少し離れたところ)が入り会い山でしたもんねー。」と言いながら正確な位置を教えてくれた。 西さんもだんだんと昔の記憶がよみがえってきた感じで、「次はこいね?」と言いながら10問目の質問に答えだした。「だいたいほとんどは農協にだしよったですもんねー。そいでから政府に対して米8俵のうち6俵取られて、残りの2俵自分たちで食べよったです。中には闇米として売いよっ人もおったです。特に村のおばちゃんたちが長崎本線で長崎まで売いに行きよったですもんねー。そいで、くず米(質の悪い米)はどうしよったかというと、くず米といい米とは分けてから、くず米は中米の(下)と一緒に混ぜて味噌汁にいれたり、鶏とかの家畜の餌とか加工用に使いよったです。」と米に関する詳しい話をしてくれた。けれど、地主と小作人との関係についてはあまり伺えなかった。 次に11問目の質問に移った。僕達が「昔家族で食べていた飯米のことはなんと言っていたんですか?」と尋ねてみると、西さんは少し考え込んで「特にこれとかいう呼び方は多分なかったですよ。飯米は飯米も言いよったもんねー」と答えた。何だかちょっと期待外れな気もしないではなかったけれど、次の質問を西さんに尋ねた。 博労は口がうまかったのかという問いかけに対して、西さんは笑いながら「そりゃあー、口はうまかったですよ。博労さんのことはばくりょうさん、ばくりょうさんち呼びよったです。馬洗い場とか馬捨て場があったかどうかははっきり覚えとらんですけど、年をとった馬とか牛は博労さんがどがんかしよったごたですもんねー。」と話してくれた。 13問目の質問、村の神様の祭りについて聴いてみた。すると西さんは「清水川の灯篭があいよったですね。他には天神様ば祭いよったでず。ほら、菅原道真は知っとるでしょ。その菅原道真の分身を天神様に見立てて祭いよったです。それくらいかなー。」と言って話してくれた。僕達は「ヘー。」と関心するのと同時に、さっき西さん宅に来る時に天神様がどうのこうのと書いてある山があったことを思い出した。しかも、どうしても小便がしたかったので、その山だとは知らずに立小便をしてしまったことに対して、少しずつ後悔と不安の念がこみ上げてきた。 そんなことは忘れてしまって次の14・15問目の質問に移った。この質問に対して西さんは「昔は皆公民館のことばクラブち言いよったですもんねー。そいで村の若者達はそこに集まってから寝泊りばしよったです。将棋とかもして遊びよったですねー。そいで皆でご飯ば食べたりしよったです。そいがー、年に何度かあいよったですもんねー。確かよその村の人も来てから一緒にしよったです。」とこれまた懐かしそうに話してくれた。 そして残すところあと2問になって僕達は16問目の質問に突入した。さっそく恋愛のことについて尋ねてみた。すると、西さんはとても照れくさそうに「恋愛の自由はあったかもしれんけど、昔は見合いが多かったですねー。」と話してくれた。僕達は思い切って西さんはどうだったのか聞いてみようと思ったけれど、ちょっと図々しいかなと思いこの質問は控えることにした。 そしてとうとう最後の質問となったわけだが、この質問は本当に聞き辛かった。西さんもこの質問を聞いて恥ずかしそうに笑いながら「話しには聞いたことがあるけど・・・」とだけ教えてくれた。 何はともあれ一応一通り質問を聞くことが出来た。僕達は貴重な話をして頂いた西さんに深くお礼を言い、お土産として持ってきていた九大名物‘いも九’を渡して西さん宅をあとにした。 それから僕達はまた新村と三ヶ崎のグループとに分かれて三ヶ崎のグループは今から訪れることになっている犬尾さん宅へと向かい、僕達新村のグループは先ほど西さんに紹介してもらった小国さん宅を訪れることにした。 住宅地図を見ながら難なく小国さん宅に到着した。僕達は期待と不安に満たされた感じで呼び鈴を鳴らした。すると、しばらくして家の人が出てきて「何のようでしょうか?」とちょっと僕達を怪しんでいるような感じで尋ねられたので、「九州大学の者なんですけれど、今日お伺いしたのは新村のことについて、小国さんに聞きたいことがあるからなんですけど、小国政吉さんはいらっしゃいますか?」と聞いてみると、さっきの人が「あいにくですけれど、今出かけておりまして、夕方すぎにしか戻らないんですよ。すいません。」と言われ、返す言葉も無く「あ、すいませんでした。」と言って僕達は窮地に立だされた。だけど、やれることはやったから仕方ないと思い、何かためになることを聞けるかもしれないと思い、僕達も犬尾さん宅にお邪魔することとなった。 犬尾さんのお宅は建てられてからもう120年も経つということだけあって。本当にすごいの一言に尽きるものだった。家の屋根は藁葺きの屋根でとても頑丈な作りだった。家の中もすごいものだった。なんと家の中の柱や壁には釘は一本も使われておらず、昔ながらのはめ込み式のものだった。本当に素晴らしいつくりだった。犬尾さんは本当に人のよい方でまた奥さんとも仲むつまじい感じだった。話を聴くと三ヶ崎と新村には隣町というだけあって共通することが幾つもあったし、異なることも多少あった。 それから一通り話が終わってまだバスが来るまで時間があったので、犬尾さんが塩田町を車で少しだけ案内してくれることになった。それで、1時間ぐらい案内してもらった。その間にいろいろなことを教えてもらった。そして、犬尾さんにも深くお礼を言って僕達の塩田町の調査も幕をおろした。 今回の調査において、本当に普段じゃ決して味わうことの出来ない貴重な体験をすることができた。何だか小さい頃に、見たことのない昆虫に出会った時みたいな新鮮な驚きやまた深い関心を持つことが出来た。本当に今回の調査は楽しかったし、すごくためになったと思う。調査に協力していただいた西さんと犬尾さんには本当に深く感謝しています。見ず知らずの僕達に時間を割いて貴重なお話をしていただきありがとうございました。 またこのような機会があれば、是非もう一度行ってみたいです。 |