塩田町 美野の南
塩田町(美野)における昔の暮らし
□昔の農作業の様子
・大人も子供も動員しての手作業
・代かきは牛を使って行う
・水流し(田に水を入れる)の日は決まっていて、大体6/15,16頃
・立山池からの昔からの水路を使っての導水
*水役が決まっていて、水役だけが水路の鍵を管理した
*水を盗むこともあった
・田の草取りも手作業で
・稲の間の土を堀起こす『ガンズメ』という仕事
・稲刈りは鎌で
・脱穀の変遷
千歯→足踏み脱穀機→脱穀機→コンバイン
・籾と小石などの屑の選別には唐箕が使用された
□農薬
・虫除け…油をまいた
・虫送り…松明をつけて田を回り虫を引き付ける→風物詩
・誘蛾(ゆうが)…水を張ったところに蛾をおびき寄せる
□肥料
・刈敷…草を踏み込む
・堆肥…人糞尿
*当時、一反あたり4〜5俵取れた(現在10俵)
□畦の有効利用
・畦に大豆や小豆を作っていた→土地を有効に使うため
□米の出荷先(農協以前)
・米買い人がいた
・青田買い(青田売り)も行われていた
・戦時中は兵隊さんのための供出米(政府に取られる)→増産指示
□米の保存
・米保存用のドラム缶
*ネズミ対策…ドラム缶には入らない
猫・ねずみ取りによる捕獲作戦
□種籾の保存
・屋根の上に、木の箱・瓶などに入れて保存
□食用の穀物について
・米に麦を混ぜる…苦しい時は5:5、通常でも1/3くらい入る
・大豆を混ぜることも…『畑の肉』ご飯が増える
・ひえ・あわ…主食とはならず
*粟はもち米と混ぜてついたりもした
□良田と悪田
・良田…田原(ちゃーばる・川に近い平野部)
・悪田…日陰になる棚田→峡田(一反あたり3俵)
□地主と小作人
・小作の割合が多かった
・地主は良田を所有し、高い小作料で小作人に貸し付けた(5俵につき貸し賃2俵くらい)
・小作人の苦しい生活→女性の身売りも行われた
□農作業への牛の利用
・各家庭に牛が一頭いた(農作業・荷物運搬用)
・雌雄に偏りはなかった
*ばくろう(馬喰)…牛の斡旋業者
牛が必要になれば連れてくる
年老いた牛は交換してくれる
□平和
・泥棒は少なかった
・まれにあったが、それは心得の悪い者が行ったこと
□村外との交易
・魚…行商人(海近く,長崎辺りから)が天秤棒を担いで持ってきた
かまぼこ,ちくわもそこで入手
・塩…専売制により、許可を受けた特定の店にしか売っていなかった
安く手に入った
・砂糖…専売ではないが、塩同様に店で購入出来た
・日用品…小さな小売店で購入(針,ゴムなど)
□農作業以外の収入
・郵便配達,看護婦,土方(土工,*水害対策),日雇いの仕事
□村の発達
・水道…普及したのは最近の事(平成あたりから) *まだ水道のない家もある
昔はどの家庭にも井戸があった
布手では塩田川からの水を汲んで使用 *川の汚染により現在使用禁止
・電気…電気が村に来たのは昭和5,6年頃
それまではランプ生活
・ガス…プロパンガスの普及は大体昭和30年頃
風呂・ご飯はたきものを燃やして
*焚き物を集めるのは昼間の女性の仕事だった
□祭・儀式
・流行病の時はお寺の大きな数珠を村人みんなでまわす
・おやまさん…4月5日に行われる氏神様の祭
男性の踊り(めんぶりゅう)
女性の踊り(化粧して着飾って)
・秋祭り…豊作に感謝する
出店など
・ほんげんぎょう…正月に行う
お飾り(しめ縄など)を持ち寄って一斉に燃やす
・もぐら打ち
□交通
・村の外への3ルート… 山越え(嬉野方面)・近道・大通り
・通学路…各自で一番の近道を通った *現在のようなスクールロードはない
□若者の生活
・農作業以外での仕事…(男性)土方
(女性)女中 などとして働きに出たりすることも
・夜の仕事…(男性)休み→昼は重労働だからか?
(女性)繕いもの,縄作り→ムシロ織り
・青年会の活動…クラブ(男性が集まる所)
力試しには、相撲・綱引き・運動会
・よその村との交流…よそから若者が訪ねてくることはあまりなかった(妨害したわけではない)
□恋愛
・男女7歳にして席を同じくせず
・男女の交際には後ろめたさがついてまわった
・自由恋愛は厳しく制限された
・結婚は古老の紹介による仲人結婚が多かった
□旱魃の乗り切り方
・1994年の旱魃ではやはり枯れてしまった田んぼが出た
・塩田川流域の田原(ちゃーばる)は水が豊富なのでさほどの被害はなかった
・塩田川の水を消防団が汲み上げて農業に使用した
□水害との戦い
・昭和37年7月8日…大水害(7・8水害)→護岸工事が進む
・有明海が満ちてきて、川の水が下流から上流へ流れたほどのすごい水害だった
・死者も多く出た
蒲原タツエさん インタビュー
ね、バスで地名の呼び名が今いんさっとこと色々違うわけね。
国定教科書に載ってるような地名じゃなくて、その地区によって違う言葉で
言う場合がある。
それで、そいば間違わんように、知らん人が訪ねて来てもちっとも間違わんでバス停に
降りられるように、名前に平仮名を書いとって下さいという事を言うた事があります。
やっぱ知らん人の聞きね、「ナベノ」っていう所も、もうずっと先ね、そんでここ辺り
「宮ノ元」っていう、それが当たり前の事であるけどね、ここ「美野」っていう所だけど、
歌なんか詠む場合には「ウマシノ」って読みんしゃ。
(「ウマシノ」…ですか。)
いやぁ、本当は「美野」って言うけんよか。これ(録音機)に聞いてるからよかね。
その今のは「ウマシノ」っていうのはね、特定の歌なんかで言う事であるから
いいわけで。
そげ、ここの塩田町でまず聞きたい地名はどこ?
(えっと、あの畦川内の辺りの事を伺いたいんですけど)
うん、「アゼガワチ」
(ああ、「アゼガワチ」って言うんですか)
「アゼガワチ」って。「アゼゴウチ」ていう。すぐ隣のね。
そん珍しかったけん聞きんさった? 「アゼゴウチ」ち名前が珍しかった?
(いや…あの、塩田町の色々な所をそれぞれどこを担当して下さいっていうのがあって、
五町田の辺りの担当の人もいるし、宮ノ元の辺りに行く人もいるし、で、私達がこの…)
美野…いや、畦川内。…そいで?
(それで…その畦川内の辺りの、地図に載っているのとは違う…田んぼとかの名前で、
この辺りでの通称として使われている名前っていうのをできるだけたくさん伺って
記録しようというのが今度こちらに来た目的なんですけど)
…そうですか、そいで? …地図ば今、見せて下さい。
<地図を取り出して広げる>
(…と、ここが美野です…ね)
ここを「ミナミ」て言うと。「美野の南」ていう。同じ美野でももうちかぁっとこっち
行くとね、「ヘタの南」っていうとこないよ。「オオクサのヘタのミナミ」て、そんな所が
ちょうど同じ「南」。で、「美野の南」ですよって言わんばね、んーなかと。…そいで、
実はね、ここ…美野っていう所は五町田地区の…五町田の飛地っていう。
例えばあの…五町田は川はどういうかね? <地図の上を探す>
(あ、これはちょっと…<縮尺が小さい方の地図を出す>この地図の方がいいと…)
そば見せてんしゃい。広か方ば…塩田町全体が描いてあるわけね。
そいで塩田川ばどっちになると…?
(これです<地図を指す>)
<川をなぞりながら>…ここば通って、そいでこの唐泉橋(トウセンバシ)ば渡って
来んさったろ?
…ここは布手っていう。昔の長崎街道がね、この唐泉橋の
この山手の方すうっと通ってね、そしてこの布手に粗末な橋を――今はもうないけど――
布手に通って行ったんですよ。布手。ここんたい、長崎街道は布手を通っていったと。
ここ「ヨシウラ」って言う所よ。
どら、こい(地図)ば見せんしゃい。
そして、あなた達、地名ば聞きたかてんさばてねー。さいぎ、聞くだけ聞いて下さい。
そいが第一だから。
よか勉強したねえって言われっとね。ここは五町田の飛地って覚えとかんば。本当はね、
橋…川がこう…あってここに五町田っていうところが…ある。<図を書きながら説明>
とするとね、ここも塩田地区、こっちも畦川内も塩田地区。あの小字よ。
小さな字があるでしょ。
塩田地区。ここも塩田地区。そこん中にね、ここを通り抜けてね、ここに美野ていうとこ。
ここ(五町田)の管轄内。なぜかっちうとね、ここ(五町田)に田んぼがあるの
ここ(塩田地区)の人が美野を持ってるためにね、水がここに流れてくわけ。そいで
水をもとんだったら私たちがここんとにばっかり水を、ここの塩田川の豊かな水を
入れるっていうことだからね、美野があるとここんとがやらんていうた私たちがここを
せき止めてあんたたちやらんよって言うから昔ん人はいいことぁ考えてね、ここ、美野を
五町田ん中の飛地(にしたんです)。
そのほかに聞きたかとはどなっと? 質問ばいろいろしんしゃい。
(あの、田んぼの名前の、田んぼの通称としての名前ってのがあるそうなんですけど、
地図に、〇〇町とかいう地名とは別に、通称として…)
田んぼ?
(あ、あの…「今日はどこどこの田に水を入れる」とかいうような時に使う名前
だそうですけど…なんか、「しこ名」とか「あだ名」とか「こな」とか「ほのぎ」とか…)
「しこ名」ね、「あだ名」ね。
(そういうので、この辺では何て言ってるんですか?この辺では、その通称の地名に
ついて、「しこ名」って言いますかね?)
いや…「しこ名」…何の「しこ名」?
(…と、田んぼとかの…田んぼの名前…)
田んぼはねぇ…。平地をね、「チャーバル」っていう。「大原」て書いて「チャーバル」
この辺は「しこ名」、「チャーバル」て…大原。だけどしこ名で普通この辺では
「チャーバル」ち。
そいからね、私も実は東京になご住んで、東京の大学卒業生。そいで東京に就職したり
して東京に暮らして。結婚も東京におったと。って終戦後に来たからね。そいでここに
来たら、あなたが今いんさったことしこ名でここんたいの者言うでしょ、そいで
「セノカワ」っていう。「セノカワ」てここのうちにもんが言いんしゃとよ。
「今日はセノカワに仕事しよ」て。そい、うちの「セノカワ」はどこじゃろかーって
私東京者じゃけ知らんと。そいで皆さんに会うもんごとに
「あたーし、あの、仕事しにセノカワに行っとんさってだけど知らんけん、
あたしんとこのセノカワどこでしょうか」ってもうしょっちゅう聞いてた。
そいからね、色々あったよ…。んー…ここをまぁすかっ…と山手のおぎね、
「イチノコ」ちて。
「一つ越え」て書くと。「一ノ越」て書くとーねえ。この辺で方言ではね、「イチノコ」ち。
あの、「一ノ越」。そい、「イチノコ」ちて。「一の越ち越ゆ」ち言ってね、ずうっと山ば
一ちょ越え、二つ越えて、昔は山ん中にかくし田ちて、明治時代からあったて、
…あの、税金ば納めんで田ば作っとこの。そいでいちばんうちで越えた山ば
「地蔵山」ちうとの…。こうずーっと(山が)あって唐泉山ちうとこたっかき、そげこう…
越えてこの山ば一ちょ越えたところが「イチノコ」ち。
もういっちょ山ば越えたとこが「ニノコ」ちいうて…その越えていうとこ「イチノコ」ち。
(あの…よろしければ、…その、「セノカワ」とか、そういう名前が具体的に
どこのあたりを指していたのかも教えていただけると嬉しいんですけど…)
それはね、「セノカワ」っていうとはね、ちかあっとひくだん(低い段)じゃったわけ。
左からも右からもね、水がよってきて…よって来る。下ん段がね、「セノカワ」ていう。
そいか、高いところがね、「ホンデン」ていうたよ。「本田」て書いてね。
あ、本田は「ネズミダニ」ていうね、あの…こんな…花が…いっぱいツツジの花が咲く
山がある。こんな<シャツを指す>赤い花が。ツツジの…花がいっぱい咲く。その山は
「ハナサキヤマ」ていうと。「ハナサキヤマ」ちうとこもあったとよ。そいでそのね、
この辺のしたんばの、デンチ、田地。こいは「ネズミダニ」ていう。やっぱこっちの山が
この地蔵山よね。こっちに地蔵さんがあったからここは「地蔵山」ていう。
ここは地蔵さんがおんさ。…まつっちゃる。そいでこの山を地蔵山…そいばここは
地蔵山ばいっちょ越ゆき、「イチノコ」ちやろ。土地の名前ね。そいからここは花が
いっぱい春には咲く山を「花咲山」ちゅうて。その下んほうは地蔵山とこちらと、
あの…はさまれとん「ネズミダニ」…鼠…ね。ここを「ネズミダニ」ていうたと。
(えーと、地図でどの辺ってのは大体わかりますか?)
いや、そいからねえ、ほら何か…桑原畜産牛肉カット工場っちっとば、
私ぁ教えたでしょ?あのちかっと先はね、…あそこ何ていうたかね…。「イチノコ」ち…
あそこの、何とかっていうたけどね…。
あのこう…ほらね、必ずね、あの…ん…とこう唐泉橋渡ってから美野のほうさん
こうくぎね、…あそこ何ていうたかね…あそこも何とかっていう特別な地名が
あるんですよ。
あんたたちは地名だかい聞きにきたと?
(地名と、あとは…昔の水利慣行についてと、あと昔の暮らしですね。
…とりあえず、地名を地図に残したいということなので…)
うち今ね、あたしとこのかいったとこのあるけんね、あのーあんたたち、あそこんとこの
土地ん名前ば、…そいばやっぱいもうばあちゃんぐろいなあきね。わしずっとよ。
ねえ。「イチモイ」て。昔あそこにこんもり森があったらしか。今はないけどね。
「イチノモ」ちて。あそこは。あっち山を越えた「イチノコ」し…
「一ノ越」じゃったえどね、「イチノモリ」て。あそこんとこは森だったらしか。昔はね。
(「イチノコ」の辺りですか?)
あのね、唐泉橋を渡ってね、<地図を指しながら説明>あの…こう…来るぎ、
あっちさん行くととこっちさんっと登って来たでしょ。その…桑原畜産のあるここんとこ。
あっちさ、こっち三叉路に…上さ行くとこある。…あそこん所をね、「イチノモリ」て
「イチモイ」て。「イッチモイ」ていうた。
「イッチモイ」て。あの、「イ・ツ・チ・モ・イ」てカタカナで書きんしゃい。
昔森があったんじゃろーで覚え。それから?
(えーっと、今のは?)
<地図上で位置を確認>
は、ここをこう…ね。ここん所。ここい森があった。「イチモイ」て。
はぁ「イチモイ」てそこ。「イチモイ」…「一ッ森」て書きんしゃい。あの…地蔵山ば
いっちょ山を越えた向こうん方は、…いっちょ、何て言うたかね。
(あー、「イチノコ」ですね。)
…「イチノコ」ち。「イッチモイ」と「イチノコ」ちいうた。そいから「セノカワ」。
「セノカワ」水がよってくっとこ。そいから…「ヒラ」っちうの。高い所が「ホンデン」で、
そいから花がいっぱい咲く山は「ハナサキヤマ」。その下ん方の田地はなっとこ
「ネズミダニ」ち。…ね、そいから?
(えっと、それはこの地図でどの辺りになるのかをちょっと…例えばこの地図とかで
その「セノカワ」って呼ばれていた辺りは…地図ではどの辺になるのかっていうのは…)
<地図を何枚か取り出す>
はぁ…これではね、この…ちょうど美野のこっちの…南のところんなるからね。
あの山は、…桑原畜産…あ、これがこうなってるわけ? あ…五町田じゃないよ…
馬場下でもない…。こっちの山…
(…と、これじゃ狭いかな…)
あ、五町田っていうことは、ここはヘタの部落ね。あー山がこっちたいね…。
「タチヤマ」ち…。「タチヤマツツミ」ち…。「立山堤」て書いてあるけどこれ「タチヤマツツミ」
ていう…。「タチヤマツツミ」 あぁ…こりぁ…この辺じゃろ。こい「イチノコ」ちはこの辺
じゃろね。この山の、この辺が「イチノコ」ち。そして、桑原畜産の…はぁ、
よう書いちゃんねぇ。
ここを「イチモイ」ね。「一つ森」で「イチモイ」。
<地図の上をじっくり見ながら> …こいが「一の越」。
そぎ、そのほかにぁ、まだ…何じゃったかね、聞きたいこと。
(そうですね…畦川内の辺りでそういう名前をご存知だったら教えていただきたいん
ですけど…。畦川内の辺りで今の「イチノコ」「セノカワ」みたいな…)
「ウレシノゴエ」ちとも言うよ。嬉野に行く山。向こぅ〜の山。「ウレシノゴエ」
こっちから見んば、「ウレシノゴエ」ち。こっちから越えていくち。
(あぁ、越えて嬉野に行くから「嬉野越え」)
…それから?
(もっとしこ名について…たくさん記録したいので知っている限り教えてください)
人間のしこ名じゃないちね? 土地のしこ名。…おかしいねぇ。やっぱい…
あったったよ、昔はね。今は開発されてこんなね、なくなってるけどね…。
(開発されて、整備されてしまう前のそういう名前を集めている所なんですよ)
ずっと昔の名前…ね。今じゃなくて。…立ち消え…消えよ。私でもほら、ながーく
そこんため呼ばんから忘れるわけ。ね。「セノカワ」でも忘れる。昔はうちの「セノカワ」
どこじゃろかーちって(探したものだけど)…。
平地のことは一般にね「チャーバル」て。「チャーバル」もきゃーとき(書いとき)なさい。
大事かよ。
(平地を一般に「チャーバル」って言うんですか?)
平地の田んぼのことを一般に「チャーバル」と言う。「大原(たいばる)」ときゃーて(書いて)、
「チャーバル」ち。それからね、あの…大体がね、こちらから嬉野の方に向うては「カミ」て
言う。そいから塩…五町田の方こっち、川の流れの下の方向かってはね、「シモ」て言い。
川の流れんごと、上の方を「カミ」て言って、川の流れていく方を「シモ」て言う。
私たちん所ね、あっち(五町田方面)の人たちは「シモから来んさった」て言う。そいこと。
(<地図の嬉野との境界付近を指しながら>「ウレシノゴエ」っていうのは…ずっとこちらの
方なんですか?)
ここから向きこう…あそこん方が嬉野だけど、嬉野の方角の山ん方指して「嬉野越え」って。
<地図上の立山池を見ながら>「タチヤマツツミ」もあんね。そいからまだ…そのほかも
思い出していいから、まいちはどがんことやったかね。
そのしこ名と、そのほかは(質問はどんな事?
(ほかは…そうですね、田んぼに入れる水をどの辺から取っていたのかとか、そのことに
関する慣行とかそういうことも教えていただきたいんですけど)
そいのはね、ここの上の方にね、「イデノカミサン」いうてね、あの…ハシヤマっていう…
ハシトヤマっていう所があってね、「ハシヤマトウゲ」。そこがこう…ちかぁっと上り坂に
なって峠になっ。そこから向うが「オオクサノ」で、その「ハシヤマトウゲ」からこっちが美野。
そこの「ハシヤマトウゲ」のね、まぁ峠を境にしたこう…下を見た所にね、「イチノイデ」が
ある。そこには「フウリュウバシ」てね、いつも水ばもらってただでできるから、鐘や太鼓や
笛を鳴らしてお礼にきんさっ。この…九月の一日と、そいからお彼岸のみていっちって、
ちょうどお彼岸の終わり。25日か6日頃ね、お礼参り。
必ずそこにはフウリュウバシんさった。そんなことがある。そこから水が流れてくるわけ。
(イチノイデからですか)
うん。そいからこの辺は高い土地だからタチヤマツツミから水が流れてくる。
<地図上の「立山池」を指して>(タチヤマツツミっていうのはこの辺りですか?)
タチヤマイケ…こっから水が流れてきます。こっからちぁんと部落の役員たちがね、
ここに線があって、何処にでも水が行くけん流しんさわけ。そこと、このちらの田んぼは
塩田川のそのイチノイデ、あそこから堰を(通って)流れてくる。そいでその堰ばとんっき、
水ごいかんわけ。そけ、その美野ていう所、他ん所を飛び越えてあるわけ。
下ん方(したんほ)に水が欲しいから、ね。そいこと。(この辺は)上の方にあるわけ。
(ハシヤマトウゲっていうのは(地図上では)どの辺りなんですか?)
それは…(地図の塩田川を上流の方になぞりながら)ここからこう…どんどん嬉野に
向かってね、川に沿って上ん方登ってくわけ。そしてね、唐泉橋からもっとどんどん
どんどんこう(上流の方に)行ってハシヤマトウゲって。その峠の所から真下を見き
そけいでがイチノイデがあるっと。そこから水が来るわけ。
<「ハシヤマトウゲ」は持参の地図からは外れていた>
(水利慣行に関して取り決めなどはあったのですか?)
だいでん扱うことって役員の決まって、水役の人がね、かりゅうを持ってその田んぼの
水は堰の水か溜め池か、また塩田川のイデゼキ――イデゼキていうね、イチノイデゼキ、
ニノイデゼキ――そこから水は取る。
(…と、その水役の人が、堤から引くか、溜め池から引くか決めるんですか?)
ほかん人は扱うことなんと(できない)。勝手にとっちゃいけない…けれどこれが
流れてきやんけんね、水ば盗むちゅうてね、真夜中に行って、自分の田んぼにこう…
隣から流れとっとば、自分の田に入れちゅうた。
「水盗む」って。私ね、よく短歌を作るからそれを詠む時に…(使います)。
そぉ…っと行っとけね。自分のうちにちかっとでん水が入ってから(田植えが)できるから。
もう今はね、水路ができてそんなことせんでもよかごと流れてくいや。
(1994年だから6年前に大旱魃があったのを覚えてますか? その時はこの辺では
どうなさいましたか?)
あのね、私の田んぼはね、もうあまりみなかったから枯れた。うちの田んぼは
ほとんど枯れて。何処の田んぼでも私の田んぼは枯れた。けれども塩田川流域の
チャーバルの方はね、塩田川の水は確かに水量が多いから……高い所に上げられん
でしょ、水は。だもんだから堤の水はもうなかったよっていうごとなったもんだからね、
枯れた。そいで消防団が来て塩田川の水からホースば長ぁーく引っ張って枯れる寸前に
水やったけどもね、もう地割れがして、それでもう…稲が助からんやった…
枯れっしもた。大旱魃やった。そいでもね、そんな旱魃の時ば米はね、かえって
あったって。かねてはあんーまり水ば入れすぎてね、旱魃でお天道さんの恵み。日がよく
当たったために米がたくさん獲れたっていう話。しかし枯れてしまった田んぼも
だいぶあった。随分枯れたよ。
(ではその、お米がたくさん獲れた田んぼというのは塩田川の近くの開けた所で
水を塩田川から引けたから、稲が枯れないですんだんですか?)
うん。塩田川の近くはね。枯れんでよかったわけ。塩田の、井堰から来た田んぼは
助かったわけ。そいで川の水はどんなに大切であるかっていうことがわかる。ね。
でも川の水の恐ろしいこともあるよ。水害で、氾濫して塩田の町がいっぱい水浸しに
なった時もあったから。
(それは最近ではいつ頃のことですか?)
あの…昭和37年7月8日。7・8水害っていう。もう家のほとんど軒下までいっ…ぱい
水がきた。そん時私も役場で会議っていうてね、行ったら…水は上(かみ)から下さ流れる
でしょ、そいが上さ流れてった。そしてね、(普通は)水が高いところから低い方に
低い方に流れてくでしょ、ところが低い方から上さ水が流れて。それを塩田川がね、
有明海の潮が満ちて来たぁために、たくさんの水が押し上げられて反対に流れて。
そうして水がいっぱいになってね、水害。そいぎ会議はもう途中でやまって、
サイレンがなってね、急いで帰って来たんときが。こい有名な水害で…そいで塩田は
護岸工事っていうてね、川の工事がそいから急ピッチ進んだわけです。
(その7・8水害っていうのは水が逆流するくらい大きな災害だったんですね)
このヌノバってとこね、一面の水うん中に(浸かって)ね…人も死んさった。たくさん
流れて…流されて。そいでね、私ん所はここの高い所だったから助かったけど、その辺
もう…軒まで浸かったよ。その…桑原畜産ちとこね、牛がたくさん飼う(こう)とんさった
から、牛ば山さ逃げさしち大ごとやった。あすこの…桑原畜産から上は水が浸からん
じゃった。そこから下は宮ノ元まで一直線に川じゃった。そんな水害じゃった。堤防が
切れてね…そいが今は護岸工事がしっかりできたから水害だけは追放された。
(他には…昔の暮らしについて教えて下さい)
ああ、昔の暮らしね。昔はね、もう農作業は手作業ばっか。もう子供たちも手伝わ
なくちゃならんやんね。今テレビを見れば丁度タイなんかで皆で田んぼに出てこう手で
植えようしゃって、ああいう風な田植えです。
そいから牛を使ってね、田を植える準備をしよった。水も水流しっちゅう日を決めてね、
大方6月の15,6日頃流れてきよった。昔から溝があってそこを水が立山堤から流れて
きよって。そして稲作りは人間でばっかりしていたわけ。
そして田の草取りちゅうてね、田んぼに四つんばいになって草が生えとん
のをとっていった。そいかガンヅメっちゅうてね、稲の一株きかぶをあい中の土を
おこしよったよ。そんなことも…ガンヅメ掘りをしたりね。
そして稲が実ったら、稲刈りも人間が鎌で刈ってた。いねこぎ(脱穀)も「センバ」で
こいでいた。そいからその、いねこぎ(の技術)はどんどん進んでね、今度は
「脱穀機」ちゅう機械が出てきたい。機械が回って、人間がそれにかいて、藁をこた。
ああ、その前にね、足でこう…歯があると…足ふみ脱穀っちゅうのがあって
足で回してね、稲をこいでいた。そいから脱穀機んなった。
センバの次に足ふみ脱穀機。そいから脱穀機。そいから今はコンバイン。
コンバインになる前はね、埃じゃろうが枝じゃろうが何じゃろが…しいらじゃろが、
実の入らん(いらん)とやろが、入った(いった)とやろが、みんな一所にこがれたからね、
「トウミ」っちってね、ぐるぐる回して、軽いのは飛ばす、実の入ったのはぞろぞろって
出る。そいから少し実の入った…鳥に食べさすようなのは反対の方に出る。
そんな手作業ばっかいの農業じゃった。そして大体精米所に持って行ってお米に
なしよった。
(この辺りは…昔は大体自給自足の生活だったんですか? お米はこの辺りで作って
ますよね。畜産もしてますし…その他の物は?)
その他のもんはね、だいたいは魚…行商の人がね、海近くのばあちゃん達やら、天秤に
担いだい自転車の荷台に付けたいしてね、海岸付近の漁師さん達が売りに来ました。
そん時は…お魚ばっかいじゃない、蒲鉾もあったい竹輪もあったいしたわけ。
(お米のほかの、野菜などは…)
野菜はみんな畑で作って、自家製で間に合ってたよ。畑があったでしょ、(家の)すぐ
近くに。何処のうちでも畑を持ってね、野菜は…スーパーに買いに行かん、自家製の野菜
の新しいのを食べてた。そんなことあったよ。
(塩とかはどうだったんですか?)
塩は専売特許でね、何処でもは売ってなかったよ。塩と油はね、決まった店が
あって許可があって。お砂糖は専売じゃなかったけどね。まぁ…塩を売るお店があって、
そこにお砂糖も売っていたわけ。
(特定のお店があったんですか)
うん。塩だけ専売。人間は塩んなくちゃ生きていかれん。そいで塩が安くてあった。
政府が、人間には塩気がなくちゃ生きていかれないからっちゅうてね、補助をして
安く売ってたわけ。そいでせ…塩だけは安かったよ。
(じゃあ、塩を売ることができるのが決まったお店だけだったということなんですね)
塩のあっ所決まっとったよ。そいから日用品のごとは小さな小売店から買うて、ゴム紐
とか針とか糸とかね。そんなのを買っていた。
(農業以外の、昔の村の現金収入とかはどんなのがあったんですか?)
農業以外の収入はねぇ、それこそ郵便局。郵便配達人になり。それからね…看護婦さん
とかね…土方、ドコウ。堤防を作ったりね、水害で土手が切れたらそこを作り直したり
そんなんに雇う。まぁそいから日雇い。それはね、各農家が自分のうち手(人手)がない
っていう時にはね、賃金…日当をやって。農業の手伝いやらね、そいから家事の手伝い
やら。そんなのの収入で暮らしよった。
(昭和の最初辺りはこの辺は電気はもう来てましたか? 他にはガスや水道は…)
水道はなかったよ。井戸ばっかいやった、つい最近まで。何処にでも山の水の
きれいかとん流れてね、井戸がある。そいからこの布手っちゅう所はね、塩田川からね、
朝早く水を汲みようちゃった。ここんたいじゃなかよ。すぐ近くじゃったいね。ここん
地図ん載っとう、布手っちとこはね、朝早う水がきれか。
とこご、嬉野ね、昭和んなって、温泉ん泊り客が多いと、やっぱり台所の流し水の
汚いのやらね、汚い水が流れて来るごと…もう昭和の初め頃までこの塩田川で
子供が泳ぎおったと。水泳は塩田川でしていた。ところがね、水が汚くなって、
細菌がたくさん…(汚い水が)上流から流れて来るていうことで、小学校にプールができて。
川で泳いじゃいかんって。危ないばかいじゃなか、健康的に良くないっちって禁止された。
水泳は川じゃった。川の水がそんなにきれいじゃったわけ。今は汚染された。
電気は…初めはランプやった。ランプのほやをね、夕方いなっぎね、ランプを灯さんば
ならんから…油でね。ランプ生活やった。昭和の初め。そいで電気はついたのは…もう
昭和5、6年頃電気がついたんじゃない?
そいから水道はさっき言うたようにこの辺は山水がきれいだしそして各家に井戸が
掘られてあって、水がきれいだったから…水道は最近できた。まだ水道ない所もある。
私んとこも井戸と水道と両方使いよう。もうね、水が豊富じゃもん。
そいで、NHKや新聞社やなんか私ば訪ねて、この辺ば案内して下さいって、付いて回りね。
あの辺は緑がきれいで空気もきれいですねーって。空気がきれい。そいか緑がいっぱい。
そいか流れている水は冷たくてきれいですねーって。そうですきれい。水は飲まるい
ようにきれい。山から流れてくる清水…ね。そいだもんだから水道の必要がなかっと。
だけんでももう、健康上やかましゅう言われるごとなってね。保険所で水の検査ば
して下さい、井戸水の検査をして下さいっちいったぎね。十軒のうち六軒ぐらいはね、
少し水があんまい合格て言われんねーていうごとして、そいぎ、水道ば回っちていうこと
なって、町全体が水道んなってからそう長い事ないよ。もう10年ばっか…でもないごろか。
平成の初め頃、やっと水道んなった。まだ、そいでも井戸水の生活の家、水道のない家も
何軒かある。そいば水道料ば払わんちよかもんね。
(ガスはいつ位に?)
私はね、もう東京で暮らしちき都市ガスっちゅうていつでもお茶ば飲みたい時ガスを
ぽって点くぎ、あれは都市ガスやった。お茶はのめん…こっちに来たら焚きもん焚かんば
なんね。焚きものでお湯ば沸かす。そいぎお茶ば飲みたい時なかなか飲めないわけ。
じきにお茶ば飲みたいねーてほんに思いよった。電気器具はあんまいなかった。今は水ば
ポットに入れとくと沸くでしょうが。もうそいがなくてほんに不自由だったけどね。
ガスね、プロパンガスたいね。ここんたい都市ガスじゃなく。田舎はプロパンガスが
普及したのはいつやろか…農協に聞いてみんば分からんねー。…プロパンガス…そうねぇ
子供達の成長で考えるき…薪を焚きよったのはいつですか…子供達ば大学に行く時分は
…焚きものでお風呂ば沸かしよったよ。そしてお風呂に入っとったけ英語ば勉強ば中学時代
に私風呂ば炊きながらねぇ…。そんな余裕があった。今はね、ボタン一ちょで…(笑う)。
(笑いながら)便利になったけんどね。お風呂場は…プロパンガスはいつ頃じゃった
かねー……。そのー、プロパンガスのね、やっぱい自由だからね、お金はやらんばならん
(ガス代を払わなければいけない)。山から焚きもの(に燃やす物)採りん行くと体さえ、
時分の暇に採って来るとお金いらんでタダでしょ、燃料費(ねんりょうし)がいらんもん
だから。プロパンガスの一時に各家庭が普及したんじゃなかよ。ぼちぼちはやった。
プロパンガスを使ううちもあるし使わんうちもあったわけ。私のうちなんかは…そうね…
婦人会長をしとったじゃが…'63年だから…昭和30年頃にね、プロパンガスが普及した。
そいことです。
(ではガスが来る前はやっぱりご飯炊くのも焚きもの、お風呂も焚きもの…)
不自由じゃった。そうですよ、薪で。
(その薪というのは近くの山から…?)
はい。山から。冬中ね、女は薪採りじゃった。私たち薪を採りに行きよったよ。
山の奥まで。元気じゃったわけねぇ。体が健康じゃったわけ。
(薪採りは女性の仕事だったんですね)
うん。薪採りは女性の仕事。それから?
(昔の若い人は、今みたいによるテレビがあるという訳じゃないじゃないですか。若者の
生活はどうだったんでしょう?)
若い人の生活ね……小さな子供でもね、家事の、家庭の農作業のお手伝いをよくして
いたね。親の手伝いが多かった。お使いにも行くし、あるいはお掃除もして手伝うち。
また、稲を…植える時もこぐ時もね、いつでも手伝いをしていたわけよ。子供達が。
子供達も家庭の労働者じゃったわけ。学校に行かん限りね。それから…青年頃になると
やっぱい土方さんなってみたいね、学校の先生、良く勉強できる者は学校の教員なったり
しよったけどね。土方に行くもんが多かったね。それから女の人は女中さん。よそのうちに
お手伝いに行く…女中さん。そいから?
(昼間は農作業をしますよね。で、夜にまだ仕事があったと思うんですけど、そういうので
男性と女性で別の仕事をしていたとかそういうのはありますか?)
そうねぇ…夜の仕事は女性はね、繕い物、着物を作ったりしていたけど、女中とか
なんとかはムシロ織り。あの…ナイロン流行ってこの…ビニールなんかになっとんのは、
ついもう…昭和の中頃であって。それまではね、ムシロば…私なんかもね(笑う)、面白くて
珍しくて…東京から帰ってね。小屋にこもって、ったんばったん、ったんばったんムシロ
織りしよったよ。ムシロを織るには縄をなわんばなん。縄をなってね、ムシロをはえんば
ならんわけじゃもん。ムシロ織りが副業じゃった。
そいで日の明るいうちは山に薪採り行く。んで夜も明かり点けて、ムシロ…夜なべ仕事に
ムシロ織りか、ほころびを縫ったり破けた所を布を当てたり、子供達の着物は作って
着せたり。女性は忙しかった。
だけど男性はね、昼間重労働だからか知らんけど、割に休んどった。体は大事にして、
版には休んでました。…それから?
(夜、ご飯を食べた後とかで若い人達が集まる場所とかはありましたか?)
夕飯の…青年会っていうて、青年たちは…何をしていたか。やっぱり夜はクラブなんかに
寄ってね、ワイワイ騒いだり、何か議論をしていたりしていたでしょうね。覗いた事は
なかったけど。青年会で集まいけ、そこに集まっていた様でしたよ。
(この辺では『クラブ』って言っていたわけですね)
クラブ活動たいね。クラブがあったわけ。青年たちだけがおる所。
…こう辿ってみると昔の事も面白いね。
(はい(笑いながら)。面白いです)
(遊び…って具体的に何かこう…力試しの石とかはあったんですか?)
あぁ。それから…綱引き。それから運動会。そんな風なのを力試しっち言うの。
(では…干し柿泥棒とかスイカ泥棒とかはあったんでしょうか?)
あったあった〜。スイカ泥棒なんかね、ここはねぇ…もうなくならんこと泥棒が少なか
ことで有名じゃった。いつも戸締りとはせずに夏はね。網戸もないのに戸開けて休んで
よかことね。…純情で。みんな信用してね、泥棒はなかったけど。誰か一人心がけの悪い
人がいるとね、スイカ泥棒あったとよ。スイカ泥棒は心得の悪い人が部落内にね、この村ん
中に一人がいたら大変じゃったって。皆がみんな泥棒じゃなかて。ね。
(まれだったって事ですか)
うん。その人がね、要するにね、人っとこね、よかとこのを取ったの。その人がよそに
婿さ年頃になって行きんさったぎね、もうスイカ泥棒もなかった。…心得の悪い人が
いたらねぇ、まぁなるわけ。皆がみんなじゃない、安心して暮らせる場所。
…こんな事ばっか言うけ、まったよかこと言うときゃよかったねぇ(笑い)。
(いえいえ)
泥棒なんかおらんやったよーって言うぎ、じっぱかもんねぇ。
(いやぁでもこう…開けっ放しでも大丈夫な位平和な…)
そい(正確に話す)が調査じゃもんねぇ。
(よその村から若い人が遊びに来たりとかはあったんですか? よそ者は立ち入らせない
とかそういう事をやっていた事はありますか?)
よそからはちょっとなかったね…よそから遊びに来たり泊まりに来たりということは
ちょっとなかったね。
(別に入れないとかいれないとかそういうことじゃなくて、ただ来る事がなかったという
事ですか?)
ん…ちょっとなかったね。親戚は行ったり来たりしよったよ。今よりもっと親密にね。
親戚同士は車がなかったからもう泊まって…お正月なんか泊まったりすることあった。
(昔の人は恋愛はどのようにしていたんですか? どうやって知り合ったりしていたのか
とか…)
好きな人ね…なかなかね、昔は…「男女七歳にして席を同じうせず」っていうような教えを
よく守ってた。戒めとして…男女の交際は何か後ろめたかったわけよ。だからあんまり
今のようにね、若い人の交際は…ちょっとなかったねぇ…なかった。
そいで結婚なんか大方ね、古老の人達、年取った人達「あの人とこの人がよかんばい」て
見取り合わせてね、仲人(なかうど)結婚がほとんどじゃった。
(じゃ、自由恋愛、自由に恋愛することははあまり…できなかった)
ああそれは厳禁されてた。厳しく戒められてた。でも若い人もね、なんかこう…男の人と
付き合うと…男の方を見る…まぁ男の人女の方を見るっていうともね、禁じられてるみたい
だったよ。そんな厳しい時代でした。
(また農作業の話に戻りますけど、農薬を昔は使っていませんでしたよね)
農薬はあんまいなかったね。
(どうやって虫除けとかしてたんですか?)
虫はね…やっぱり昔も稲には無視がついていたけども油ばこう…とろっとろって注して、
害虫を窒息させるようにして、害虫から稲を守ってたよ。油で虫取りをしてた。そいから
ちょ…っと稲がこうぐらつくようなった時ね、蛾が飛んできて稲を枯らすわけでしょ。
そいであの…「虫送り」っちゅうのが…あいも今はないよ。みんなで松明を点けてね、
田んぼばずーっと虫送りっちゅうて。虫が火に飛んで来るでしょ。そて、ある所まで
来ると一時にそれを入れてわーっと…。そぎ「飛んで火にいる夏の虫」って言って虫ば殺す。
そしたらね、それをせん所には水を張ってね、油をちょっと…上ん方に火を点けてね、
誘蛾灯。そいでねー、朝行くいその水のこうした中にね、いっ…ぱい小さな虫が死んで
浮かってる。羽もっと虫が。そのので、農薬は絶対使わんじゃった。
あの…虫送りもなんかほんに…何か昔の風物詩や。子供が特に付いて来てね、みんな
それぞれこう…もう一人前だったからね。子供も大人も長い行列を作って、松明を持って
ずうっと田んぼを回って…どの田んぼでん回ってで、最後…燃やし。
(じゃ昔は、肥料はどんなのを使ってたんですか?)
肥料はね、中には肥料問屋さんがあって、農家を回っていくらか肥料を…もう大正時代
からね、肥料問屋ち所があったけれども、肥料を買う力があるとこばっかっちなかった。
そいであの…野山の草。そんなのでもね、肥料になったとよ。稲と稲との間に草を刈って
来てそれをね、踏み込んでそして、肥料にして田を作ってた。だからね、田があんまり米が
できていなかった。肥料を買いきれるとこばっかいなかって、自家製でもう…農家の
汲み取り式。糞尿…お小水とかね、便所の汲み取り。こっちはね、自分の自家製でやってた。
(草の肥料をやってた頃は、田んぼは一反当たりどれくらい…何俵くらいお米が
獲れたんですか?)
一反当たり…この辺はねぇ、四俵から五俵です。昔は。肥料がなかったから、余計な
田でおらんやった。今は十俵も獲れよるよ、ね。だけど(今の)半分たいね。
(田んぼによってここはよく獲れるとか、ここはあんまりよくないとかありましたか?)
うん。それはあった。
(どの辺とかって分かりますか?)
あの…チャーバルてとこは地が肥えてね、土そのものが上等の土でね、肥料が多くて
米のよう獲れよったけどね、棚田っちいって、山の近くに行くほどにつれて…それも
こっちも山、こっちも山(に挟まれている所)。日陰でしょ。日照時間が、日がよく当たる
田んぼはよくできていたけど、日が当たらない日陰の、山陰のような所「カイダ」って
いうのね、カイの田んぼ。(狭い田の意味らしい) そんな所はね、お米がちょ…っと、
悲しいほどたくさん食べれもやんだったねー。まぁだ五俵もとれっと(はいい方で)、三俵
ぐらいしか獲れよらんかったんやない? それでほら…ご飯が足りんから、昔は肥料も
なかって米も獲れんし、家で食べるお米がないから人間の、食べもん(食いぶち)減らしに
ね、山奥におばあさんやおじいさん持ってけ、悲しいそんな時もあったわけ。これは大事な
ことよ。今は裕福で、こんな何でも食べられるけども、昔はそんなに貧しい時は、人間を
捨てに山に行くようなね、時代は食べ物が第一条件じゃったと。
(畔に大豆とか小豆とか植えてましたか?)
ああ…うん。もうその…大豆もね、畑の肉っちいって大事なあれで。大豆の料理も
多かったもん。ご飯に混ぜたりね、ご飯といっしょに炊くとご飯が増えるでしょ。
それしたり、大豆を煮ておかずに食べたりおやつにしたりすんのね。畔にでも大豆を蒔いて
作りよったわけ。そいぎ、米はできんけれどもね、大豆作る場所がないから。そんなにもう
田んぼや土地はね、それこそ宝物のようにして大切に…みんな農家は可愛がって。空いた
場所がないように利用していたわけよ。
(お米は、今は農協に出しますよね。それは農協に出すようになる前は誰に、どこに…?)
あのね、お米は米買人さんが来よったとよ。特定の人がね、各家に…。とにかく農家は
たいへん貧乏じゃったわけ。それはね、小作が多かったわけ。大東亜戦争後に農地が開放
されたけども、その前はね、地主がおってね、地主はたくさん田地を持っているけども、
それを小作いうてね、耕す人に貸していたわけ。そいで、例えば…田んぼが五俵できる
とね、もとはいくらくらい貸し賃ば取ったかね…。二俵くらい…とっとりよっとじゃ
なかろうか。半分よりかも少し少ないくらい。もっと昔はもっとたくさん取よったでしょう
ね。半々くらい。そいで、ますます農家は貧乏じゃった。そいで女の人売ったりなんかね、
あんなせんば暮らされんやった…。人身売買があっていうとっけ…。
(青田売りっていうのはこの辺ではあったんですか?)
うん。それもありよった。まだね、米はできないうちにね、お金をだすからわしに売って
くれと、言うてお金をやるわけ。そいぎそこお金はもう喉から手が出るごと欲しいと、
(すぐに現金がないと)暮らされんことあるわけ。でもお米は秋にならんば獲れんでしょ。
そいでもう早ぁーくまだよく実らん青田のうちに買って、そうして青田のうちに稲を売って
…しよったから、ますます米がないわけよ。そんなことあった。青田買いっちいってね、
商人が米を先買いして(米が)獲れる前にお金持たせて喜ばせて、そしてさぁうちに米ば
やらんばその自分のお米を食べてなかきまぁだ早よ刈る。お米を獲るとまだ実が入って
いないから少ししか獲れんわけよ、ね。んなことあった。
(家族で食べるお米のことを福岡県では昔「兵糧米」って言っていたんですけど、この辺
では何て言ってますか? …自分のうちで食べるお米のこと…)
うーん…自分の家の米…「自家米」って言ったらねぇ、うん、「自家米」ち。
その戦時中は割り当てっちいって酷かったよ。もう…人間が何人おるけなん…どの位
食べんば…ていうことね、「あんた方は供出」ちいって供出ないよったったい。その大東亜
戦争、昭和10年ごろまではね、政府にお米を出すもんじゃった。「あんたんとここうしろ」
け、供出米が割り当てられちった。自分のうちで麦を半分入れんば食べられんごとね。
農家であってもお米が足りんじゃった。これも大事な事よ。
(政府に取られていったと…)
政府が割り当ててね、お米を兵隊さんに食べさせんばならん。そのお米を船で積んで
行きよる途中でドカーンって空襲にあって、船もろとも沈んだ。そぎまた食料が兵隊さんに
行かんやろ。そいでもう…さぁ増産だぁ増産だぁっち言って。戦争のある頃はお米は
精出して作れー作れーって言うて増産は発破かけられよった。そいがこの頃はもうあんまい
たくさんでいかんって言う。(笑う)そして休耕田ち言って田んぼは休んばなんちなっと。
(お米はどうやって保存してましたか?)
お米の保存は…むかぁーしはね、缶々。まぁ五俵入りとか、十俵入りとかね、丸ーい
その、トタンの密封した缶々に入れて保存していた。大きなのうち…そこんとい
うってっちゃ。もうたくさん食べんから(笑いながら)。
(ネズミが出ると思うんですけど、ネズミ対策はどのように? ネズミがお米を食べ
ちゃいませんか?)
そうね…お米や大豆なんか食べに来るよね。缶々にはネズミは入りきらんもんね。それ
からね…やっぱ捕獲するかねこいらずか…ネズミ獲り器。こう網のようなのあってね、
入口は開けとくわけよ。そして、そこを通って行くとパターンって閉まるような奴よ。
ネズミ獲り器で大方獲りよった。
(次の年に作付けるための種籾はどうやって保存してましたか?)
種籾の保存ね。むかーし昔はね、屋根裏ちいうて、特別にネズミなんかが来んような
木の箱なんかに入れて、そして保存して。そいから瓶。瓶もほんにネズミ対策によかった
わけよ。瓶を齧ることできんからね。
(さっき、ご飯に大豆を入れて増やしたりするって言ってましたよね。麦とか混ぜたり
したことは…)
あぁ、麦も入れて、麦が半分ばっか入ってるからね、ちょ…っとあんまりおいしく
なかったけど、そんなのを食べたから健康で今いるわけ。(笑いつつ)雑穀を食べてたから
よかったわけよ。米が少ないと半々ぐらい入れたりね、もう3分の1ばっかり少なく入れたり
していたわけね。
(稗とか、粟とか芋とかを主食にしていた頃もありましたか? 戦時中とか…)
主食はしてないけど、ご飯に混ぜて食べることはあったですね。粟はお餅についたり
して食べてましたよ。粟ばっかではいかんからもち米と混ぜてね。
(この辺で牛とかいますけど、昔は各家庭に牛はいたんですか?)
ああ、各家庭にいました。農作業の道具じゃったの。田を耕したり畑を耕したり、
荷物を運んだりしていた。各家に牛小屋があったよ。今はないけど。機械んなったから。
牛は…飼わんでもね、機械が耕してくれるでしょ、だから牛が不要んなったわけ。
(馬はいますか?)
この辺はね、牛ばっかいだった。この辺の土地に一番、牛が使いやすかったわけ。言葉も…
人間の言葉ば知ってた。(右に行くよう言うと右に行き、止まるよう言うと止まっていた)
家畜としては牛が慣れてたわけ。そいからこの土地に…その牛の力がね、坂を登ったり
なんかせんばならんかったから。泥もあるでしょ、だから(ここでの)農作業に適したのが
牛だったわけ。
(その使ってた牛は牡牛だったんですか? 牝牛だったんですか?)
牝も牡もおったよ。構わんじゃった。とにかく働いてくれるということじゃったね。
(その牛は何処かから買ってきたりしていたんですか?)
いやそれはね、バクリュウさん、バクロウっていう。牛を商い。「馬喰」て書きんしゃい。
馬喰さんがね、各家庭に「ありゃぁ、ここは牛ば持たんじょけ、牛の必要ばい」っていう
所にはちゃあんと牛が回ってきんしゃった。そしてそれが老いぼれて働きえんごとないき、
また「若とと替えんさい」っち言うて、そして替えてね、そいで馬喰さんがいくらか儲け
しよったとよ、替える時は。馬喰さんていうのが、牛の…各家庭に連れてきて斡旋していた。
(この辺のお祭りについて教えてください。一年を通してどんなお祭りがあったのかとか…
昔のお祭り…村の神様とか…)
あぁ、第一にね、流行病があったらね、お寺の大きな数珠ば持ってきてね、村でみんなが
ね、「なーまいだんぼーなーまいだ」って仏様拝んで。大きな、こんな大きなね、数珠の
大きのをみんーな部落全部のの人たちが握って、これを回してね、流行病が早よ逃げてく
ように…仏様守ってくださいって。その「なーまんだぶつなーまんだぶ(南無阿弥陀仏)」て
言う代わりやね、「なーまいどんぼーなーまいだ」て言って、そい回しよった。それがいつ
流行病があるか分からんからね。今はお医者さんに行くからそんなことない。迷信でね。
でも…そんなことしてもよくなりよったけ。
だからお祭りっていうとね、「おやまさん」ていうのがあった。おやまさん祭り。
4月の…桜の咲く4月5日にね、氏神さんの祭り。そぎそこにみんーながまぁって、
めんぶりゅうっち出し物があったり…めんぶりゅうは男の人が踊ったり
女の人達はね、奇麗か着物ばん着て白粉つけて、踊りば踊りよったとよ。神様ば
慰めて。
それから今度は秋祭りっちゅうのがあって。そいも神様の祭りでね、秋に稲が立派に
できたからっち言って豊作の祭り。お祭りででかけるっとたい。出店が出てる。
子供たちが特にいろいろ…飴玉を買うたり綿菓子でん買うたりね。そいからするめなんか
こうあぶって焼いたの。出店が出ていた。
それからね、あれ、ほんげんぎょう。ほんげんぎょうって言うとね。
それ正月頃。…いろいろお飾り。お飾りをあの…しめ縄玄関にはったのやらありよ…
神様に、仏様に願い。お供えした…。色々そまつにしちゃいけないものをね、
お飾りをみんな持ち寄って燃やしとった。
そいから、正月のもぐら打ちっちゅうて。もぐらが地面をこう…はって歩くと、
作った野菜なんかできないっちゅうことで。べーたん、べーたんってもぐら打ち。
子供たちが…餅やらお煎餅やらもろうて家の庭をたたいて回った。それがもぐら打ち。
(今地図を見たんですけど、隣の村に行く道はどれだったんですか?)
<地図で…>
隣の村に行く道は細ーい道をつたっていったり、大ーきな道を行ったり。あるいは山越えっ
ちいって山の中にもずーっと道が通っていたから、山越えは近い。
(隣町への道は…)
それは、山越え。そいから近道。そいから大たわち。
(どのへんの道になるんですか? 地図を見て、どの道だったってのはわかりますか?)
(<別の地図を示す>こっちのほうが少し…大きいかと…思いますけど。)
その嬉野っていうところの隣村だけども…山越えしてくと近い。そいでもう…大きな…
そいでもこのハシヤマトウゲっていうところはこういう風に15分もまわりよ着くど。
そいから大通りっちゅうのはこう…向こうの道当たり前に行きいね。
ずいぶんはんしかんごいしかっと。…というふうに近道があったわけ。抜け道。それから?
(学校道…学校は、小学校とは、今あるところと大体一緒ですか?)
うん。通学路っちゅうても今は…自動車に、交通事故があったりせんように通学路が
決まっているけれども、昔はめいめい…近い道を通っていったわけよね。今は…
スクール道路っちいってできとろ?ね。
(それから…えっとあの、魚とかかまぼことかを行商の人が売りにきたっていう話ありまし
たよね。その人たちはどこの当りの道を通ってこの辺まで来たんですか?)
家々を回って…一軒一軒。そがん途中までじゃなしにここのうちば
今日はいらんですかーって、今度は隣のうちに今日はいらんですかーって。
もうお互いに知り合いになってるわけ。長いことね。
(じゃあ、うちを一つ一つ訪ねながら、海のあたりからこの辺までずっと…来たんですね)
(…と、この辺りで…何か動物や鳥なんかを捕まえたって事はありますか? 動物とかが
出たり鳥とかが来たりして、そういうのをつかまえたって事はありますか?)
あるある。それこそむかーしはね、やこ。キツネがね、山に行くともう…後ろ見…
じゃかじゃかって後ろ見してっから、「あらーあれ後ろばっか見るからキツネばい」って
言うような、山道でキツネに出会ったりしたことがあたと。
それから野ウサギなんかしょっちゅう出やあもん。ところがねえ、
しばらく来なかったけど、このごろはね、かえっておるよ。なんか…猪がここの一番上の
うちには猪が出てくるって。そいから人間のように大きな猿がね、私は出っかした。
<笑う>あの唐泉橋っちとこ渡ってきんさっち言んさったろ? あの、橋を渡ろうて
したらね、もう大きな猿がサーッサーッって。横のほう逃げるの。
そいぎはぁーえすかったえすかったっち恐ろしかったねーっち
戻っとふたり来よったから言ったね。
こっちの山道に子供さんば4,5人連れたおじいさんがね
「明日からおばちゃん達が来よっさけん、あの猿はきっとにぐっばい。こい今いっと
きしてから通ってこ。」っち子供たちの恐ろしがっておじさんにすがってるもんだから…
私は恐ろしかった…。もうきれーいな猿のね、ちょうど私くらいの大きさやった…。
(大きいですねー…)
んで、タヌキもいるし、ほらそこに桑原畜産っちいうとこあるでしょ。あそこで
牛のくさいんさばけ、肉を売ってさ、自動車で配達ばしんさばけ。お店に…スーパー
なんかに。そいぎやっぱ動物の匂いがすっとね。…タヌキも来るし、キツネも来るし…
このごろはサルもおるし、あれまで来る。その…猪まで。ほん…に困った。
漬物をね、つけとったらしっかり大っきい重しばならん。重し引っくり返してね、
この…奈良漬けを食べとった。そいぎ来たのーっちって、なんか動物くさくてもう
たまらんじゃったっちお話ばしんさった。そんなのが出よる。
タヌキなんかね、こんなそこの道にね、ごろって死んどった。そぎ役場にね、
厚生課にね「あのー、タヌキの死んどき、片づけに来てください。」
って言ったら「よかんばいに処分してください。」っていうことで、その部落の
おじさんたちがね、綱つけて、こうして祈って、お墓ん所ば掘って埋めんしゃった。
いやー私もはじーめて昔のことを振り返ったけど、勉強にこいな。こい何のほうで
調べんしゃっと?民俗学会のほうで?
(あ、歴史なんです。「歩いて歴史を考える」って講義で、昔の地名が忘れられそうに
なってるからそれを…)
そんなこと(昔の地名が忘れられそうになっている事)があるある。
(開発されて、整備されて、地名とかもすっかり変わってしまってるから、昔から
呼び慣らわされてるのは今のうちに記録しておかないと忘れられてしまうから…)
もう年寄りもおらんごとなっきだんだん死なんごと。ね。私がそんなのを皆さんに
伝えて話してたわけ。講演で。そいぎ聞きんしゃい。よかめんとこ聞きに来たね。
私も勉強になりました。
(昔の生活については大体…聞きましたので、もう一回地名についていいですか?
その、忘れられそうになってる、名前とか、地図に記録していきたいので…。)
地名ね…。そのちかっと平らな所は本田って言うたい。それから…おおかた、
その土地にようおうた名前をつけるわけね。お墓の前にいきやると、「墓ん前」って
言うたりね。地蔵様がおられたらその山を「地蔵山」って言うたりね。
おおかた何かそこにいわくを持って名前を呼んでいた気がします。
(地蔵山はどの山だっていうの、地図でわかりますか?)
あのー…地図でね。ここが南て言うげね…。
ここんたいね。地蔵山て言うぎ、やっぱいあの…ここんたい一番手前のが地蔵山って。
その…地蔵山ばいっちょ越えたところが一ノ越っち言ってね。…ここを地蔵山。
地蔵さんをまつっちゃる。そいから、こっちの方の手前のこの山を花がいっぱい咲く
から、ツツジがいっぱい咲くから「花咲山」。ああ、そこが「花咲山」。
地名としては…それから、あの…同じこの部落…だけども、お隣のこの部落は
「リュウカイ」って。「流海」って言う。流れる海ち書いて、流海。そいからここの…
もうひとつ手前のほうのこの部落を「シマノウチ」って。どうしてシマノウチって
言うんかねえ。シマノウチって。
それから私たちのここ…ここね、ここんたいね、あの…畜産はどこじゃったかな?
(ここです。<地図の場所が違っていた事に気づく>)
あ…あら、この辺が私たちの南だったらここ南ね。ここの辺を平山っていう。
この辺を平山。この流海はこっちやった。このちにけんて、流海。ここシマノウチ。
ここもかちとこやった。
(えっと、あといくつか…思い出せる限り…昔の地名っていうの…ありますか?)
他には聞くとは何があっと?
(…っと、一応この辺にはしこ名があると…昔の地名を記して、他には村の暮らしを…。
主な目的っていうのが、その忘れられてしまうかもしれない昔の地名だったんですよ。)
そうね。ほんなそこんたいは「ミヤウラヤマ」ていうとが。お宮さんもなーんもない
けれども、「ミヤウラヤマ」って言うしね。
(どこの山ですか?)
ん…と、畜産はどこじゃった?こが畜産だったね。この辺の山をね、
ミヤウラヤマって。ミヤとウラ。
そいからね…オウリョウジっていうとこのあるよ。ここんたいの一番上の家はどこ?
これ?ああ、これですね。桑原畜産はどこね?…ここね。ここんたいをオウリョウジ
って言うと。王両寺。ここんたいは昔むかしお寺があったらしか。その名残は
山ん中にあるとよ。必ずあそこの所を指して王両寺っち言うもんね。
私も…長くここにいたわけじゃないぎ…東京から来たん。こんくらいのことしか知らん。
…その他の人達は…のべたには誰に聞きんさったね? めいめい誰かを頼って聞きに
来んしゃっとじゃね。
(他の組の人が誰の所にお話を聞きに行ったのかは…ちょっとわからないです。
それぞれ詳しい方をさがして訪ねているので)
あなたがこげ来んさっとね。畦川内にいくはずじゃったろ。そいば、私んとこに
来んさいと言われて来たと?
濱田さんと山下さんは。そいで南は違う人が行くわけやったと。
そい、別に南に来とんしゃ?誰か…。
(来ているはずです。別の二人が南のどこかに来てるはず…ですけど。)
(一応二人組みでそれぞれ割り当てられた所に調べに行ってくるっていう形なんで…)
でもまだ南っちゅう所に…。(まあ南は南で、この二人でやってるはずです。)
そいか…これはね、貴重なことよ。やっぱり…んで、私もよかった。思い出すのに。
いくらか私の知っとる限り話したわけ。よかった。こういうことは…しっかりと
書き留めてなにか本にでも…冊子にこう、なるわけでしょ?
で、貴重なこと。私もだいたいそれに似たような者の物語とかね。
そういうことを話して…。お祭りに関することとかね。
(それで、今日お話をうかがった事をレポートにまとめることになってるんですよ)