佐 賀 県 塩 田 町

町 分 の 調 査

 

1EC00177 赤木真賢

歴史の認識(火曜日4限)

 

 

1.はじめに

 

 私はこのレポートを作成するに当たって、霜村卓郎さん、森敏治さん、峯崎幸清さん、

 

この三人に多大な感謝を表したい。本当にありがとうございました。

 

 

 

2.午前中

 

 12月23日日曜日、午前11時頃、私は一人佐賀県塩田町に足を踏み入れた。朝9時

 

に学校を出発し、約2時間バスに揺られて到着した。そのときの私は非常に不安で困って

 

いた。それはまず、本来ならば事前に電話でアポを取ってから来るべきなのにごたごたし

 

て結局とれずじまいだったのだ。次の不安は、だいたいこの調査は二人一ペアなのに、な

 

ぜか私は一人だった。次の理由は、私は方向音痴であるということなのだ。地図があれば

 

何とかなるのだが、私はバスを降りてから地図を開いてみたがいまいち自分の位置がわか

 

らず非常に困った。後でわかったことだが、私がもってきた地図は相当古く昭和初期に行

 

った河川工事によって、新しくできた道が載っていなかったのだ。

 

 私はともかく歩いてみた。しばらく歩いてみる区と、横手に旧街道らしきものがあった

 

のでそっちに向かっていった。それは塩田街道であった。そして、「西岡家」のところで

 

大人が群れて何か作業をしていた。私はあいさつをして、まず自分が何者であるかを説明

 

した。私のこの現地調査で一番運が良かったことは、この大人群の中に「森敏治さん」が

 

いらっしゃったことである。森さんのことは実は服部教官から名前だけは伺っていたが、

 

実際どのような人なのか具体的なことは何も聞いていなかった。しかし教官の耳にはいる

 

くらいの人なので、何か知っているかもしれないと思って少し何か聞いてみようかと思っ

 

ていたら、森さんは積極的に私にいろいろなことを教えてくださった。まず塩田街道のこ

 

とである。塩田街道はいわゆる長崎街道の塩田町のエリアのことである。塩田街道を皮切

 

りに、森さんは「町分」を一巡するようにして私に町分がどのようなところであるか紹介

 

してくださった。「上福」にある塩田工業高等学校はもともと江戸時代には「」の

 

役所があったこと、「獅子ヶ塔」には古墳がたくさんあったこと、「唐泉山」の頂上には

 

檜の自然林があること、塩田町では毎年12月1日に「丹生祭」という祭りをしているこ

 

と、「」には庵寺があること、また、そこには塩田川の治水工事を行った「前田伸

 

右衛門さん」のお墓があること、「馬場下」にある浄土宗の「本應寺」があること…。森

 

さんは本当に詳しいところまでご存じでいらっしゃったので、私は細かいところまでいろ

 

いろ教えていただいて、歴史にふれているなぁ、と実感した。

 

 

 町分をぐるりと一巡りし、再び西岡家まで戻って来ると、隣の「杉光家」でちょうど餅

 

つき大会をしていた。そこには、地元の小さい子供達とその親たちでいっぱいであった。

 

私はその中では中途半端な年齢であったので非常に目立っていた。雑煮とおしるこをごち

 

そうになった。そこで、私は塩田町の歴史資料館にお勤めの「峯崎幸清さん」とであった。

 

私は例のごとく自己紹介をすると、峯崎さんは「何かのお役に立てるかもしれないので資

 

料館のほうへ足を運んでください。」とおっしゃった。私は次のステップがあると感じた

 

ので、「是非伺います」といった。

 

 

 

3.午後

 

 午後2時頃資料館へ到着すると、峯崎さんと資料館のスタッフ数名がすでに私を待って

 

いてくださった。私は今回の調査の目的をしっかりと説明した。すると峯崎さんは、実際

 

に住んでいる年輩の方と直接話をしたらいいとアドバイスしてくださって、何件か電話し

 

た後、塩田町の明円原に住んでいらっしゃる「霜村卓郎さん」(82歳:大正9年8月1

 

5日生まれ)と話が出きる機会を作ってくださった。私は全然予想していない事態に進ん

 

でいって、本当によかったとそのとき思った。霜村さんが到着なさってあいさつが済むと、

 

早速『あざ名、しこ名』について尋ねてみた。実際聞くことが出来たあざ名は2つしかな

 

かった。「イッピャイミズ(一杯水)」と「スズシロアン(賤四郎庵)」だ。一杯水の名前

 

の由来は、「仕事や旅路で疲れた人が飲んだ一杯のわき水」という意味でついたそうだ。

 

賤四郎庵は、寺関係から来たそうだが、詳しいことはよくわからなかった。その後、霜村

 

さんと峯崎さんと自分とで、約2時間いろいろな話しをした。霜村さんの生い立ちの話、

 

小さい頃の遊びや食事の様子、戦時中のことなど様々な話をしてくださった。やはり、霜

 

村さんは第二次世界大戦の激戦を生き抜いてきた方であるだけに、その話しはほとんどが

 

戦争のことについてであった。霜村さんは戦時中海軍に所属されており、船の修復作業員

 

として、船の修復に携わっておられたそうだ。戦後は、戦前までに従事してきた大工の仕

 

事とそこで磨いた様々な技術を生かして木工工場を経営なさっているとおっしゃった。今

 

とは当然ながら時代背景が全く違っていたため、どこか別の国の人と会話しているような

 

感じを少しながら抱いた。一通り話が終わると、霜村さんにお礼を述べてお別れした。峯

 

崎さんとはその後、現在のこの土地の様子、仕事の話しなどをして、いろいろ考えさせら

 

れた。まもなく集合時間が近づいてきたので、峯崎さんに感謝の気持ちと別れを告げて、

 

私の現地調査は終了した。

 

 

4.調査を終えて

 

 当初の不安を忘れさせるように、現地の人の生の声をしっかり聞くことが出来てよかっ

 

た。話をお伺いした3名の方々には、感謝の意を表されきれないくらいに本当に感謝して

 

いる。重ねてありがとうございました。

 

2001.12.28 赤木真賢