【藤津郡塩田町石垣】

「歩いて歴史を考える」現地調査レポート

1LA00050 岡本洋一郎

1LA00019 稲田 好晃

 

 

まず、私たちは手紙を送った小楠(おぐす)辰巳さんの家へ行きました。小楠さんは前からの土地の者ではないので、近所で詳しい人を紹介してもらいました。その人は永石さんという老夫妻でした。小楠さんはトラックに乗せて僕らを送ってくれました。

 僕達が「しこ名を調べに来た」というと、永石さん達は予想外に早く理解してくれました(特におばあちゃんの方)。しかし、小字の地図を見せたところ、「昔からこういう風に呼ばれている」と言って、初めはしこ名が出てきませんでした。そこで、とりあえず小字の呼び方をきいていきました。

山林の読み方は以下のとおりです。

 

  大谷ウータン

  七竹谷シッチクダニ

  長助平チョウスケビラ

  天狗平テングヒラ

  本願寺ホンゲイジ

  大木谷オオギダニ

  弁才山ベンザイヤマ

 

 次に、この村についての質問をいろいろしてみました。すると、瑞雲大龍神という宗教があることが分かりました。弁才山の麓に神社を持つ信仰宗教〔新興宗教ヵ:入力者注〕だそうで、部落の人たちとは関係ないと言っていました。

 この辺からおばあさんの方がしこ名を少しずつ思い出してきました(基本的におばあさんの方が調査の趣旨をよく分かっていて、とても助かりました)。おばあさんの話によると、大木谷の麓あたりを昔は「マルヤマ」と呼んでいたそうです。

 また、本願寺の北のあたりを「ゲヤマ」と呼んでいたそうです。

 二本椿の中には「フダシサン」というのをまつっていて、それは四国の八十八ヶ所まわるやつみたいに、この辺にもあるそうです。

 そして三本柳の一角に「オテンジンサン」というものがあり、菅原道真をまつっていて、1年に1回おまつりをしているそうです。

三本椿のあたりは、昔はもっと細かく区切られていて、シノカク、ゴノカク、ロクノカク(四ノ角、五ノ角、六ノ角?)と呼んでいたそうです。また、「ヘギノシタ」と呼ばれていたものも、そのあたりだったそうです。ゴノカクあたりの田んぼは「ジョウ」と呼ばれていたそうですが、意味はよく分かりませんでした。

 二本椿の山の麓らへんは「ヤマシタ」と呼ばれていたそうです。「たぶん、山の下にあるからだろう」と言っていました。

 次に、小さい頃の話を聞きました。おじいさんは子供の頃、独楽をしたり、「ムクロ」と呼ばれるビー玉のような遊びをしていたそうです。その話をしている時のおじいさんの顔はとても楽しそうで、その当時のおじいさんの遊んでいる姿が浮かんでくるようでした。 つつみの下では戦争ごっこもしていたそうで、どのようにしていたのだろうと、とても興味がわきました。比較して、今の子供たちの遊び方をきいてみると、ほとんどがテレビゲームばかりで、外で遊ぶ子供はまったくと言っていいほどいないそうです。イノシシなどがいて危険なのもあると言っていましたが、おじいさんの小さい頃のような遊びがなくなってしまったのは残念だなあと思いました。

 この辺は台風の被害が大変だったらしく、村に堤がたくさんあるのも納得できました。石垣溜池あたりの堤は「シンヅツミ」「ナカヅツミ」などと、もっと細かく呼ばれていたようですが、詳しい場所は分かりませんでした。

 二本椿のあたりの田は「マエダ」(前田?)と呼ばれていたそうです。「部落の前にあったからマエダ」と言っていました。単純な名前もあるのだなと思いました。

 弁才山の麓の所は「イノサカ」と呼ばれていました。

 村の人々の共有林は「大谷」「長助平」のあたりの山で、「ノウ」と呼ばれていました。部落の境界線ぎりぎりのあたりを共有林にしていたようです。

 昔からこのあたりは兼業農家がほとんどだったそうです。

家畜の話をきいてみると、動物は各家に農耕用の牛が1匹ずつぐらいいただけだそうです。今は豚やニワトリを飼って生計を立てたりする人や、兼業農家の人がたくさんいるそうです。それと、昔は大工さんのような職人さんもたくさんいたそうです。

ここで話が変わり、若者達が昔集まっていた所をきくと、「クラブ」という所におじいさん達がよく行っていたことが分かりました。今の「公民館」のある所にあったそうですが、そこでよく寝泊りもしていたそうです。結局、詳しいことは謎のままでした。

昔はよその部落から人が遊びに来るということはほとんどなかったらしく、「今の子供達の方が、行動範囲が広い」と言っていました。中学校が合併したことも原因のようです。昔の部落ごとの結びつきの強さを感じました。

少し話を変えて、カブト虫がいっぱい捕れるかどうかきいてみると、昔はよく捕って遊んでいたそうです。今はどうなのかきいてみると、やはり今の子供でカブト虫を捕っている姿を見かけることはないそうです。こんなにすばらしい自然が身近にあっても現代の子供達には意味のないことなのだろうかと思いましたが、このように周りに自然しかないからこそ、テレビゲームなどに走ってしまうのかなあとも思いました。村にテレビが初めてきたのは、もう40前〔40年前ヵ:入力者注〕のことで、その時の驚きはすごいものだったんだろうなあと、おじいさんとおばあさんを見てふと思いました。

 昔は田の真ん中辺に畑を作っていたそうです。栽培していたものは人それぞれだったそうです。

 県道から入ってすぐの所にある橋は「フナバシ」(船橋?)と呼ばれていました。昔、このあたりは海だったらしく、そこに船がとまっていたからそう呼ばれていたそうです。

 ここでインタビューは終了しました。永石さんは僕達に昼食をごちそうしてくれました(ちなみにメニューは冷やし中華とおにぎりでした)。忙しい中、話をしてもらって、とても感謝しています。また、地図もスムーズに読めるので、とても助かりました。

 もう一軒紹介されていたので、副島さんの家に行きましたが、おじいさんがお昼寝をしていて、残念なことに話をきけませんでした。

 帰りに、バス停の前の店のおじさんとも少し話をしたのですが、その人によると、この辺には、このあたり一帯を調べている先生がいたそうですが、すでに亡くなられてしまったそうです。その人が生きていればお話も聞けただろうに、と残念に思いました。

 

《感想》

 稲田好晃:はじめ、果てしなく広い田んぼと大きな山がそびえる場所にバスから降りた時は、本当に新鮮な驚きでした。福岡の中心部で大学に通っていると、めったに来ることのない所だったからです。しかし、現地の人達とふれあっている内に、なぜだか自分がずっと前からここにいたような落ち着きが得られました。おじいさん、おばあさんの話をきく中で、昔のこの辺の情景が目に浮かぶようであり、一つの村の歴史を身体で感じられたことはとてもいい経験になりました。このような機会を与えてくれた先生、村の人々に深い感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。

 

 岡本洋一郎:他人の家を訪れて話を聞くということは、今までの人生の中で経験したことがなかったので、良い経験になったと思う。

 正直、村の人には冷ややかな反応をされるだろうと、たいした期待もしていなかったが、村の人達は親切に応答していただいて、感謝している。

 あまり良いレポートとはいえないかもしれないが、歴史の調査に少しでも役立てば幸いです。



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