【藤津郡塩田町中通】 歴史と社会現地調査レポート 1AGO6222横畑綾治 1AGO6184増田拓也 1. はじめに 2007年1月14日(日曜日)ぼくたちは、佐賀県嬉野市塩田町の中通(なかどおり)という所で、文系コア科目の「歴史と社会」という授業の一環として、地名や昔の生活についての聞き取り調査を行いました。今回の調査の目的は「失われつつある通称地名を古老から聞き取り、それを記録して後世に残す。そのほか記録されずに忘れられつつある昔の村の姿・記憶を記録する。」です。 当日は、九州大学六本松キャンパスからバスで現地まで行きました。今回の調査は僕たち以外にも、「歴史と社会」を受講している十数名が同行しており、それぞれ班に分かれ、互いに少し離れた場所を調査することになっていて、各班、調査場所に着いたらバスから降ろされるという形でした。僕たちが降ろされた場所は2軒の民家以外には木しか見えず、帰りにバスが迎えに来なかったら帰れないだろうな、と思うような所でした。 ぼくらは、ものすごい孤独感に襲われながらもすぐ近くにあった家の人に、その日話を聞かせていただく予定だった区長さんの家を尋ね、道を歩き出しました。四、五分歩いたところにあった公民館でその区長さんに会い、公民館で話をしてもらえるということだったので、そのまま公民館に入れてもらいました。 中には既に区長さんとは他にその日お話をしてくださる方が待っておられました。その後、お話してくださる人数が増え、最終的には四人の方がお話をしてくださいました。最初は僕たちはとても緊張していたのですが、皆さんがとても分かりやすく話をしてくれたおかげで僕たちも緊張せず、堅苦しくない普通の会話の雰囲気でお話を聞くことができました。
2. 炭焼きについて この地域の人たちは、炭坑で坑木として使う木以外の雑木を炭にしていたということでした。しかし、家業として炭焼きをしている人はおらず、それほど大々的に売り買いはしていなかったようです。
3. 谷について 次に僕たちは中通周辺にはどんな谷があるのかを尋ねました。僕たちの持っていった地図に載っていた 杉谷、 梅木谷(うめのきだん)、 馬来谷(地図上では、うばがたんと書かれているが、実際は、うまがたん、と発音されている)、 石割谷、 桂尾(ママ)(かずらお)、 湯ノ谷(ゆのたん)、 雨降りだん、 などの他に、地図には載っていなかった境谷(さかんだに)も教えてもらいました。また、地図での「大黒だん」の位置とは別に、皆さんが「大黒だん」と呼んでいるところは違うようで、皆さんが「大黒だん」と呼んでいるところも教えてもらいました。 また、谷についての話をしていただいていた流れで、中通周辺の地名の由来についても少し教えてもらいました。「城山」という地名は、昔この辺りにあった鬼ダラ城(おんだらじょう、「ダラ」の漢字は植物の「たらのき」の漢字)に由来しているということや、「牛坂」という地名は、牛が城へ行く道だったことから付いたのではないかということ、「湯ノ谷」は、昔、お湯が出ていたのでそのような名前が付いた、ということなどを教えてもらいました。 その他に、城山は、昔、墓石などに使う石を取っていた所で、今でもいたるところに石を取った跡が見られるという事、梅谷近くの堤は「梅谷堤」と言い、ここで昔よく泳いでいた、という事も教えてもらいました。
4. 山について 次に、山についての質問をしました。まず、この地域に林業者はおられますか、ということを尋ねたところ、おられないということでした。最近では山の所有者も山の手入れをしていないそうです。山には昔、松がたくさん生えておりマツタケもたくさん採れたそうです、しかし、松くい虫の影響で今では松が見られなくなってしまったということも言っておられました。 また、昔、松の木を使った坑木に釘をつけるバイトをしていた、という方もおられました。 昔は坑木や「たたらぎ」(松を割ったもので、燃料に使う、売られていた)に松は使われていたが、今では、松があっても使わないようです。谷間は湿気が多いので杉が生え、ヒノキは根を広げるので谷には生えないということも聞くことができました。 次に山の木の実について聞きました。山の木の実には、栗、椎、ドングリ、こうじ、カキ、山桃(やまも)などがあるそうです。 また、山で取れるカキで干し柿を作っていますか、と聞いてみたところ、作ってはいるが個人で使う量しか作らない、と言う答えが返ってきました。
5. 滝について 周辺に滝はありますか、ということもお聞きしたのですが、この辺りにはないとのことでした。
6. 水を引いている場所について 次に僕たちは、田んぼの水はどこから引いているのですか、という事を尋ねました。水は大堤から引いている、ということでした。大堤には水門は二ヶ所あり、一ヶ所は1〜2キロ下った下久間へ、もう一ヶ所は平地に水を供給していて、下久間への水路は江戸時代半ばに作られたそうです。平地には梅谷堤からも水を引いているようです。 また、下久間には、比較的高い位置に存在する畠田地区(昔畑だったが田んぼにしたのでこの名前になったらしい)があり、ここが水を得るためには大堤からの水路は欠かせないとの事でした。栓役という水当番の人もいたそうです。
7. 水生生物について 次に、生物についての質問をしました。まず、用水路や川にすんでいる生物について聞いてみました。昔はフナ、ドンポツ、山太郎ガニ(やまとろがに)日本のタニシ、ドジョウ、ウナギ、ミナ、ハヤ、ナマズ、谷ガニなどたくさんの種類の生物がいて、ミナはゆがいて食べたり、谷ガニは雨の日にたくさん出てくるので油で炒めて食べたりしていたそうです。それが今では、コンクリートで固められたせいもあり、全体的に数が減少していると、言われていました。 田んぼにすんでいる生物はどんなものがいるのかも聞いてみました。ミナ、メダカ、イモリなどがいたそうです。しかし、これらも数は減少しているそうです。
8. 田んぼについて 次は、田んぼについての質問です。最初に田んぼでは、米の他にどんな作物を作っていましたか、ということをお尋ねしました。田んぼでは、そば、綿、大豆、麦、コネギなどをやっていたそうです。次に、肥料はどんなものがあるのか聞いてみました。今は金肥(お金を払って手に入れる肥料)だが、昔はそうではなく堆肥(「つみごえ」と呼ばれている)、牛や人の糞尿、魚肥、カヤ、はさみ肥えなどが使われていたようです。魚肥というのは、たるに魚を入れて腐らせたもので、非常に臭かったようです。「カヤ」というのは山に生えている「カヤ」を切ってきて田植え後に埋めて腐らせる肥料のことだそうです。はさみ肥えというのは草を山で刈ってきて田に踏み込んで肥料にするものだということでした。このはさみ肥えは牛や馬を飼っている家では、草は彼らのエサになるのでできない肥料だと言っていました。 次に稲の害虫のことを聞いたところ、苗床(のうどこ)に卵を産みつけるタムシが害虫として挙げられると答えてくれました。害虫対策として昔は、田んぼに家族が手をつないで一列に並び、そこに石油をたらしてそれを足でけって撒き散らしながらすすんで消毒していたそうです。 また、昔は学校を休んででも子どもはタムシ取りに行かされて、たくさん取れたら先生に報告し、農協から鉛筆をもらうことができたという話も聞かしてもらいました。 次に、山の中にある田んぼについて聞きました。山の中の田んぼとしては、びやしの上の方や梅木谷にあり、一番高い所にあるのは梅木谷の田んぼだそうです。今はそれ以外の高いところにあるもう使ってないようです。田んぼは昔はとにかくどこでも開墾をしたので山にも田んぼを作ったが、高い所にある田んぼは水を得られず、雨が降ったときにしか耕せないない等欠点ばかりで高い所に存在することによるメリットは全く無いので減反政策となった今では誰も使わないのです。(この話のときに田んぼを開墾する人を「結いす」というのだ、と教えてもらいました) 次に田植え歌はあるかどうかを聞きましたが、田植えはきつい仕事なので歌どころではないと言っておられました。 また、牛が入れないような深田はありますかと聞きましたが、ないということでした。
9. 堤について 次に堤はどんなものがあるか尋ねました。地図ですぐに確認できる大堤、梅谷以外にも、ひろがくら、桂尾にもあると教えてくれました。ひろがくらは大昔からあったようですが、桂尾は昭和20年戦中に作られたといっていました。桂尾の堤の修復の負担金は耕地面積に比例するようです。
10. 共同作業について 次に、共同作業はあったかどうかを聞きました。共同作業は存在していて、「結い(ゆい)」と呼んでいたそうです。田植えや餅つきを共同でやっていて、田植えをする際は収穫時期を考えて先に山側の田から始めて順々に下の方に進んでいったそうです。
11. 馬、牛について 次に馬、牛についての質問をしました。馬が多くいたころは、馬来谷で馬を洗っていたのだそうです。また、昔は夏場に蚊の出る佐賀平野を避けるためにこの地方に馬が連れてこられていた、ということも話してくれました。馬の利用目的は馬車で窯業が盛んなこの地に材料など物資を運ぶために使われていたとのことです。馬のエサはわらと米ぬかを混ぜたものでした。牛は春と秋の農作業以外では使わなかったようです。その牛の操るときの掛け声も教えてもらいました。牛を操る手綱は一本で、掛け声は次の通りです。「止まれ」は「ワァ」、「左」は「トォ」、「右」は手綱を引く、急がすのはムチ、励ますのは「ケシ」。です。
12. 生活について 次に生活についていくつか質問しました。まず暖房について、暖房器具としては囲炉裏を使っていて燃料は山にとりに行っていたそうです。次に共有物についてもお話をしていただきました。4〜10人で共有している山をもや山、区が所有している山を区有林、2. 3軒で共有している風呂をもや風呂と呼んだそうです。 水争いのこともお話していただきました、昔、上久間と下久間との間で激しい水争いがあったが、その時は原田願海というこの土地の水路づくりを指揮した人の位牌を両者の間に置き、事を治めたというようなことがあったそうです。農家の人にとって水は非常に重要なので、大きな旱魅となれば現代でも水争いになりうるようです。(参考:写真1。写真省略:入力者) 雨乞いは雨が降らなければ頻繁にやっていて、旱魅の際には鉦浮立(かねぶりゅう)を「こくんぞさん」に持っていって雨乞いをしたそうです。 次にご飯を炊いたり、お風呂を沸かす燃料は何を使っていたか聞きました。燃料には雑木を使っていたそうです。次に荒神さんについての質問しました。荒神さんとは民家一軒一軒に祀ってあるクド(かまど)の神様のことだそうです。次に焼き畑農業は行っていますか、と聞いたところ、行っていないという事でした。次にこうぞについて聞きました。こうぞは和紙の原料になるので鍋野や大勝時周辺では今でも取っているようです。
13. 由来について 地名の由来について聞きました。「城山」、「構」、「新坂」は「鬼ダラ城」に由来、そして、「中ン舘(なかんたち)」、「小路(〈うじ)」、「血川」、「城上(じょうのお)」これらは鍋島助右工門茂治文子切腹という事件に由来しているようです。この鍋島助右工門茂治と文子は武士の親子でこの事件の詳細は「葉隠れ」という本に書いてあります。「溝原」、「よれだ」などの地名は田んぼの名前に由来しているそうです。
14. 窯業について この地域では窯業が盛んで、志田焼きという素朴な焼き物を作っています。この焼き物は焼き物通の間では結構名が通っているそうです。
15. さまざまな職業について この地域には農家の人だけでなく、いかけ屋さん(鉄、鍋を修理する人)、桶たんさん(桶屋さん)、そうけ屋さん(竹細工を作る人)など職人さんもたくさ んいたようです。
16. 風習について この地方にある、または、あった風習、祭りは次の通りです。観音講、お茶講、鉦浮立、獅子舞、供日(<んち)、田祈祷(たきとう)、早苗ぼい(さなぼい)、彼岸籠、お日待ち、親観音、子観音、孫観音、二十日正月などです。 観音講、お茶講の「講」とは一人十銭ほど持ち寄って集まった金をそのとき必要な人に貸すというシステムのことを言います。供日とは秋祭りのことで八幡宮をお宮として行われます。田祈祷とは米が育つように祈る行事のことです。早苗ぼいとはいわゆる飲み会のことです。お日待ちとは、その日だけむしろをたたんで、お日さんに休んでもらう日のことで、その日はお日様にお餅をお供えします。二十日正月とは普段大黒さんばかりを祀っていて、恵比寿さんが気の毒なので、その日限定で恵比寿さんを祀る日のことで、鮒んこぐい(フナを昆布で巻いたもの)を食べます。このように、 この地域には数々の風習や祭りはありますが、規模の大きいものはありません、これはここを支配していた鍋島藩が一時貧乏だったこともあり働く事や倹約が中心の心構えができてしまったためと考えられています。このため「佐賀ン者の通った後は草も生えぬ」という言葉まで生まれてしまいました。
17. 住まいについて この地域にはクド造り(参考;写真2)と呼ばれる特徴的な住まいがあります。なぜこういう名前なのかというと家の形がクドのように見えるからです。この造りは材木が少なくてすむように、という目的で考え出されたそうですたそうです。 ※クド(かまど)を上から見た図、この間のところに火をたく。クド造りの家も上から見るとこのようになっている。 ※クドを横から見た図、この上に温めたいものを置く(図省略:入力者)
18. 戦時中の生活について 戦争中は各家に防空壕を作っていたそうです。当時、松の根っこからとった油、松根油を軍需用に作っていたとも教えてくれました。兵隊検査は鹿島で行われていて、体のいろんな機能を調べられて、陰部まで調べられたといっていました。陸軍に出征するときは久留米に、海軍に出征するときは佐世保に行ったそうです。戦死の通知や遺骨(本人のものではない)が来たときは歌を歌い、また、出征の際には、皆遺骨としても帰ってこられないのは分かっているので、髪と爪を切っておいていくといったこともあったそうです。戦死者の家族にはお金が渡されたので戦死者のお墓は立派だったようです。兵隊にならない人も長崎や佐世保の工場へ行かされました。今回お話を聞いた方々の一人の方は、戦中、中学三年のとき工場に動員されて、戦争が終わっても山の開墾に追われ一年中勉強できなかった、とおっしゃっていました。長崎に原爆が落とされた時中通でも揺れたそうです。
19. 電気について ライフラインの一つである電気は、平地では大正14か15年には来ていたようです。しかし今回、お話を聞いた方で川内という少し山の中のところに住んでおられる方の所に電気が来たのは、昭和22年10月20日でした。その日までメタンガスの管が家中に張り巡らされていて、それに明かりを灯してかろうじて暗闇から逃れることができた、と言っておられました。地図上ではそれほど平地と距離は離れていないようなのに、電気が来るまでに大きな時間差があるので、とてもびっくりしました。また、電気が来た日を正確に覚えているのは凄いと感心しました。
20. 青年団について 青年団活動は大正時代から盛んだったようでその証拠に公民館の前に基金設立記念碑(参考;写真3)があります。しかし、現在は青年団はありません。その代わりに、50歳以下の人が入る壮年会というものが組織されています。この会は20年前に作られ、大きな祭りなどは彼らが仕切ります。この他に消防団、婦人会もあります。消防団は全員参加ではありません。
21. 他地域との交流 熊本県の天草から運ばれる陶石が中通周辺を通っていたようです。この陶石は有田焼に使うのがほとんどで、塩田町で使うものはほとんどなかったと言っていました。八幡川に水車が多くあったのはこのためです。どういうことかと言うと、田んぼに水を使わない冬場に、水車を使って運ばれてきた陶石を陶土にしていたのです。そしてその陶土を有田に持っていったのです。しかし、現在は水車はありません。
22. 塩について 戦前は牛坂の塩屋から塩を購入していたらしいのですが、戦中は馬車桶で「彼杵」まで塩水を買いに行ったようです。これが朝行って夕方かえってくるぐらい時間のかかる作業なのです。その買ってきた塩水を炊いて塩にしていたようです。学徒動員で有明海に行っていた時は塩水でご飯を炊いたといっている方もおられました。みなさん砂糖はいらないが塩は絶対に必要だったとおっしゃられていました。
23. さいごに 以上のようなたくさんの話をしていただいた後、公民館を出て、僕たちは中島哲太郎さんと一緒にこの地域の特色ある住まいであるクド造りの家と、原田願海さんの墓に連れて行ってもらいました。 その後、僕たちは歩いてもと来た道を戻り.バスを降りた場所まで向かいました。バスを降りたところで帰りのバスが拾ってくれるという予定でした。バスを降りたところに着いてから20分程待ってもバスが来なかったので、僕たちの心の中では、ここで待っていて良いのか、ほかに集合場所があったのでは、という不安が膨らみ始めていました。しかし、その5分後に無事バスが来て、僕たちは九州大学に帰ることができました。今回、皆さんから多くの話しを聞いて地名の由来に関することや、農村での昔の生活などに関して非常に具体的なことが聞けたのでホントに有意義な調査だったとおもいました。この調査で皆さんの話を聞いていて感じたのはみなさん昔の事を本当に良く覚えているなあということです。皆さん昨日のことのように生き生きと昔の事を話されていたのを見て、僕らも、年をとってもあんなふうに生き生きと昔を語れるようになりたいと思いました。 同時に感じたのはこの数十年で劇的に生活が変わったのだなということです。皆さんの昔の思い出を聞いていて、今とかけ離れた生活に非常に驚きました。この数十年は日本人にとって一番生活環境が変わるスピードが早かったのではないかなと思いました。また、森の植生が変わっていることや、水生生物が減っていることを聞いて日本人は発展と同時に多くのものを失ってしまったのだなと言うことにも気がつきました。発展すれば何か失われていくのは当たり前なので、これは仕方がない問題だと思いますし、僕らがどうこう言える問題ではないと思います。しかし、そうと分かっていても日本の昔からあった「自然」が今は変わってしまった、ということを聞くと非常に寂しい気がしました。今回聞かせて頂いたたくさんのお話をこのレポートだけに使うのではなく、今後の人生に役立てて行き、またこの貴重な話を他の人にも伝えて行きたいと思います。 公民館で昼食を作ってくれた方、そして、貴重なお時間を割いて調査に協力してくれた織田数行さん、中島哲太郎さん、橋口隆司さん、水川昭善さん(アイウエオ順)貴重なお話をたくさんして頂き、ほんとにありがとうございました。
(原本は佐賀県立図書館所蔵) 写真1(写真省略:入力者) 原田願海さんのお墓。なぜか正面が道とは逆のほうを向いている 写真2(同上)クド造りの家上から見るとクドのように見える 写真3(同上)青年団の基金設立記念碑たくさんの文字が書いてある
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