現地調査レポート

 

1223日、塩田町三ヶ崎の調査を受け持った我々は、事前に連絡をとり、調査の件でお伺いする事を快諾して下さった犬尾敦弘さんのお宅に伺い、三ヶ崎のしこ名等について質問をした。犬尾さんと会って、その親切さにまず驚いた。我々は犬尾さんに事前に連絡をとった際に、質問する内容をまとめて、FAXで送り大体の質問内容を把握していただこうと考えていたのだが、犬尾さんは我々の調査前に三ヶ崎のいろいろな他の方の家を回って、我々が質問する所を全てまとめて下さっていた。それでも不明瞭であった所は図書館にまで行って調べて下さっていた。そこまでしていただいて申し訳ないなと思っていたら、「自分も勉強になったもんねぇ」と言ってくださった。今回の現地調査では、本来の調査の収穫だけでなく、人の暖か味に触れることができて本当に有意義な体験であった。

 さて、本題に入ることにしよう。我々は犬尾さんに可能な限り調査の意味やその質問内容について理解していただこうと考え、事前に質問内容をまとめて17に絞り、三ヶ崎調査のマニュアルを作成した。もちろん、調査そのものを円滑に進める目的もあった。以下が我々が作成した質問及びそれに対する犬尾さんの回答をまとめたものである。

 

1、        犬尾さんのお生まれになった年(西暦ではなく、昭和20年、のようにお願いします)。

 

昭和12年生まれ

 

2、        三ヶ崎周辺に残っている「しこ名(あざな)」。地域の方全員が知っているものでなくても構いません。この辺りはこう呼んでいたな、程度のものでも構いませんので、できる限り多くのしこ名をお教え下さい。地図を添えておきますので、そちらにご記入下さい。

 

三ヶ崎には、(ウラタ、浦田)(ヤマサキ、山崎)(カミキタンウチ、上北

ノ内)(シモキタノウチ、下北ノ内)(シーヤケダ、四八ヶ田)(イチノカク、一ノ角)(タテワリ、縦割)(ロクノカク、六ノ角)(サンノカク、三ノ角)(ヨンノカク、四ノ角)(ゴノカク、五ノ角、)(ナガロク、長六)

(ニシカロク、西ヶ六)(シモダ、下田)(テンジンシタ、天神下)(タンドコワリ、谷所割)(ヨコワリ、横割)(ウネワラ、ウネ原)(デーズイ、)

という19のしこ名があることが分かった。それぞれの位置については、

地図を参照して下さい。

 

3、        水田にかかる水はどこから引水されているか、用水源は川か、ため池か、そして何という井堰(井樋、いかり)から取り入れるのか、その用水はその村がすべて使うことができたのか(村単独の用水であったのか)、それとも他の村と共有だったのか、共有の場合、受益する村はいくつで、何という村だったのか、配分に関して特別なルールはあったのか、それはどんな内容だったのか(例:下流の村に少し水を流すためコンクリートにはできない、昔はむしろを当ててはいけなかった等)、特別に水利が強い村はあったのか、過去に水争いはあったのか、それは村の中での争いだったのか、または他の村との争いだったのか。あったとすればどこの村と争ったのか、ため池をめぐる行事などはあったのか、などを細かくわかる範囲で教えて下さい。

 

犬尾さんにお聞きした結果わかったことは、三ヶ崎には単独の用水というものは存在しておらず、すべて「五町田」という村の方から流れてくる川から水を得ていたということだ。この地域では、干ばつの時などに水をめぐる争いなどが起きないようにするために、六ヶ角(五町田、大牟田、袋、福富、眞崎、三ヶ崎)と呼ばれる六つの村で、この川の水を共有・管理していたようだ。水の配分に関しては、まず、一番下流にある村から水を溜めていき、溜まったら土ろうでせき止め、次にもう一つ上流の村に水を溜めていくという方法をとっていたようだ。犬尾さんにお聞きした水に関わる話として、昔は自分たちの水を守るため夜一日中鎌などを持って、監視していたこともあったそうだ。

 また、三ヶ崎では水が豊富な時期などには、組方という地域にも水を流していたという。また、そうした時などには、水をもらったお礼として、年に一回組方が三ヶ崎の人々を自村に招待して、もてなしたりして、友好関係を深めていたようだ。

 

4、        村の範囲はどこからどこまでか、どの道や水路、ホリが境界かを教えてください。

 

地図を参照して下さい。

 

5、        耕作に関して、化学肥料が入る前と入った後ではどのように変わったか、入る前はどのような肥料を用いていたのかを教えて下さい。

 

    昔から、村には肥料が存在していたようだ。しかし、今現在販売され

   ているように、窒素・リン酸・カリが最初から配合されているような肥料ではなく、それぞれが別々に販売されており、それを自分達で配合していたようだ。また、他の肥料としては、石灰、畑には人糞、水田には牛などのたい肥を使っていたようだ。

 

6、        耕作に伴った慣行があった場合はその内容を教えて下さい。

 

農家では田植えの時、水の配分方法として時間帯別で下流の村から順々に水を分けて行っていた。(この村では、朝何時〜何時までというように。)

 

7、        共同田植えはいつ頃まであったのか、また、田植えの後のさなぶり(早苗振)とは何か、それは誰が費用を出していたのか、稲刈りの後は何をするのかを教えて下さい。

 

    三ヶ崎では共同田植えは行っていなかった。代わりに田植え加勢人のような人達が存在し、人が住んでいない土地などでも協力して田植えを行っていた。

    田植え後は「さなぶり」(この地域では「さなぼい」と呼んでいた。)という、所謂「ご苦労様会」が行われていたようだ。その費用は部落の

会計から落とされていた。

 稲刈り後は麦や大豆を植えて二毛作を行っていた。

 

8、        農作業は楽しみですか、また、楽しみがあるとしたらどのようなものだったか、逆に苦痛は何かを教えて下さい。

 

今のような機械が存在していなかった当時は、農業というのはかなりきつかったようだ。しかし、当時は生活のために、きつくても農業を続けるしかなかった。また、「さなぼり」が楽しみだったという意見もあった。

 

9、        入り会い山(村の共有の山林)はあったのか、あったとすればどこにあったのかを教えて下さい。

 

    村には、共有林というのは存在していなかったようだ。しかし、八天山(正式名称ではない。正式には南北山。)の頂上におおきな岩が祭ってあるらしく、そこだけが共有されていたらしい。

 

10、     米は農協に出す前は、いつ誰に渡したり、売ったりしていたか、地主と小作人の関係はどのようなものだったか、くず米(質の悪い米)があった場合それはどうしたか教えて下さい。

 

    収穫された米の内、残り米などは青年団が金ほしさにヤミ屋に売っていたという話を聞いたことがあると話してくださった。正式には政府機関に売っていた。

    戦後、農地改革で小作人が廃止されたことにより、今現在は小作人は存在しないが、当時は小作人が地主へ土地を借りているお礼をして、米を払うなどしていたようだ。

 

11、     福岡ではひょうろう(兵粮)米と言いますが、家族で食べる飯米は何と言ったか教えて下さい。

 

    保有ミャー(保有米)や飯ミャー(飯米)と呼んでいたそうだ。

 

12、     牛や馬はいたのか、オスの場合は虚勢をしていたか、博労(馬喰、ばくろう、ばくりゅう)はいたのか、いたとしたら博労は牛や馬を交換してもうけていたから口がうまかったと聞きましたが本当ですか。また、馬洗い場や馬捨て場はどこにあったのか教えて下さい。

 

    鋤・鍬を使っていた時代なので、牛などは農耕用として使われていたようだが、馬はあまりいなかったそうだ。また、オスの場合でも、去勢などはしていなかったようだ。(一家に一匹しかいなかったので、特に去勢する必要もなかった)代わりに村には「種付け場」という場所が存在していた。

    三ヶ崎にも博労は存在していたようだ。この村には博労は78人ほどいたようだが、正式な博労は1人しかいなかったようである。博労に関しては、やはり口は達者であったらしい。

    牛捨て場・馬洗い場は存在したようだが、馬捨て場はあったのかもしれないが、分からないということだった。場所については地図参照。

 

13、     村の神様の祭りには一年を通じてどんなものがあるのか、どんな組織で行うのか、全員参加か、そうでなければどういう人たちが参加できるのか教えて下さい。

 

    五月    「春酒飲み(ハッザケ飲み)」

    六月〜七月 「さなぼり」

「願上祭(ガンジョウジ)」・・田植え後すぐに行われる。

              昔は七月。今は六月。

    七月十五日「田祈祭(タキトウ)」

    八月二十四日「御来公(ゴライコウ)」

    八月三十一日「風日(カザビ)<子供も参加>

    九月二十日 「彼岸ごもり(ヒガンゴモリ)」

    十二月一日 「神祭(カンマチ)」

    十二月二十五日「天神祭(テンジンマツリ)」<昔は老若男女全員参加だったが、今は一戸に一人くらいが公民館で。>      

 

14、     テレビも映画もなかった時代、とくに夜、若者はなにをしていたのか、男女はそれぞれどのような仕事をしていたのか、どのように遊んだのか、力石(力試しの石)はあったか教えて下さい。

 

夜、若者達は天神山にあったクラブと呼ばれる建物に集まって(そこには女性はいなかったらしい。)、そこで酒を飲んだりしていたようだ。他には将棋・肝試しなども行っていたらしい。昼にはクラブで青年団の人達が芝居などを行うこともあった。

 三ヶ崎の若者達は、風日祭の時などにカネブリュウ(鉦浮立)に使う鉦を持ち上げて、力を競っていたという。 

 

15、     若者たちが夕御飯のあと特に集まる場所があったとしたらそこは何と呼んでいたのか、また、よその村の若者が遊びにくることはあったのか教えて下さい。

 

    夜若者達が集まる場所は天神山にある、クラブと言われるところだった。また、よその村の若者も来て一緒に遊ぶこともあったらしい。

 

16、     若者たちはどんな風に男女が出会い、恋をしたのか、恋愛の自由はあったのか教えて下さい。

 

    恋愛の自由などはあったという事だが、男女が出会う機会などは少なく、祭りの時などに限られていたということだった。また、他の機会としては、働きに来ていた男女が出会うことはあったようだ。どうやら、当時は見合い結婚が主だったようである。

 

17、     「夜這い」の風習はあったのか教えて下さい(多少プライバシーに関わってくる質問なので、ご気分を害されるかもしれませんが、もしこの風習があったとしたらそれを知っておられる世代の方はあまりいらっしゃらないので、話せる範囲で結構ですので教えて下さい)。

 

    本当の意味での夜這いというのは、あまり聞いたことがないということだった。ただ、ひやかしとしての夜這い(美人がいれば、その人を見に行ったりするなど。)はあったということである。夜這いとは関係ないが、部落の共同風呂にのぞきに行くなどして遊んでいた人もいたということだった。

 

 

一通りの質問を聞き終えて、我々がバスがくる時間までどうしていようかと考え始めていたら、犬尾さんが「時間あるならここら辺を車で見せていっちゃるよ」と、我々の調査範囲の三ヶ崎の田や、水路、下にある組方へ水を送るためのパイプ、それぞれの田に水を汲むためのポンプなどを実際に見せながら説明して下さった。非常に理解しやすくなり、レポート作成の手助けとなるものであった。

 最後になったが、今回の現地調査でお世話になった犬尾さんに、感謝の意を表したい。多大なご協力、本当にありがとうございました。そして、年の瀬の多忙な時期にお尋ねしたのに、快く質問に答えてくださって、非常に感謝しています。ありがとうございました。